七   名告る

「お待たせいたしました」

 若者は板敷にたらいを置いた。なみなみと張られた湯の中へ、生成りの布をひたして絞る。しゃらしゃらと、快い水音がする。知らず耳を澄ませていると、若者の手が差し伸べられた。

「お手を」

「はい……」

 意味がわからず、実緒みおは若者の手と顔を見比べた。それを幾度か繰り返しても、なにも変わることはなかった。

 ほどなく若者はなにかをさとったのか、絞った布のほうを実緒に差し出した。実緒はそれを押し戴いた。あつい、と思って、ふいになみだが出そうになる。急いで口を引き結び、きちんと広げられた布を撫でる。

「熱すぎるでしょうか」

 若者が問うので、実緒は首を横に振った。

「熱くてあたたかいです」

 思ったままがこぼれてしまって、実緒ははっと顔を上げる。若者は、静謐なまなざしを実緒の手もとに注いでいた。

「水をさしたほうがよいでしょうか」

「いいえ、あの、このままがいいです……」

 わかりましたと、若者はうなずく。実緒は布をきゅっと握った。熱くて、あつくてあたたかい。受け取ってよいものではないのに、手放してしまうことができない。あさましい。みにくいのだ。それでもこの熱さがだいじで。

「時がかかってしまいもうしわけありません」

 若者が急に言ったことを、実緒はすぐに飲み込めなかった。ややあって、ぎょっとした。お湯の支度にかかった時間。そのことを言っているらしい。

「そんな、そんなことまったく、あんまりありがたいことで……」

 うまく言葉にすることができない。実緒がまごついているうちに、若者は新しい布を絞った。さりげなく手渡してくる。

「あ、あの、すみません……」

 いえ、と若者は簡単にこたえた。実緒は思わず目を泳がせ、なんとなく、若者のそばに置いてある大きな盥に目をとめる。

 ゆうゆうと、立ち上る湯気が。澄んだまばゆいひかりとかさなる。細かな粒まで見えると思えば、しゅわりと空気にとけていく。染み込んでいく。広がっていく。

 ふしぎな詞章を、唱えていた。あのときはひかりに囲われており、すがたは見えていなかった。実緒は熱い布を握って、若者のほうへ視線をもどす。そして、離れられなくなった。

 軽く伏せられた長い睫毛が、頬にうっすら影を落として。黒くすきとおる翅にも似ており、どこかはかなげにゆらめいている。だから、つやめきゆらがぬ瞳は、こちらに向けられてはいない。唇は結ばれたままに乾いて、けれどあのときはほどかれていて、なんと、言っていたのだったか。

「もゆら、もゆら────」

 おぼえず、実緒はつぶやいていた。睫毛の影がわずかにふるえた。ふたたび、手が差し伸べられる。

 今度は、すんなり意味がわかった。もうふれあいそうなくらいに、そばまで迎えにくるからだろうか。

 実緒は若者の手の上に、そろりと手をかさねあわせた。見ているだけのときよりも、大きく感じられるその手。ひんやりと冷えて傷だらけ。

 若者は実緒から布を取り、てのひらのほうを上へ向けると、ていねいな手つきで拭い始めた。つめたい指に下から包まれ、やわらかくあつく撫でられている。それが、とてもここちよくて。こんなにそっとふれられたのは、ほんとうに、ひさしぶりで。

「わたしは瓊音ぬなとと呼ばれております」

 若者はひとりごつように言う。ぬなと。ぬなと、ぬなとさま。実緒は胸の内に繰り返す。大神おおかみ御名みなのひとかけらだけれど。口にすればまろやかで、あまやかなのだろうと思う。

「あなたのおなまえを、教えていただけますか」

 言われてそっと目を上げれば、まなざしがつながった。

「はい。実緒と申します」

 名告ると、瓊音はすずしい目もとを、ふっとゆがめてまばたきをした。冷えた指先がてのひらをなぞり、そこをべつのつめたさがかすめる。

 ほんのいっときだったけれど。こわれそうにやわいと思った。しゃなりと真白が板敷を撫で、くろ瑪瑙めのうの瞳が近い。ゆらぐ炎にうるんで見える。見えなくなって、包み込まれる。

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