(二) 鎮守の舞

八   とけて





**** ****





 都に雨が降っていた。実緒みおしとねに横たわり、くぐもった雨音を聞き流していた。

 もう夜明けの時分だろう。いつもどおりに目が覚めた。けれど雨でうすぐらく、空気は湿り沈んでいる。板敷はすこしくもっており、御簾みすの影だけを映している。御簾はどこか頼りないようすで、ふうと裾をゆらがせている。

 身体じゅうが重くけだるい。寝汗で背中が蒸れているし、水底みなそこに張りついている気分だ。ぼんやり板敷を眺めていると、かすかな衣ずれが聞こえた。絹地の低い几帳きちょうの向こうに、ほんのりとひとの気配がする。

 いま起き上がったらしい。ひとり寝ているわけにもいかず、実緒も這いずるように身体を起こした。こめかみの奥が鈍く痛み、頭から倒れ込みそうになった。

「早すぎます」

 几帳ごしに、瓊音ぬなとの声がした。起きたばかりのはずなのに、ずいぶんくっきりとした声音だ。実緒は慌てて、褥の上にかしこまった。

「はい、もうしわけありません。おはようございます」

「いえ、早すぎると申したのですが」

 実緒は目をしばたいた。まばたきまでが頭に響いた。思わず額を押さえたとき、肩にかかっていたふすまがするっと滑り落ちてしまう。ぞくりと、寒気に襲われる。

「あなたは、まだお休みになっていなければなりません」

 瓊音は淡々と言った。

「悪化してしまいます。まだご気分がすぐれないでしょう。ようすを見たいので、そちらへ行ってかまいませんか」

 瓊音が返事を待っている気配がするけれど、どうこたえてよいかわからない。重たい頭がぐるぐるしてきて、そのときふいに、物音がした。だれかの、しとやかな足音だ。渡殿わたどのを通って近づいてくる。

「このやしきの者です」

 瓊音が言って、実緒はびっくりしてしまった。だれもいないと思っていたのに。なにも言えずにいるうちに、瓊音は実緒の横を通りすぎ、御簾を上げて出ていく。まばゆいような浄衣じょうえから白藍しらあいの小袖に着替えている。髪は結ったままだけれど、すこしゆるんでいるように見えた。昨日は朦朧としていて、よくわかっていなかったのだ。数年ぶりに体調を崩した。やたらと高い熱が出た。

 夜、すぐそばにある瓊音の瞳が、ひどくきれいだと見つめていた。身を任せたくて目を閉じたところ、ぷつっと意識が途切れてしまった。

 つぎに気がついたときには、ひさしぶりの感覚に身体じゅうが囚われていた。板敷に沈みそうなくらいだるくて、まともに口もきけなかった。それから、とても寒かった。

 思えば、身体が重かったり、ふわふわとしたりしていた。熱が出る前ぶれだったのかもしれない。すこしましになったけれど、いまも続いているようだ。もうすぐ暑い季節になるのに、ぞわぞわ鳥肌が立っている。実緒はつと手を伸ばし、落とした衾を引き寄せた。うまく力が入らない。

「なにをしているのですか」

 緩慢に顔を上げると、瓊音が見下ろしていた。落ち着いたようすで実緒のそばにかがみ、早く寝てくださいと言った。前から衾で包まれて、そっと横たえられてしまう。瓊音は褥を整えながら実緒の顔をのぞいて言う。

「まだかなり熱があります。すこしは引いているようですが」

 さら、と頬を撫で落ちた髪を、無造作に耳にかけている。実緒は返事をするのも忘れて、ぼうと瓊音にみとれていた。けれどそのすがたはだんだんと、にじんで見えづらくなっていく。はずむ雨音も遠ざかり、近くなってはまた離れる。

「いまこちらへまいったのは、比佐ひさという者です。長くこの邸にいる者で、留守を預けているのです」

 実緒がここへ入ってきたときは、べつのところにいて見えていなかったようだ。そういえば、濡れた衣を着替えさせたり、支えて薬を飲ませたりと、世話をしてくれたひとがいた。おかげで、すこし楽になっているのだ。よく考えてみると、きっとあれは瓊音ではなかった。そのひとにも、たくさん手間を取らせている。

「その者が水などを持ってまいりました」

 返事をしようと思うのに、声が出ない。頭の中がぼんやりとして、雨の音がもう聞こえなかった。瓊音の声だけ聞こえていた。ひんやり澄んだ清水に似ている。すうと染み込んでくるようだった。

 そして、意識がとけていく。寝るのは、いやだ、いやだと思う。面倒をかけるのはいやだ。だれの手も煩わせたくない。抗おうとしたその一瞬に、額がひやりと撫でられる。

「お休みになってかまいません────」

 泣きたくなるほど、ここちよかった。実緒はそのままとけおちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る