三十四 真っ白





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 透也とうやが持ってきてくれた瓜と、すいが持ってきてくれたすももを食べた。日差しに乾いた身体の内に、すうっとやさしく染み込んできた。それが、どうにもかなしくて。

 すももは、あまくて、みずみずしくて。種のまわりはすっぱくて、なんだかきゅんとしてしまう。おいしいね。おいしいね、あねさま。

 そう言う笑顔はあまずっぱく、みずみずしい、思い出だった。

 あの子を、香於かおをしなせたのだ。みんな、みんな傷つけた。癒えることのない傷を刻んだ。砕け散りそうにふかい傷。

 あの子を、香於を死なせたから。裏山になど誘ったから。守ることができなかったから、守られてしまったから。あのとき一緒に死んでいればと────

 実緒みおはゆっくり妻戸を開けて、夜半の簀子すのこえんに滑り出た。明かりは持っていないけれど、月がかかっているようだ。あたりはほのめく白いひかりに、そっと包み込まれていた。

 実緒は夜風とえんを歩いた。ふすまの中がすこし暑かったから、すずしくてここちよいと思った。さらさら、うしろからすぎゆく風は、重たく火照ってしまったこころを静かに冷ましてくれる気がした。

 前とおなじだと、ふと思う。前も夜に眠れなくて、なんとなくここへ出てきたのだ。そして、ひかってうたい舞う、あのひとを見つけたのだった。もしかして、いまもどってきていて、舞っていたりはしないだろうか。あの声が、聞こえたりしないだろうか。そう思って足を止めたとき、どさりと、鈍い音がした。

 実緒は身体を固くした。ずいぶんと近かった気がする。なんだろう、狸とかだろうか。ぎこちなくあたりを見回していると、ふと目の端になにかが映った。なんとなくそちらを見やったとたん、ぞっと全身がすくみあがる。月影もとどかぬ土の上。真っ白の、装束が、くしゃりとなっているのが見えて。

瓊音ぬなとさま────」

 声になったかわからない。実緒は縁から転げ落ち、脇目も振らず駆け寄った。そこにうつぶせに倒れているのは、やはり浄衣じょうえをまとった瓊音だ。そばには腰から外された美々しい太刀が転がっており、そのつかはゆるく握られていた。

 実緒は、夢中で瓊音にすがった。なぜかしっとりと濡れている。雨などは降っていないはずで、でも降っていたのかもしれなくて、わけがわからなくて、わからなくて、だけど、いまもどってきたのだ。

 実緒は伏したままの瓊音に体当たりして上を向かせた。広がった白い袖を払うと、のぞいたおもてはひどく静かで。まぶたは固く閉ざされていた。

 瓊音さま、しっかりして、だいじょうぶですか、わかりますか、呼びかけたいのに、声が出ない。実緒は髪の貼りついた蒼白な頬に手を伸ばし、両側から挟み込んだ。とたん、心臓がぎゅうと縮んだ。陶器のように冷えているのだ。いつもよりずっとつめたい気がする。

 急に目の前がぐらりとゆがみ、手がひとりでにふるえだす。実緒は倒れ込むようにして、瓊音の胸に耳を当てた。

 とく、とく、と音が聞こえた。力が抜けそうになるけれど、なんだか、ずいぶん遠い気がする。すごく遅すぎるような気がする。そう思うと、実緒の心臓は壊れたように早打ちを始める。

「あ、ああ、だめだ、だめ……」

 だめだ。取り乱していてもだめだ。このひとはいまもどってきたのだ。濡れたままではいけないから、衣を替えなければならない。こんなに身体が冷えているから、早くあたためなければならない。あたたまらないのだろうけれど、でも土の上にいてはだめだ。ここで倒れてしまったのだから、起き上がることができないのだ。ひとりだけでは運べない。ここから大声を出そう。

 決めて、実緒は顔を上げた。瓊音の顔が目に入る。閉じたまぶたの動くのが見え、思わずぴたりと止まってしまう。重そうに濡れた睫毛がふるえ、うっすら、黒い瞳がのぞく。

「あ……、瓊音さま……」

 目が覚めた。

 ふるえるほどにほっとして、実緒は両手を握りしめる。

「ああ……、よかった……」

 よかった、けれど。それでもこのままではいけない。

「すこし、待ってくださいね、まず比佐ひささんを呼びますから」

 そう言って立とうとしたとき、瓊音の唇が動いた。なにかを言おうとしているから、なにも考えず顔を寄せる。

 まなざしがひどく頼りない。小さく、息をこぼす。さむい。心臓がぎゅっとして、実緒は瓊音の胸もとを掴んだ。でも、早くしなければと、離れかけたときだった。

 真白い袖が、ふうとゆらいだ。視界がすっかり覆われてすぐ、頬が湿った布地にふれる。実緒は息を飲み込んだ。瓊音に頭を抱え込まれて、胸に押しつけられていた。

 心音を、すぐそばに感じる。とくん、とくんと、規則正しく、さっきより近くで鳴っている。それでも身体はつめたいのに。実緒は瓊音にふれたところから、熱くなるのを感じていた。どうしようと混乱して小さく身を縮めたとき、瓊音の腕に力がこもった。

 実緒は、めちゃくちゃになった。もう、わけがわからない。心臓がどくどく高鳴って、息がくるしくなっていく。どうすればよいのだろうか。どうしてこうなったのだろうか。これでは、このひとはさむいままだ。実緒は泣きたくなりながら、必死になって言葉をさがした。

「────あ、あの、だいじょうぶです、さむくないようにしますから、だいじょうぶですから、いまは……」

 離して、と、それが言えない。やわく回されただけの腕から、離れてしまうことができない。ここに寝かせてはおけないのに。このままではさむいのに。

「もうしわけ、ありません……」

 気づくと口からこぼれていた。

「はなれたく、ありません、から……」

 さらりと、肩を撫でたのは、瓊音のてのひらだとわかった。そのてのひらは背まで滑って、さらにきつく抱き寄せられる。腕が小刻みにふるえていて、さむい、と、もういちど聞こえた。ひどくかすれてしまっていて、声にならない声だった。さむいと、言って、実緒を呼んだ。

 これは、うわごとなのだとわかった。瓊音が境目にいる気がして、ぞっと全身の肌が粟立つ。実緒は引き剥がすように顔を上げた。ほんのりとした、明かりが見えた。

「実緒さま、いま瓊音さまが、お帰りになりましたか? 明かりを……えっ、まあ、瓊音さま?」

 ほのあかくゆれる手燭を掲げて、比佐が走り寄ってくる。ふっと力が抜けてしまって、また倒れ込みそうになる。

「お帰りになったのですね? こちらでお休みなのですか?」

 そばへ来た比佐がしゃがみこみ、瓊音の顔を炎で照らした。また、まぶたが閉じられている。でも、どこかおだやかな表情にも見える。

「気が抜けてしまわれたのでしょうかね……」

 比佐が言い、実緒に顔を向けた。その落ち着いたようすを見ると、すがりつきたくなってしまう。

「比佐さん、どうしようたすけて……」

 驚くほど、なさけない声が出た。そんなことしか言えないおのれを殴り飛ばしてやりたくなる。けれど比佐はいつものように、のどやかにそっとほほえんだ。

「実緒さま。だいじょうぶです。だいじょうぶですからね。いま、明かりをつけてきますから、ここにいてさしあげてくださいね」

 比佐は実緒に言い聞かせ、燭台の火をゆらめかせながら東対ひがしのたいへ歩いていった。実緒は、幾度もうなずいた。だいじょうぶ。だいじょうぶだ。比佐が言うなら、そう思える。

「だいじょうぶ、だい……」

 実緒は続きを飲み込んだ。瓊音の目が、ひらいていたから。

「あ……、瓊音さま……?」

 呼べば、ふわりと視線がさまよい、やがてしっかり実緒をとらえた。ただいまもどりましたと、言った。くっきりとした声だった。

 いま、目が覚めたのだろうか。実緒が呆然としているうちに、瓊音はみずから半身を起こし、淡然として話し始めた。

「もうしわけございません。このようなところで気が抜けすぎたようです。先刻すこし不手際をして障気しょうきにさわりましたので。気分がすぐれませんでしたが、治りましたのでお気になさらず」

「あ……」

「あなたは、裸足ではありませんか」

 瓊音は実緒から離れながら言う。実緒は細かく首を振った。裸足なんてどうでもよい。

「しょうき、にさわってしまったと────」

「はい。ですがほんのわずかでしたので、なんら支障はありません。大神おおかみのお力をお借りしておりますから、仮に頭まで浸かったとしても多少は平気な身体でもあります」

 それは、ほんとうなのだろうか。もし、ほんとうでないのだとしても、この手で解決することはできない。

 そう思うと、息が詰まった。できないなんてあたりまえなのに。肺臓が重い。声が出せない。出せても、きっと言葉にならない。実緒は口を開け閉めしながら、瓊音をじっと見つめていた。水を失った魚だと、まるでそうだと思っていると、すっと瓊音の手が伸ばされた。

 指先が、頬にふれかけて、実緒は思わず目を閉じる。つめたい気配はすぐに離れた。頬に貼りついていた髪を、うしろへ流してくれたのだ。

 瓊音は、その手を固く握った。ぐいと自身の頬を拭い、太刀を掴んで立ち上がるけれど、一瞬、軸がぶれたのがわかった。実緒はぞっとしてその場に立った。

「あの、だ、だいじょう、ぶ……」

「いいえ。裸足はいけません。履物を持ってまいりますので、こちらですこしお待ちください」

「そんな、の、いえ、いいえ」

 このひとは、言っていることがおかしい。ひとを案じている場合ではない。実緒は目に力をこめると、努めてまっすぐ瓊音を見上げた。

 なにかを解決することはできない。でも、なんとか、できることだけは。

 実緒は大きく息を吸った。夏の夜風のはずなのに、木枯らしみたいに鋭く感じた。けれど、声を出すのだ。しっかり。

「比佐さんが、明かりをつけてくれています。きっと衣も出してくれます」

「はい──」

「ですから、あなたさまは、中に入って衣を脱いで、お着替えになってお待ちください。おつらいようなら」

「いいえ。なにも」

 瓊音はきっぱりと否定した。つらいようなら手伝う、というのは、やはり図々しいだろう。必要なら比佐がするはずだ。実緒はわかりましたと応じた。

「つめたいものだけは、お脱ぎください。いまからあたたかいものを、すぐご用意しますから、衾の中にいらしてください」

 必ず、と念押しする。虚をつかれたように目をみはった瓊音は、幾度かまたたいてうなずいた。実緒は大きくうなずき返し、くりやのほうへ駆けだした。

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