第8話 伸びた手を
高校に入学してからは初となる中間テストが近づき、教室の空気はいつになく、少しピリついている。
一応この学校は、この地域でも、そこそこの進学校として認知されているためか、勉強に対する意識の低い生徒の方が少ない。
全体的に静かで、筆記用具を動かす音ばかりが聞こえる。普段はお喋りなやつも、この期間はさすがに自重モードだった。
そんな中、俺の斜め前でノートを開いている優花だけは、どこかいつもと変わらない空気をまとっていた。
落ち着き払っている、というか、もはや余裕すら感じる。
中学のときから、俺もそこそこ成績には自信があった。けど優花には、これまで一度も勝てたことはなかった。
さすが強者の余裕といったところか。つい、そう思ってしまう。
放課後直前、教室でテスト対策用のノートをまとめていた俺の横から、内野が、少しそわそわしたような表情をしながら話しかけてきた。
「ねえ、翔太郎くん……ちょっといい?」
突然の呼びかけに、思わず手が止まる。
「ん?いま、翔太郎くんって言った?」
今までは、世良という名字で呼ばれてたはずなのに、いつの間にか名前呼びになっていた。気づかないうちに自然と距離を詰めてくる、この内野のコミュニケーション能力の高さには、頭が下がる。
「そうだよ。あなたは翔太郎くんでしょ?......それより、さっき治樹くんから聞いたんだけど、翔太郎くんって、すごく勉強が出来るんだって? 今日、部活休みだからさ、図書室で勉強教えてくれない?.......お願い!」
両手を合わせながら、やわらかく、少しいたずらっぽさもある笑顔でそう言った内野は、その瞬間に、教室の空気をすっと変えてしまう。
周囲の視線が一斉にこちらに向いた。 俺はその視線に耐えられず、思わず、窓の外に向けて顔を反らしてしまう。
「え?……あ、うん……いいけど」
断る理由が思いつかない。それに、断ったら断ったで、あとで内野が周りに何を言うかもわからない。
そんな恐怖のほうが勝って、口が勝手に了承の返答をしていた。
「え、あの二人!?」「ちょっと、どういう組み合わせ?……でも、なくは……ないかも?」
周囲のひそひそとした声が、耳にまとわりつき、背中の温度が下がるような感覚になる。
正直、勘弁してほしい。
教室から、そのまま二人で図書室へと移動し、たまたま空いていた隅の席に座る。
何をすればよいものかと、自分のカバンの中にあるノートや教科書を、パラパラとめくる。
その横では、内野がニコニコしながら座っている。
「えーと、何を教えればいいの?」
「英語!特にリーディング。長文とか、ほんと苦手でさ」
教えるべきことの方向性を理解したので、俺は自分のカバンから、英語関係の教材を取り出す。
「あー、それだったら、英文全体を理解しようとすることよりも、まずは単語から覚えていくといいよ。この単語帳を、見てもらっていい?」
「え、なにそれ?それ学校の教材じゃないよね。わざわざ買ったの?さすが、意識高っ!」
単語をテスト範囲の文法に当てはめて、順番に教えていく。教える内容も、まあなんてことない。
でも、隣からふと漏れる笑顔や声が、妙に心臓に響いた。
「やっぱり翔太郎くんって、優しいんだね。教え方上手いし、これなら勉強も、楽しくなっちゃうかな」
内野の何気ないひと言が、心をくすぐる。褒め言葉自体は、非常に心地がいいものだ。それでも俺は、我に返って聞いてみた。
「でもさ、なんで俺なの?一緒に勉強するだけなら、女子に声かけたほうがやりやすくない?例えば、 優花とかさ。あいつは俺なんかより、全然頭いいぞ」
内野は少しだけ首をかしげて、それからまっすぐ俺の目を見た。
「私は、翔太郎くんと勉強がしたいって思ったから、お願いしたんだけど……それじゃ、ダメなの?」
そのまっすぐな視線と言葉に、心が傾きかけた。自分の顔周りの熱が、どんどん上がっていくのがわかる。
「……ダメじゃないけど。うん、ありがと」
それと同時に、頭の中に治樹の顔がよぎる。
そうか、あいつもこれにやられたんだろう。だとしたら、やはりこれは俺だけじゃなくて、誰にでもこうなんじゃないか。
でも、もしこの目や言葉が、俺だけに向けられたものだと、素直に受け入れられたら、どんなに気持ちが良いものだろうか。
次の日の朝、治樹が俺のところに寄ってきた。
「お前、昨日の放課後……陽南と図書室行ってたろ。あれ、なに?」
治樹は、怒りとも不安ともとれるような表情を、こちらに向けている。
「勉強教えてって言われて、教えただけ。それ以上のことは、何もないよ。ていうか、そもそもお前が俺のこと、勉強が出来るやつとか内野に吹き込んだせいだからな」
「マジか。そういうこと? あー、余計なこと言わなきゃよかったわ」
治樹は、少し軽めのノリでそう言ったけど、その表情は固いままだった。
「いやさ、お前は見た目も悪くないし、中学のときは、女子にそこそこモテてたじゃん。……仮に、陽南が相手だったとしても、実際、もしものこともあんのかなって、思っちゃったんだよね」
治樹が素直に俺のことを褒めるのは、珍しかった。それほどに、不安だということだろう。
とはいえ、治樹に変な敵意でも持たれたら、こっちだって居心地が悪い。今はこちらも、素直に思ったことを言うべきだろう。
「……中学のときはな。多少はそういう自覚もあったし、見た目とかにも気をつかってたから、自信もそれなりだったよ。でも、いろいろ苦労したから、もう調子に乗ること、やめたんだよ」
「ああ、そんなこともあったっけ。ちょっと、悪いこと言ったかな」
俺は治樹の両肩をガッシリと掴んで、そのまま目をじっと見た。
「前に言ったかもだけど、相手はあの内野だぞ? 俺は逆に、そこを攻めに行くって意気込んでるお前の度胸が、素直に羨ましい。これはからかってんじゃなくて、本気で言ってる」
「なんかよくわかんねえけど……褒められたってことでいいか?」
俺が真剣な表情でうなづくと、治樹はいつもの調子で笑った。
元の治樹に戻ってくれたようで、俺はホッとため息を漏らした。
午前中、授業の合間の休み時間に、今度は優花が俺に声をかけてきて、廊下に連れ出された。
いつもはゆったりとした感じなのに、今日は妙に圧があるというか、雰囲気が違った。
「あのさ、昨日のことだけど、次からは、私が陽南の勉強見るから。翔太郎は、自分の勉強を優先してもらっていいよ。たびたび陽南に付き合ってたら、翔太郎も迷惑でしょ?」
語気が強かった。優花が俺に対して、棘のあるようなことをいうのはよくあることだが、今回は本当に棘があった。
「別に、俺は迷惑とか思ってないし……そんなに気を遣ってもらわなくても、大丈夫だよ」
俺のその返答を聞いた優花が、こちらを睨みつけるような目をする。
「ほんと察し悪いね!……女子には女子同士の付き合いがあるんだけど、わからない?」
その言葉には、さすがにこちらもカチンときた。
俺から内野を誘ったわけではなく、仕方なく付き合っただけなのに、なぜこちらが、怒りを向けられなければならないのか。あまりに理不尽だ。
「悪かったな!俺みたいなやつが、“みんなの陽南”をいっときでも独り占めしてさ。俺だって、自分が望んだわけじゃなかったのによ!」
優花は、「え?」と言葉を漏らし、驚いたような表情をしている。
「……お前と内野の時間を邪魔して、悪かったよ」
俺は、そう嫌味っぽく言いながら、優花を強く睨んでいた。彼女に対してこんな表情を向けたのは、初めてかもしれない。
優花は、いまにも泣きそうな顔で、うつむいていた。
「いや、違くて……そうじゃないんだけど……ごめん」
謝られたところで、今回ばかりは、すぐには気が収まらなかった。
俺はそれ以上は何も言わず、その場を離れた。
どいつもこいつも、陽南、陽南って……なんなんだ、このクラス。
少しの時間、内野と一緒にいただけなのに、まるで大ごとをやらかしたかのようにみなされる。
めんどくさい。うんざりだ。
それでも、内野に誘われたあのとき、ちょっとだけ嬉しかった自分もいた。
もしそれが、彼女の世界に取り込まれるってことなら、そこに足を踏み入れたのだとしたら、俺はもう、今の自分ではいられなくなるかもしれない。
でも、それならそれも悪くないと、今は思えてしまった。
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