第14話 切り替わりの間
キャンプから帰ってきたその日、俺は自室の机に突っ伏したまま、何もする気が起きなかった。
疲れているはずなのに、眠くはならない。むしろ、やけに頭が冴えているくらいだ。
内野の告白の言葉が、ずっと、耳の奥で繰り返されていた。
『翔太郎くんのことが、好き』『付き合ってくれないかな?』
それは、どこまでも素直で、まっすぐな告白だった。
自分を飾り立てるような雰囲気作りも、変な言い回しもなく、ただ、自分の気持ちをそのまま伝えてきた。
なのに俺の心は、それに対して素直に反応出来ていなかった。
海の風も、笑い声も、花火の匂いも、あの言葉が、全部を上書きしてしまったような気がしていた。
楽しかったはずの時間が、急に輪郭を失っていく。
浮かび上がるのは、あのときの内野の顔だけだった。
ふと、嫌な記憶が頭をよぎる。それは中学二年生のとき、今日みたいな蒸し暑い夏に起きた出来事。
ある日、クラスの中心だった女子、
三科は、容姿が良く、自信家で、口も達者だったので、いつもクラスメイト達に囲まれていて、教師ですら気を遣うタイプだった。
そのときの俺は、今より少し自分に自信があり、周囲に対して警戒心もなかった。
三科とも、気取らずに話せるくらいの、近しい距離感を持っていた。
そんな彼女に、唐突に告白された。
「世良のこと、前から気になってたんだよね。よかったら、私と付き合ってみない?」
三科は、少しいたずらっぽく笑って、そう言った。
でも、俺は、その場で断ってしまった。
「ごめんね。悪いけど俺、今そういうこと、考えてないんだ」
別に、三科が嫌いだったわけじゃない。他に好きな人がいたわけでもない。
ただ三科とは、今の距離感でちょうどいいと思っていたし、気持ちに応えられるほどの理由がなかっただけだ。
でも、その翌日から、クラスの空気は一変した。
「世良ってさ、空気読めなくない?」「絶対に調子乗ってるよね、あいつ」
教室の端々で交わされる、女子たちの小さな会話。内容はどれも、俺への悪口だった。
俺が視線を向けても、目も合わせてくれない。
当の三科は、それに対して、特に何も言わない。ただ、こちらを見てうっすらと笑っていた。
ついには、三科を恐れた男子たちからも距離を置かれるようになり、教室内での俺の居場所が、あっという間になくなった。
タイミングの悪いことに、その年に限っては、優花も治樹も別のクラスで、お互い何が出来るわけでもなかった。
俺は、ただ正直に答えただけだったのに、たったそれだけで、その年の日常を失ってしまったのだ。
このときから俺は、“空気”ってやつが、この世で一番怖いものに変わった。
それを思うと、内野の告白が怖かった。 決して嬉しくないわけじゃなかった。だけど、それ以上に怖かった。
内野は、素直で、ちゃんと人の話を聞くし、明るくて、誰にでも分け隔てがない。だから今のクラスは、内野を中心にして回ってる。
それでも、内野にも三科と同じ雰囲気を感じることもあった。だからこそ、俺は当初から彼女を警戒していたんだと思う。
もし断ったら、彼女は豹変するかもしれない。そして空気が、再び壊れるかもしれない。それに、今度の相手はクラスの女王様じゃなく、クラスの女神様だ。その期待を裏切ってしまうとしたら、あのとき以上の苦しみが、俺に降りかかるかもしれない。
頭を抱えたそのとき、治樹の顔が浮かんだ。
あいつはずっと、内野のことが好きだった。
あいつが今、もしこのことを知ったら、どう思うだろうか。俺がもし自身の空気を守ることを選んだら、あいつとの仲が壊れるかもしれない。
でも少し前、内野から告白されることがあれば、俺はそれを受けると宣言した。
治樹は、ありえない冗談だと笑ったし、俺もそのつもりで発言したことだけど、それが現実になった。そんな奇跡が起きたのだとしたら、これはもう仕方のないことなんじゃないか。
あいつも、告白してスッキリしたと言っていたし、こうなったらもう、受け入れてくれるんじゃないか。
そんな都合のいい言い訳が、頭を駆け巡る。
頭の中で、内野と治樹の顔がぐるぐると渦を巻いて、答えを出すのが、余計に怖くなった。
でも、時間だけはどんどん過ぎていく。
そして、そのまま数日がたった、夜。
俺はついに、スマホを手に取り、内野の連絡先を開いた。
指先が震える。画面が手汗で滲む。それでも、意を決して、送った。
『この前の告白のことだけど、いいよ。俺でよければ』
指を離した瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
まるで、何か取り返しのつかないことをしたような感覚だった。
内野からの返信は、思ったよりもすぐに来た。
『うれしい!ありがとう!これからもよろしくね!』
内野らしい、明るい文面だった。読んだだけで、表情が浮かぶ。
俺は、続けてもう一通だけ送った。
『でもこのことは、クラスのみんなには内緒にしておこう。内野と俺が付き合ってるって知れたら、クラスが大騒ぎになると思うから』
少しだけ時間があいて、内野の返信が再び届く。
『うん、大丈夫!秘密にしとく!今度は、直接会って話そうね!』
特に含みもなく、あっさりとした返事だった。
俺はスマホを伏せ、深く息を吐いた。
どこにも出口がないような息苦しさだけが、部屋の中に残っていた。
言ってしまった。やってしまった。 ついに、始めてしまった。
俺はこれから、どうなるんだろう。でも、俺にはこうするしかなかったんだ。
夜の静けさの中、窓の外を見上げると、月が白く浮かんでいた。
その光は、何も知らないふりをしているかのように、ただ俺を照らしていた。
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