『澪』

46

翌日、また昼を過ぎたころに茶の間に戻ってきたおばちゃんは、顔を曇らせていた。


「井戸がかれた家が三つに増えてる。それと、夜に他の家の子どもの夢遊病みたいに出歩いてたって」


湯呑みに茶を注ぐ手が、わずかに震えている。


「犬もね、裏山の方を向いて吠え止まないんだってさ。だけどうちには吠え声なんて聞こえてないじゃないか……。あんなにやかましい犬なのにさ」


「集団ヒステリーという現象もあるけれど……話半分としても、無視は出来ない異変だと言える……」


叔父さんはちゃぶ台に広げたノートに鉛筆を走らせていたが、やがて手を止めて眼鏡を押し上げた。


「……兆しが強まっているな。千穂さんを呼びに来ているけど、まだ捕まえられない。だから周囲に揺らぎが出ているんだろう。仮定ばかりで申し訳ないけれど」


「でもさ、本当なら千穂じゃなくて澤田が標的だったんだろ?何で千穂になったかが説明出来ないよな」


タカミオが、千穂がずっと思ってたことを呟いた。


「なぜ澤田君が助かったのか。今までになかったものが加わったからだと思う。それは新学期に澪がこの地に来たから──そしてタカミオ、神の真名が付いた。これは伝承的にはとても強い理由だけど──立証は出来ないけどね」


「うーん、立証。研究者としては必要なんだよな?」


叔父さんはじっとタカミオを見つめた。


「そうだね。論文だと根拠が必要。明確な証拠がなくても『何故そういう推論になったのか』という経緯と根拠を提示しないといけない」


「推論の、証拠?」


「変な話だけどね、そういうものなんだよ。そして、民俗学的には真名は──中々強い経緯、だよ」


「民俗学的にはって?」


「神や妖怪の物語では、真名を知られると支配される/真名を与えると縁が結ばれる──よく聞く話だろう?」


タカミオも叔父さんと揃いのノートにアレコレ書き連ね始めた。


「つまり、龍神のせいで地獄の口のルールが変になったってこと?」


タカミオが叔父さんに尋ねる。


「澪も研究者っぽくなってきたじゃないか。──可能性としては一番高いね」


千穂は正座したまま、靴下の上から右足を押さえた。

痣がじんわりと熱を帯びている気がする。


(やっぱり……伊藤家の私のせい。迎えに来てるから、村全体が揺れてる……)


そのとき、タカミオが低く口を開いた。


「……夜は、俺も千穂と同じ部屋にいる」


茶碗を持ち上げかけたおばちゃんが、目を丸くして言った。


「なに言ってんだい! 中学生の男女が同じ部屋なんて、田舎じゃ通らないよ!嫁の貰い手がなくなっちまう」


叔父さんも眼鏡の奥で目を細めた。


「私も、観察者としては興味があるが……常識的には認められないな」


それでもタカミオは視線を逸らさず、左手に浮かぶ痣を見つめながら言った。


「印が推論通り、対だとしたら。離れたら、意味がないんだ。……守れって、ずっと感じてるんだよ」


千穂は胸が熱くなり、思わずうなずいた。


(同じ……私も、ひとりじゃ立ってられない。並んでいたい)


おばちゃんはしばらく口をつぐみ、やがて溜息をついた。


「……じゃあ、茶の間に布団を並べなさい。全員同じ部屋なら、誰にも文句は言わせない」


叔父さんはうなずいてノートを閉じた。


「観察もしやすいし、安全でもある。合理的だね」


夕方、千穂は茶の間に四人分の布団を敷いた。

畳の匂いが立ち上り、窓の外には濡れた風が流れていく。


夜。障子の外で虫が鳴き、柱がきしむ。

千穂は布団に横になり、右隣におばちゃん、左隣にタカミオの気配を感じながら、息を整えた。


(迎えが来ても……今日は、この距離なら大丈夫)


胸の奥に小さな安堵が灯る。

それでも足元の痣はひやりと冷たく、闇の奥に何かが蠢く気配は消えていなかった。


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