第20話 きみのかたちに

 教室では相変わらず、女子たちが陽南語録ノートを囲んで、にこやかに談笑していた。

 彼女たちにとってそれは、日課というより、お祈りに近いものに見えた。

 その女子たちの輪の外で、それを見ていた優花が、通りがかりにぽつりと呟いた。

「なんで……みんな、陽南の話ばっかりなの?最近ちょっと……のめり込みすぎじゃない?」

 その声は小さかったが、その場の空気が止まるには、十分だった。

 語録ノートの輪にいた女子たちが、一斉に優花を見た。ただし、誰も何も言わない。笑顔を浮かべたまま、じっと、無言で優花を見つめている。

 優花はその空気にいたたまれなくなったのか、目を伏せ、その場からそっと離れていった。


 それから少し時間が経ったあと、石川が俺の席にやって来て、こっそりと耳打ちをしてきた。

「なあ、聞いた?高野が、陽南の悪口を言ってたって」

「はあ?……悪口?」

「詳しくはわかんないけど、千尋たちが騒いでたんだよ。高野、嫌なことでもあったのかね。翔太郎、なんか知らない?」

 もちろん、俺は何も知らなかった。だがよく考えると、思い当たる節がひとつだけあった。

「もしかして、さっきの……あれか」

 優花が、さっき女子の輪に投げかけた問い。あれが、陽南を否定する悪口にとらえられたのか。 

「あれは、悪口って感じじゃなかったぞ?単に、みんなが陽南に夢中なことが疑問というか、なんで?みたいな」

「え!?それは悪口って言われても仕方ないじゃん。だって、そんな当たり前のこと、わざわざ聞く話じゃなくない?」

 それが当たり前という感覚が、俺にはよくわからなかった。俺が優花の立場でも、同じことを聞いたはずだ。

「そ……そんなもんかね」

 たぶん、今この話を真剣にしたところで、石川や他の皆とは、恐らく会話にならないだろう。

 この教室では、陽南に対して疑問を持つこと自体が、クラスの輪から外れることと同義になっていた。

 それを、誰も言葉にしない。ただ、全員が理解している。



 放課後、部活へ行こうとしていた優花の机の周りに、中村を中心とする女子たちが集まっていた。

「ねえ優花。今日のあれさ、どういう意味だったの?もしかして、ヒナのこと……嫌いなの?」

 中村の少し圧のある問いかけに、優花は戸惑った表情を浮かべる。

「え、違うよ!……そんなつもりじゃないよ。ただ単純に、気になっただけで」

「そっか、ならいいんだけどさ。ヒナはね、みんなのために頑張ってるから、それを優花が否定したのかと思って、ちょっと心配になっちゃって」

 言葉は優しかったが、その目は笑っていなかった。

「……私も、陽南のこと、すごいと思ってるよ……けど」

「けど、なに?」

 言い淀んだ優花の声に対して、女子たちの間にぴりっとした空気が走る。

 俺は、その場の空気にたまらず口を開いた。

「おいおい、なにピリピリしてんだよ。こういうのこそ、陽南が悲しむんじゃないのか?」

 女子たちは沈黙し、やがて顔を見合わせて、中村が少しだけ間を置いてから、こちらを見る。

「確かに、世良くんがそう言うのなら……そうだね」

 そのまま中村たちが散っていったあと、優花は下を向いたまま、少し震える声でつぶやいた。

「偉いんだね……陽南の隣にいる人は」

 皮肉めいたその一言に、俺は何も言い返せなかった。

 俺もまた、他の女子たちと同じように、自分の言葉で話さず、陽南の名前を借りて、自分の主張を正当化してしまっていたことに気づいた。



 その帰り道、陽南と二人で並んで歩いていたとき、俺は意を決して口を開いた。

「最近さ……優花がちょっと、周りから浮いてる気がするんだ。なんか、助けてあげられないかなって」

 陽南は、いつもと変わらぬ笑顔で言う。

「優花は、少し迷ってるだけだよ。でも迷いがなくなれば、きっと心は救われると思う。だから、今はただ、一緒に見守ってあげよう?」

 その見守るという言葉に、心がざわついてくる。

「……見守るだけじゃ、何も変わらないだろ?具体的にどうすればいいのかが聞きたいんだよ。救われるって、どう救われるんだよ」

 俺が少し強めの口調でそう投げかけると、陽南は立ち止まり、穏やかに答える。

「優花の心は、私を拒んでる。だから、私はいま、優花に何もしてあげられない」

 そう言い切った陽南に、俺はそれ以上、言葉を発することが出来なかった。

 今の俺は、陽南の存在がなければ、壊れてしまう。だけど、それが優花を追い詰めているのだとしたら、俺はまた、自分を守るために、誰かを犠牲にしているんじゃないのか。あのとき、治樹にそうしたように。


 翌朝、俺は覚悟を決めて、優花に声をかけてみることにした。

「優花……あのさ」

 しかし、優花は俺をチラリと見ただけで、そのまま通り過ぎた。

 振り返っても、その背中を見送るしかできなかった俺の背後には、ひどく冷たい風が吹いている気がした。



 それからしばらく経った、ある日の朝、教室にざわめきが走る。

「え……高野?あれ、髪切った?」

「なんか、優花がヒナちゃんっぽくなってない?」

 登校してきた優花は、あの長く光り輝く髪を切り落とし、ボブカットになっていた。ゆるやかな内巻きで、どこか陽南に似ていた。

 それだけじゃない。メイクも柔らかくなり、制服の着こなしにしたって、どこを取っても陽南を思わせるような雰囲気に変わっていた。

「わぁ、優花、すっごく似合ってる!かわいいよ!」

 陽南が、優花のもとへ駆け寄り、満面の笑みでそう声をかける。

 優花は、陽南を見ると、小さく笑って言った。

「ありがとう……私も、変わりたくなったんだ」

 その笑顔は、陽南に認められて嬉しいというより、安心を得たような微かなほころびだった。

 俺は、その光景を少し離れたところから見ていた。

 胸の奥の何かが、壮大に崩れていくような絶望を感じながら。


 ついに、優花まで、こっち側に来てしまった。

 いや、そうするしかなかったのかもしれない。

 もはや、これは正しさなんかじゃない。でも、俺にはもう、何も言えない。言える資格もない。

 そう思った瞬間、自分の中にあった感情のすべてが、凍りついてしまった気がした。


 俺のクラスは、もう形を変えて、別のものになっていた。

 俺がそれを望んだのか、それとも陽南が、これが俺の望む世界だと信じたのか。


 どちらにせよ、その変化を、俺は止められなかった。ただ、黙って見ているしか、なかった。

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