第19話 やさしさの毒

 陽南が、このクラスを『いいクラスにする』と宣言してから、少しの時間が経った。

 夏の名残も、気づかぬうちに抜け落ちてきて、肌にまとわりつくものが減ってくると、心のざらつきも徐々に薄れていく気がした。

 それもあってか、教室に向かう足取りは、今日は少しだけ軽くなっていた。

 そのまま教室に入ると、俺はまず、教室の後ろにある、派手な掲示物に目を奪われた。

 黒板の脇に空いていたスペースが、昨日まではなかったはずのもので飾り立てられていた。

 『ヒナ様語録』と手書きされたタイトル。その周囲には、レースの縁取りやカラフルな折り紙の花、さらに小さなLEDライトまで貼りつけられていて、まるで文化祭の展示か何かのようだった。

 その中央には、ラミネートされたカードがいくつも並んでいる。

 『大丈夫、あなたなら絶対出来る!』『今日も誰かのために、笑ってみよう』『心の扉は、内側からしか開けられない』

 それら語録カードの一つ一つに、手描きのイラストや装飾が施されている。

「この言葉、昨日ヒナがあんたに言ってたやつだよね」

「わかっちゃった?……私これ言われたとき、マジで元気出たもん」

 女子たちがスマホを掲げ、語録カードを写真に収めている。その表情は、どこか神妙ですらあった。

 思わず言葉を失う。これでは、ただの“掲示”じゃなくて、まるで、神様からの“啓示”みたいじゃないか。

 でも、俺はその気持ちを言葉として発することはできない。

 ただ黙って、その祭壇のような掲示板を見つめるしかなかった。


 ホームルーム前になると、今度は中村と数人の女子が、教室の前方に移動し、『今日のひとこと』を唱え始めた。

「今日も、だれかに優しくするって決めた私を、私は好きでいよう」

 女子たちが、こんな朝礼みたいなことをやっている姿を初めて見た。

 さっきの語録カードもそうだが、クラスの中で突然、妙な習慣が発生していることには、少し不安を覚えてしまう。

 ただ、周りはそう感じてはいないようで、石川なんかは、さっきの女子たちの言葉に、笑いながら乗っかっている。

「じゃあ今日も、俺に優しくして?」

「……うん、そうする」

 中村が照れ笑いを浮かべながらそう返すと、周囲がどっと和んだ。

「いい言葉だね」「なんか、心が洗われる感じ?」

 クラスが、ほんのりとした温度に包まれる。

「だんだんと、優しいクラスになってきた感じで、私も嬉しいな」

 背後からそうささやいたのは、陽南だった。

 俺は驚いて思わず振り返る。

「陽南は、この感じが、優しさだと思うのか?」

 陽南は、俺の疑問を見透かしたように微笑んだが、その問いかけに対しては、何も言わなかった。



 その日は、休み時間になる度、女子たちが机を囲みながら、“陽南語録選定会”で盛り上がっていた。

「『心の扉は、内側からしか開けられない』、これ昨日作ったやつでしょ?」

「そうだった。別の候補はないかな?」

「えー選べないよ。ヒナちゃんって、ほんと名言製造機だから」

「このノート、ウチらの人生の教科書だからね」

 表紙に『内野陽南語録ノート』と書かれたそれは、花柄で装飾されているが、それに似合わぬくらい、中身はびっしりと文字で埋められていた。

「世良くんも一緒に選定しない?彼氏さんの意見も聞きたいんだけど」

 俺に気づいた女子の一人に、そう誘われたけれど、俺は曖昧に笑って席を離れた。

 あのノートは、さしずめ“聖典”といったところだろうか。 こうなると、不安を通り越して呆れてしまう。

 しかし、ふと別の考えも頭をよぎる。

 俺も、陽南の言葉に救われたじゃないか。それを信じる人間が増えることは、別に悪いことじゃない。



 放課後。教室に残った数人が、俺と陽南を囲んで雑談していた。

 そんな中、陽南が静かに言った。

「ねえ。昨日、誰か……つらいこと、なかった?」

 一瞬、空気が凍る。

「どういうこと?」と誰かが尋ねると、陽南は、静かに言葉を続けた。

「なんとなく、誰かの心が、ちょっとだけ乱れてる気がして。色が、少し濁って見えたんだ」

 その言葉に、男子のひとりが震える声を漏らす。

「……俺、かも。昨日、母さんと喧嘩して、そこから口利いてないんだけど……ずっと謝りたくて」

 陽南はゆっくりと頷く。

「きっと、それだよ。大丈夫。ちゃんと謝れば、お母さんは受け入れてくれるよ」

 そう言われた男子が激しく頷くと共に、周囲にざわめきが広がる。

「ヒナちゃん、やば」「マジで……オーラとか見えてるんじゃない?」

 周りにいるクラスメイトたちの目が、畏怖と尊敬に染まっていく。

 陽南が振り返り、俺を見た。

「翔太郎の心は、今日も曇り空だね。でも、すぐ晴れる。私、信じてるから」

 俺は、もう返す言葉を持っていなかった。



 帰宅後、俺は自室のベッドにそのまま横になると、じっと天井を見つめた。

 陽南は、俺のことを想ってくれている。

 みんなの前でも、俺のことを印象良く語ってくれている。

 でも、あれは本当に俺のためなのか。陽南は、今やクラスの救世主だ。

 やはり俺という存在は、その正しさを裏付ける理屈の一部にされているだけなんじゃないか。

 陽南にとって都合のいい、物語の始まりとして、ただ使われただけなんじゃないか。


 それでも、俺は、陽南を否定できなかった。


 陽南を否定することは、俺自身を否定することだから。

 あの日、陽南の告白を断れず、治樹を見殺しにしてしまった——俺を。

 その選択を正当化するために、陽南という存在が必要だったんだ。


 だから、信じることにしたんだ。陽南の言葉を、陽南の世界を。

 でもそれなのに、どうしてだろう。

 あんなにも優しいはずの言葉が、俺の胸を締めつけてくる。


 優しさって、こんなに、苦しいものだったのか。

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