きみはママにならないで

さいか

きみはママにならないで

 出産に立ち会い、血で汚れたままの娘を見た瞬間、恐怖と喜びがあった。

 それらは混ざってはじけて、溢れて染めて。


 私はきっとそのときに。

 父親というものとして生まれ変わったのだと、そう思う。


 未だにあれを超える情動はなく、また、あれの中身を言語化することはできないままだけれど。

 私は日々を過ごしている。


-◇-


「有給消化、ですか」


 担当していた製品の開発が完了し、工場への引継会議が無事終了した、その日の昼休憩。


 食堂でチキン南蛮定食を食べていた私に声をかけたのは、同じくチキン南蛮を食べていた部長だった。


 部長の話はやや長かった。

 人事の主導するエンゲージメントうんたらに対する愚痴や、部下の働きに感謝しているなどなど。

 チキン南蛮の甘辛く、厚みのある肉を噛み締めながら話を聞けば、つまるところ『有給消化』の話であった。

 なお、部長はいい人であり、当該話でモチベーションが上がったことは事実であるが本件には関係ないので置いておくこととする。


 ということで有給休暇が降ってわいたのであった。


-◇-


 有給休暇、といえば平日である。

 娘も今年から小学生である。


 保育園は私が休みだと休みになったが、小学校はもう、私が休みでも娘は休みではない。


 となれば、どこかに遊びに行こうとなれば学校を休む必要があるわけで、となるとできるだけ授業や学校の活動に影響がない日取りを選ぶ必要があった。


「有給? おつかれさま」


 子供の寝かしつけを終わらせて休んでいる妻に相談すると、まずそのような言葉で労ってくれた。

 ありがたい。


「6月後半に入るとプールが始まってるから、そこは避けたいかな、楽しみにしてたし。あとは国語で音読会をやってたかな……」


「子供も色々忙しいなあ」


 食器を洗いながら予定を聞けば、中々に休みを取りづらいようだった。

 月曜日か金曜日に休みを取って連休にして遊園地などに行きたかったが、難しくなりつつある。


 ふともう一つの懸念に思い至る。


「そういえば、きみは? 休み取れる?」


「まあ、パートだからね。気にしないで大丈夫。早めに言ってくれれば休み取れるよ」


 第二の懸念、それは問題ないようだった。


 うーんうーんと唸り、皿洗いも終わらせて、カレンダーを二人で睨み、そして。


 七月七日。月曜日。

 七夕の日。


 その日は結婚記念日だった。


-◇-


 平日の午前中、助手席に妻を乗せて車を軽快に走らせる。

 後部座席のDVDをつけることはなく、車内に流れているBGMは二人でよく見たアニメのオープニングだ。


 行き先はやや離れたショッピングセンター。

 娘は2時半ごろには学校から帰ってくるから遠出は断念することになったのである。


 つまり、デートだ。

 日曜日に時折行く場所ではあるけれど。

 少し飽きた場所ではあるけれど。


 久しぶりでややきついオシャレ服に身を包み、妻にはスカートを履いてもらって。


 良さそうだね、と話していた喫茶店に入り、本屋で漫画やラノベをパラ見して。


 時間になったら見るのは映画。

 シリーズものの最新作。


 そうやって二人の時間を過ごしてみよう。

 今日だけは久しぶりに。


「きみはママにならないで」

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