第9話 火のない蝋燭
今日は珍しく、いつもよりスムーズに通学が出来たせいか、少し早めに学校に着いた。
だが、扉を開けると、今朝の教室は、いつにも増して静かだった。
テスト期間中だから、ということもあるかもしれないが、それでも不気味なほどに静まり返っている。
皆の動きが止まっているというわけじゃないし、筆記用具の音も、椅子を引く音も、確かに鳴っている。会話をする声だって、少しだが耳に入ってくる。
でも、その静寂が、まるで何かが起こる前触れのように感じられて、俺は息苦しさを覚えた。
俺が教室に入ったあと、再び扉が開く音に、全員の視線が自然と動く。
「おはよー!」
内野が手を振りながら、笑顔で教室に入ってきた。彼女は、普段と同じように、ただ教室に入ってきただけ。
ただ、その瞬間、周りが急にささっと動き出して、彼女が通る道が開いた。
そして、皆の声が少しずつ大きくなり始め、周りの微笑みと、それぞれの呼吸が熱を帯びてくるのを感じた。
別に内野が、そうしろと指示したわけじゃない。
そうすることが正しいと、クラスの誰もがわかっている空気だった。
内野が自分の席につくと、すぐに女子たちが声をかけ、それに混ざって、男子たちも何気ない話題を振る。
その流れが、自然で、まるでしっかりと噛み合った歯車のように、滑らかだった。
同じような挨拶、同じような反応。それが繰り返されて、会話が構築されている。
でも、誰も違和感を感じることもなく、心からの笑顔で、内野に接しているように見える。
二時間目の国語。担任の田辺が、教科書の文面の音読に、内野を指名した。
「じゃあ、次、内野。五十九ページ目の頭から読んで」
立ち上がった内野は、すらすらと、落ち着いた声で本文を読み上げていく。
滑舌が良いとか、抑揚があるとか、そういう言葉で説明出来る感じではなく、ただ、綺麗な声だった。
その声が、空気に染み込んで、誰もが息を潜めて聞いている。
読み終わった瞬間、最初は女子のひとりが、ぱちぱちと拍手をした。
それに他の数人が続き、やがてクラスの大多数が、自然と手を叩いていた。
俺は、なんとなく手を叩けなかった。
田辺は、少し笑って口を開いた。
「このクラスは、内野がまとめ役になってくれてるんだってな?クラス全体がいい雰囲気だし、先生、すごく助かってるよ」
田辺の優しい口調に、教室はまた少し笑い、肯定の空気が広がった。
教師まで肯定するなら、これはもう正しいクラスの在り方なんだ。俺が感じてる、変なクラスだなんて訴えは、もう誰にも届かない。こうなっては、いよいよおかしいのは俺のほうなんだと、思うしかなかった。
教師は、公平で、もっと客観的に、生徒を上から見てくれている存在だと思っていた。
その教師ですら、この内野が作り出した空気に染まっている。
もう俺の逃げ場なんて、どこにもないじゃないか。そんな考えが、頭をかすめた。
放課後、俺は治樹の誘いを断り、無言で教室を出て、意味もなく図書室へと向かった。
理由はない。いや、ありすぎて逆に言葉に出来ない。
今日はこのまま、誰とも話したくなかった。ただ、内野が中心にいるクラスから、どうにか逃げ出したかった。
図書室に入り、フラフラと本棚を見ていると、その先には橋本がいた。
相変わらず無表情で、こちらをチラリと見たかと思えば、すぐにまた視線を別の方向へ動かした。
「……今度は、なに読んでんの?」
俺が軽く尋ねると、橋本は黙ったまま、手に持った本の表紙をこちらに見せた。
「えーと、『そして私は天丼を食べに行く』......ああ、知ってるよ。最近ドラマ化された、人気のグルメ小説だよな。そんなのも読むんだ。なんか、お前ってラノベしか読まなさそうなイメージだったから、ちょっと意外だよ」
俺がそう言った瞬間、橋本の目が細くなった。
「人に勝手なイメージ持って、そのイメージで、読んでる本のことまで決めつけるの?」
「あー……ごめん。それは俺が悪かった」
素直に謝ると、橋本は小さくうなずいた。
「君も、今日は一人なんだね。なんで?……せっかく“そっち側”にいるのに」
「どういうことだよ?」
そう聞き返しながらも、橋下が言いたいことは、なんとなくわかった。
橋本は、首をフルフルと横に振りながら、少し下を向く。
「……お前はいいよな」
たぶんこいつは、目の前に本があればそれでいいのだろう。クラスのことにも、内野のことにも、ほとんど関心がない。
そういう人間が、今の俺には、本当に羨ましく思えた。それが、そのまま口から出てしまった。
「そう?じゃあ君も、本の世界に入るといいよ。まあ……無理にとは、言わないけどね。じゃあ、また」
橋本は本棚に目を戻し、静かに歩き去っていく。
そう出来ればどんなに楽か、と思ったが、橋本はそれをわかってて、そう言ったんだとも思った。仮に見抜かれてたとしたら、悔しいけど、その通りだと思う。
改めて周りを見回すと、図書室の空気が、まるで別世界のように思えてくる。ここには、ただ本と、静けさがあるだけだった。
カバンを置いて出てきてしまったので、教室に取りに戻る。
教室の中では、数人の女子たちが、何かの紙を手に持ちながら盛り上がっていた。
近づいてみると、それはプリントの束。中身は、誰かのノートのコピーだった。
「それ、なに?」
俺が声をかけると、一人の女子が笑顔で振り返った。
「これ?これね、ヒナ様のノート!めっちゃわかりやすいんだよ。まとめ方も丁寧で、図とかも入ってて、超ありがたい。世良くんもいる?」
「……ヒナ様?内野のこと?」
言葉に詰まりながら聞くと、彼女は、真顔でこちらを見つめる。
「え、うん。そう呼んでるけど?」
「それ……内野が、コピーしていいって言ったの?」
「いや、言ってないけど?……でも、ヒナ様がこんなことで怒るわけないじゃん。逆に、役に立ってるようで嬉しいって、喜んでくれると思うけど」
彼女は、表情を少しも変えずに、そう答える。
まるで本当に、内野ならそう言うだろうと、確信してるようだった。疑いもなければ、ためらいもない。
内野の知識を無断で写し取り、それをみんなで分け合う。 そこに、罪悪感なんて微塵も存在しない。
段々と怖くなって、俺は「そっか」とだけ言って、会話を切り上げようとする。
気づけば俺は、その場から一歩、退いていた。
教室の笑い声や、ノートを覗き込む姿。全てが楽しそうで、無邪気だった。
それが、余計に怖かった。
帰り道、イヤホンをつける気にもなれず、俺はただ、呆然と歩いた。
教室で起きていることは、もう偶然じゃない。
完全に、内野を中心に据えて、それぞれが自分勝手に、それを信じている形になっている。
誰が最初に言い出したのかなんて、もうどうでもいい。
今は内野を信じることが、当たり前になってる。
それを疑うことのほうが、ここでは非常識で、異常で、敵視される。
俺はもう、その空気に、逆らう勇気を失っていた。
橋本みたいに、何も感じずにいられたら。そうは思っても、俺には、出来ない。
俺はもう、“クラスの外”には、いられない。
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