第7話 シリウスという名の

 シリウスは、それからも時折リヴィアに声をかけ、気にかけてくれるようになった。


 年齢が近いこと。ヴァルトから世話を頼まれていること。泣かせてしまったことへの罪悪感。どうしようもなく手のかかる妹のように思えてきたこと――彼の側にも、それなりの理由があったのだろう。


 リヴィアもまた、特別な好意は抱いていなかったが、敵意のないこの青年に、次第に心を開きつつあった。


「姫さん、そろそろ現実を見ないと……フェルシェルじゃ苦労しますよ」


 そんなふうに、彼はときおり助言をくれる。けれど、リヴィアの心はなかなか変わらなかった。

 幼い頃から刷り込まれた価値観は、そう簡単に崩れるものではない。


 それでも、いくつもの村を巡るうちに、彼女の中にも少しずつ変化が芽生えていた。


 あまりにも粗末な家々。破れた衣服をまとう人々。痩せ細った母と子どもたち。物乞い、行き倒れ――

 目の前に広がる現実は、シリウスが語った話が決して誇張ではないことを、嫌でも理解させた。


「姫さん。俺、次の村に駐在することになったっす」


 そんな折、シリウスが移送隊列を離れることが決まった。


 アレクシスの伝言やヴァルトの名声があっても、最終的には常駐の騎士たちが現地の管理を担う。

 その任に当たるのは、すべてベルグシュタイン公爵家に忠誠を誓う騎士たちだという。


「俺と別れるのは寂しいかもしれないっすけど、そろそろ独り立ちしたほうが自分のためっすよ」


 この数ヶ月、どれだけこの“シリウス”に助けられたか、リヴィアには言葉にできなかった。

 軽い口調に、美丈夫とは言いがたい見た目。けれど彼は、まるで兄のようにリヴィアに寄り添い、世話を焼いてくれた。


 そのことには、感謝してもしきれない。


「俺に惚れちゃダメっすよ。……正直、まったく好みじゃないっすから」


 胸の大きい、年上のお姉さんがタイプなんで――と、余計な一言さえなければ、彼は本当にいい人なのだと思う。


 荷を積む音が遠くに響くなか、リヴィアは少し距離を取って歩く彼の背中を見つめていた。


 言うべきか、聞くべきか――何度も迷って、何度も喉の奥で飲み込んだ言葉がある。


 でも、今聞かなければ。

 きっと、もう彼とは会えない。


「ねえ、シリウス」


 リヴィアが呼ぶと、彼は振り返り、いつもの軽い笑みを向けた。


「なんすか。泣き顔、見せるなら今のうちっすよ?」


「……あなたの名前、本当に“シリウス”なの?」


 一瞬だけ、風が止まったように感じた。

 けれどシリウスは、冗談も挟まず、まっすぐな声で答えた。


「本名っすよ。“シリウス・エヴァンス”――それが俺の本名」


「貴方と家名まで同じ名前の、金髪で青眼の騎士仲間って……いるかしら?」


「知らないっすね。シリウスって名前はまあまあいるっすよ」


 リヴィアは小さく息を吸った。やっぱり。

 けれど、その確信は彼女を安心させると同時に――リヴィアの“シリウス・エヴァンス”は最初から、この世のどこにも存在しない幻だったのだと悟らせた。


 アレクシスは、このシリウスから名前を借りて、自分に近づいたのだろう。

 万が一、リヴィアが調べても実在する人物であれば、「信じるに足る偽名」として成り立つ。


 ――あの日、わかっていたのだ。本当は。

 私は、幻に恋をしていた。幻想を、ずっと追い求めていた。


 リヴィアの初恋の相手は、最初から存在すらしていなかった。


 涙は、流したくなかった。


 無理やり笑顔を作り、リヴィアはたった一言だけ別れの言葉を告げた。


「貴方がいい人で、本当によかった。さようなら」

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