風鈴
47
──夜。
茶の間に並べた四枚の布団。
空気はちょっと張り詰めていた。
虫の声も聞こえるのに、外の気配はそれを覆い隠すように重たい。
障子の向こうで、確かにあの「迎え」の気配が近づいてくるはずだった。
昨日までなら、壁際までにじり寄ってきていた。
だが──。
「……来ないな。こちらが『起きてる』からか?」
叔父さんが、低い声で呟いた。
眼鏡の奥の目が鋭く光る。
手の中の鉛筆は紙を叩きつけるように走り、やがてぴたりと止まった。
「記録と違う。昨日のこの時間──ここまで来ていたんだ。壁際まで……だのに、今夜は遠い。近寄れないのか、いや……近寄りたくないのか……!」
叔父さんの声が上ずり、千穂は少し驚いた。
(今日は静か……昨日みたいに怖くない。なのに叔父さんの方が……。なんで……?)
叔父さんは布団の上に膝をついたまま、ノートをめくり、早口に言葉を畳みかける。
「同じだ……同じなんだ! 澤田君の時と! あれも、奴らが捕らえきれなかった! なぜだ? なぜ逃れられた? 何故……澪だ、澪がいたからだよ!」
千穂は一瞬だけ息を止めた。
(タカミオが……そうなの? じゃあ、タカミオが来てから、来たから、変わったの?)
叔父さんは止まらなかった。
「高御尾か? 伊藤家か? いったい誰の物語が、どちらの物語が今、起きている!? いや……片方じゃない!それじゃあ説明が付かない。澪か千穂さんか──過去、現在……物語が融合している? 二つの系譜が、この地獄の口を狂わせているんだ!」
卓袱台を叩く音が響いた。
「今、ここに龍神がいるんだ! 本当に──確かにいるんだ!!」
千穂は布団の中で指を組み、考え込んだ。
(龍神がいる……叔父さんが言うと信じてしまいそう。でも──いたとして、それがタカミオ?じゃあ、私の物語は雪子の物語……?)
「龍神はいるんだよ、近寄ってこないのは神が──」
おばちゃんが茶碗をそっと置き、深いため息をついた。
「落ち着きなよ。子どもらが困ってるじゃないか」
叔父さんははっとして言葉を切った。
乱れた息を整え、額に手を当てる。
そして、恥ずかしそうに俯いた。
「……すみません。取り乱しました」
静かな虫の声が、戻ってきた。
外の気配はまだ遠巻きにうごめいているが、昨日のような迫力はない。
(怖くはない……けど、これからどうなるんだろう。私の印と、タカミオの印。叔父さんが言う二つの物語って、結局どういう意味なんだろう)
タカミオがぽつりと呟いた。
「……俺が龍なら龍でもいいんだよ。守らなきゃいけないのは同じだし」
「やっぱり……二人が関わってるんだねぇ」
おばちゃんは呆れ半分に言いながらも、どこか納得したように頷いた。
「叔父さんがああやって荒ぶるの、俺、初めて見たよ」
タカミオの茶化すような声に、叔父さんは布団の端で頭を下げるように肩を丸めた。
「……恥ずかしい限りです。ただ……今、確かに神の片鱗に触れた気がしたんだ。研究者としては否定しなきゃいけない。だが、いる……そうとしか言えない」
茶の間の空気は重くも、不思議な安堵を帯びていた。外はまだざわめいているのに、四人で並んだ布団の内側は守られているような感覚があった。
千穂は目を閉じ、胸の奥で問いを繰り返した。
(……守るっていうのは、どういう意味?私? それとも……この村全体? 龍神は、本当にここにいるの?)
遠い雨雲が雷を含んで光ったのか、障子の外が一瞬だけ白く滲んだ。
迎えはまだ来ている。
けれど、少し遠くにいる──叔父さんのいう通り入ってこれないのか。
(それがもし、タカミオの物語なら──私は、この先どうしたらいいんだろう、どうするべき?)
チリン、どこかで風鈴が鳴った。
(…………今は五月。最近よく耳にするけど、風鈴なんてまだ見てない……)
「風鈴」
千穂は思わず声に出してしまった。
「風鈴なんてまだだよ」
おばちゃんは、幼児をあやすような声で言い、笑った。
……だがすぐに眉を寄せ、首を振った。
「うち、まだ出してないんだよ。物置にしまってあるはずなのに」
茶の間の空気が凍った。叔父さんも鉛筆を止め、眼鏡の奥の瞳を細めた。
「……千穂さん、風鈴の音は今が初めて?」
「いえ……ここ数日、何度か。さっきアレっと思っただけで気にもしてなくて……」
その瞬間、今度は全員の耳に届いた。
──チリン。
外から、確かに涼やかな音が響いた。
叔父さんとおばちゃんは、息を呑んだ。
「やっぱり……聞こえてる。出してないんだよ、まだ。出してないのに……」
「僕にも聞こえるんです……」
千穂の心臓が跳ねた。
(風鈴……結界の音?)
叔父さんが低く、しかし熱のこもった声で言った。
「伝承にはよくあるんだ。風鈴の音は境界を守る音とされてきた。夏の虫除け、厄除け……音が魔を払う、と。龍神が結界を張っているなら、こうして聞こえても不思議じゃない」
「じゃあ守られてるってこと?」
千穂の声は震えていた。
叔父さんは頷きかけ──しかしすぐに眉をひそめる。
「だが……逆もある。ずる賢いやり口だ。過去の文献には、外のものが『音』で誘ったという記録が残っている。赤子の泣き声、親しい者の声。夜にふらりと外へ出た者は、そのまま戻らなかった」
おばちゃんが青ざめて呟いた。
「……昨日聞いたんだよ。子どもが夢遊病みたいに夜中に歩いてたって。あれは裏山に向かっていたのかい?幸い親がすぐ気がついたみたいだけど──」
叔父さんは頷き、声を落とす。
「そう、自分の意思で進んで外に出たら、贄として合意したと見なされる。無理やり引きずり込むのは、奴らにとってもリスクがあるんだ。抵抗される、仲間に気付かれる。だからこそ誘い出したい。風鈴の音にしても……境界を示す結界であると同時に、誘い出すための擬態かもしれない」
千穂は両手を握りしめた。
(じゃあ……もし私が音につられて一歩でも外に出たら、それで終わり……?)
「有名な話だと、吸血鬼がそうだな」
叔父さんは声を潜め、茶碗を見つめながら続けた。
「奴らは無理やり家に入れない。必ず招かれなきゃいけないルールがある。だから窓辺に立って『入れてくれ』と囁く。招いた瞬間、抵抗できなくなる。……回りくどいようだが、自分から合意させた方が確実なんだ」
おばちゃんは両腕を抱え込み、身を震わせた。
「怖い話だねぇ……でも筋は通る。無理やりじゃなくて、自分からっていうのが」
叔父さんは唇を引き結び、言葉を断ち切った。
千穂は布団の上で膝を抱え込み、冷たさを押し返すように額を埋めた。
(風鈴の音……守りか、誘いか。どっちなのか)
そのとき、隣の布団から低い声がした。
「出るなよ」
タカミオだった。左手に浮かぶ痣をじっと見つめたまま、短く呟いた。
「どんな音がしても、どんな声がしても。絶対に」
千穂は息を詰め、頷いた。
(うん……絶対に出ない。たとえタカミオに呼ばれたとしても、だ)
涼やかな風鈴の音は、しばらくの間続いていた。
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