三十四 真っ白
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すももは、あまくて、みずみずしくて。種のまわりはすっぱくて、なんだかきゅんとしてしまう。おいしいね。おいしいね、あねさま。
そう言う笑顔はあまずっぱく、みずみずしい、思い出だった。
あの子を、
あの子を、香於を死なせたから。裏山になど誘ったから。守ることができなかったから、守られてしまったから。あのとき一緒に死んでいればと────
実緒は夜風と
前とおなじだと、ふと思う。前も夜に眠れなくて、なんとなくここへ出てきたのだ。そして、ひかって
実緒は身体を固くした。ずいぶんと近かった気がする。なんだろう、狸とかだろうか。ぎこちなくあたりを見回していると、ふと目の端になにかが映った。なんとなくそちらを見やったとたん、ぞっと全身がすくみあがる。月影もとどかぬ土の上。真っ白の、装束が、くしゃりとなっているのが見えて。
「
声になったかわからない。実緒は縁から転げ落ち、脇目も振らず駆け寄った。そこにうつぶせに倒れているのは、やはり
実緒は、夢中で瓊音にすがった。なぜかしっとりと濡れている。雨などは降っていないはずで、でも降っていたのかもしれなくて、わけがわからなくて、わからなくて、だけど、いまもどってきたのだ。
実緒は伏したままの瓊音に体当たりして上を向かせた。広がった白い袖を払うと、のぞいたおもてはひどく静かで。まぶたは固く閉ざされていた。
瓊音さま、しっかりして、だいじょうぶですか、わかりますか、呼びかけたいのに、声が出ない。実緒は髪の貼りついた蒼白な頬に手を伸ばし、両側から挟み込んだ。とたん、心臓がぎゅうと縮んだ。陶器のように冷えているのだ。いつもよりずっとつめたい気がする。
急に目の前がぐらりとゆがみ、手がひとりでにふるえだす。実緒は倒れ込むようにして、瓊音の胸に耳を当てた。
とく、とく、と音が聞こえた。力が抜けそうになるけれど、なんだか、ずいぶん遠い気がする。すごく遅すぎるような気がする。そう思うと、実緒の心臓は壊れたように早打ちを始める。
「あ、ああ、だめだ、だめ……」
だめだ。取り乱していてもだめだ。このひとはいまもどってきたのだ。濡れたままではいけないから、衣を替えなければならない。こんなに身体が冷えているから、早くあたためなければならない。あたたまらないのだろうけれど、でも土の上にいてはだめだ。ここで倒れてしまったのだから、起き上がることができないのだ。ひとりだけでは運べない。ここから大声を出そう。
決めて、実緒は顔を上げた。瓊音の顔が目に入る。閉じたまぶたの動くのが見え、思わずぴたりと止まってしまう。重そうに濡れた睫毛がふるえ、うっすら、黒い瞳がのぞく。
「あ……、瓊音さま……」
目が覚めた。
ふるえるほどにほっとして、実緒は両手を握りしめる。
「ああ……、よかった……」
よかった、けれど。それでもこのままではいけない。
「すこし、待ってくださいね、まず
そう言って立とうとしたとき、瓊音の唇が動いた。なにかを言おうとしているから、なにも考えず顔を寄せる。
まなざしがひどく頼りない。小さく、息をこぼす。さむい。心臓がぎゅっとして、実緒は瓊音の胸もとを掴んだ。でも、早くしなければと、離れかけたときだった。
真白い袖が、ふうとゆらいだ。視界がすっかり覆われてすぐ、頬が湿った布地にふれる。実緒は息を飲み込んだ。瓊音に頭を抱え込まれて、胸に押しつけられていた。
心音を、すぐそばに感じる。とくん、とくんと、規則正しく、さっきより近くで鳴っている。それでも身体はつめたいのに。実緒は瓊音にふれたところから、熱くなるのを感じていた。どうしようと混乱して小さく身を縮めたとき、瓊音の腕に力がこもった。
実緒は、めちゃくちゃになった。もう、わけがわからない。心臓がどくどく高鳴って、息がくるしくなっていく。どうすればよいのだろうか。どうしてこうなったのだろうか。これでは、このひとはさむいままだ。実緒は泣きたくなりながら、必死になって言葉をさがした。
「────あ、あの、だいじょうぶです、さむくないようにしますから、だいじょうぶですから、いまは……」
離して、と、それが言えない。やわく回されただけの腕から、離れてしまうことができない。ここに寝かせてはおけないのに。このままではさむいのに。
「もうしわけ、ありません……」
気づくと口からこぼれていた。
「はなれたく、ありません、から……」
さらりと、肩を撫でたのは、瓊音のてのひらだとわかった。そのてのひらは背まで滑って、さらにきつく抱き寄せられる。腕が小刻みにふるえていて、さむい、と、もういちど聞こえた。ひどくかすれてしまっていて、声にならない声だった。さむいと、言って、実緒を呼んだ。
これは、うわごとなのだとわかった。瓊音が境目にいる気がして、ぞっと全身の肌が粟立つ。実緒は引き剥がすように顔を上げた。ほんのりとした、明かりが見えた。
「実緒さま、いま瓊音さまが、お帰りになりましたか? 明かりを……えっ、まあ、瓊音さま?」
ほのあかくゆれる手燭を掲げて、比佐が走り寄ってくる。ふっと力が抜けてしまって、また倒れ込みそうになる。
「お帰りになったのですね? こちらでお休みなのですか?」
そばへ来た比佐がしゃがみこみ、瓊音の顔を炎で照らした。また、まぶたが閉じられている。でも、どこかおだやかな表情にも見える。
「気が抜けてしまわれたのでしょうかね……」
比佐が言い、実緒に顔を向けた。その落ち着いたようすを見ると、すがりつきたくなってしまう。
「比佐さん、どうしようたすけて……」
驚くほど、なさけない声が出た。そんなことしか言えないおのれを殴り飛ばしてやりたくなる。けれど比佐はいつものように、のどやかにそっとほほえんだ。
「実緒さま。だいじょうぶです。だいじょうぶですからね。いま、明かりをつけてきますから、ここにいてさしあげてくださいね」
比佐は実緒に言い聞かせ、燭台の火をゆらめかせながら
「だいじょうぶ、だい……」
実緒は続きを飲み込んだ。瓊音の目が、ひらいていたから。
「あ……、瓊音さま……?」
呼べば、ふわりと視線がさまよい、やがてしっかり実緒をとらえた。ただいまもどりましたと、言った。くっきりとした声だった。
いま、目が覚めたのだろうか。実緒が呆然としているうちに、瓊音はみずから半身を起こし、淡然として話し始めた。
「もうしわけございません。このようなところで気が抜けすぎたようです。先刻すこし不手際をして
「あ……」
「あなたは、裸足ではありませんか」
瓊音は実緒から離れながら言う。実緒は細かく首を振った。裸足なんてどうでもよい。
「しょうき、にさわってしまったと────」
「はい。ですがほんのわずかでしたので、なんら支障はありません。
それは、ほんとうなのだろうか。もし、ほんとうでないのだとしても、この手で解決することはできない。
そう思うと、息が詰まった。できないなんてあたりまえなのに。肺臓が重い。声が出せない。出せても、きっと言葉にならない。実緒は口を開け閉めしながら、瓊音をじっと見つめていた。水を失った魚だと、まるでそうだと思っていると、すっと瓊音の手が伸ばされた。
指先が、頬にふれかけて、実緒は思わず目を閉じる。つめたい気配はすぐに離れた。頬に貼りついていた髪を、うしろへ流してくれたのだ。
瓊音は、その手を固く握った。ぐいと自身の頬を拭い、太刀を掴んで立ち上がるけれど、一瞬、軸がぶれたのがわかった。実緒はぞっとしてその場に立った。
「あの、だ、だいじょう、ぶ……」
「いいえ。裸足はいけません。履物を持ってまいりますので、こちらですこしお待ちください」
「そんな、の、いえ、いいえ」
このひとは、言っていることがおかしい。ひとを案じている場合ではない。実緒は目に力をこめると、努めてまっすぐ瓊音を見上げた。
なにかを解決することはできない。でも、なんとか、できることだけは。
実緒は大きく息を吸った。夏の夜風のはずなのに、木枯らしみたいに鋭く感じた。けれど、声を出すのだ。しっかり。
「比佐さんが、明かりをつけてくれています。きっと衣も出してくれます」
「はい──」
「ですから、あなたさまは、中に入って衣を脱いで、お着替えになってお待ちください。おつらいようなら」
「いいえ。なにも」
瓊音はきっぱりと否定した。つらいようなら手伝う、というのは、やはり図々しいだろう。必要なら比佐がするはずだ。実緒はわかりましたと応じた。
「つめたいものだけは、お脱ぎください。いまからあたたかいものを、すぐご用意しますから、衾の中にいらしてください」
必ず、と念押しする。虚をつかれたように目をみはった瓊音は、幾度かまたたいてうなずいた。実緒は大きくうなずき返し、
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