老人会殺人事件オンステージ
シゲキ
第1章
ゲートボール大会
冬の肌を刺す冷たさも緩み、若葉が出始める四月の上旬、天海郷町の老人会の大ゲートボール大会が開かれた。冬に籠りっきりの老人たちが外に向かって目覚める季節だ。囲碁クラブの祖父たちと茶道、手芸教室に通う祖母たち、その他、婦人会と青年団の協力があり、町の振興会と老人会との合同イベントだ。ルールは各チームの総当たり方式で、それぞれの教室のメンバーが玉をスティックで打ちながら、一巡して得点が決定される。そして一番点数が高いチームが優勝と成るわけだが、丸い木で出来た球を打って転がすだけのゲームなので、ゆっくりでも歩くことが出来る者であれば誰でも出来る簡単なゲームだ。玉恵たち女性軍はゲートボールはさほど経験がなかったが、中央公民館の会場に来てみると、入り口にはテントが張り巡らしてあり、町の振興会、区長会、青年団、そして自分たちの若かりし頃と同じ婦人会の嫁たちの出迎えがあり、にこやかに笑いながら、町を支えてきた老人たちに敬愛の念を送っている。会場の中央には大勢の老人が集まっていて、この町にこれほどの男と女の年寄りがいるとは信じられない数がそこにいた。やや老婦人の数が上回っていた。同年代のこれだけの人間たちと玉恵はこれまでこの町で付き合ってきたのかと思うとため息が出た。玉恵の周りには三倉水産で一緒に働いた女衆や手芸の仲間たちが集まっていた。皆太って足の運びがおぼつかない者や背中が少し曲がった者もいる。そして深刻に笑い、体の体調の話が続く。
「網元んとこの玉恵さんは昔は足が早かったんよね!」
「なんね、もうだめですたい!あっちこっち、腰も痛かし」
「貴女は若かかよ!しゃーんと腰は曲がっとらんし!」
「あんたこそ、元気そうじゃないね!」
「年には勝てんとよね!」
「見かけと身体の中身は全然違うとやけんね!」
身体機能の会話には際限がなく、話せば話すほど安らげるのは女性特有なのかも知れなかった。その時、輪を崩すように一組の老夫婦が近づいて来た。
「玉恵さん!元気にしとるかね?」亡き夫、源次郎の兄夫婦だった。葬儀以来だ。嫁も相変らず欲深そうな目つきを漂わせている。玉恵が三倉水産に嫁に来て暫くしてどこからか帰って来たが、道楽の気があるということで金を握らされて三倉水産を出て行った人間だ。玉恵に取っては少しも良い印象は無く話す事さえもしたくなかった。よその町で小さなスーパーマーケットをやって、経営も鳴かず飛ばずで、その後、源次郎に追加資金を数回頼みに来て、源次郎も仕方なくそれに答えたと云う話を聞いたことがある。そしてマーケットは誰かに譲り、数年前に天海郷町の南側に小さな住宅を造り、前の部分を釣具屋のチエーン店にして、そのテナント賃料で生活していることを夫の葬儀の際に本人から聞いたのだが、あの時
「玉恵さん!昔わしがここを出て行くとき、三倉には大変な財産があったと聞いちょる。もう少し都合をつけてくれんかね?」
「うちん人は貯まったお金は女とか、三倉の親族にどんどん奉仕してしまって、全く残っとりません!」
「数千万はあると云う話を聞いたがね?」
「そんなには無かですけど、残っとるのは私が一生懸命働いたお金だけですよ!」
と断った覚えがあって、義兄はにやにやしながら引き下がっていった記憶がある。源次郎とは叉違ったずるくて陰湿な性格の持ち主で、この類とも縁を切りたいと玉恵は思っていた。
「源次郎は女遊びが激しかったようじゃが、玉恵さん、あんたも、以前から良か彼氏を持っとったらしかな?」玉恵は横を向いて女衆の中に入って行ったが、ゲートボール場での義兄の言葉の後味の悪さが残った。
会場では振興会長や老人会長の挨拶の後、数人の老人をモデルにしたゲームのやり方の説明があったが、難しそうではなかった。周りを見ると、あっちこっちに大きな集団が出来、数百人はいそうだった。今日は特別の混合チームのイベントで、女だけの輪もある。茶道教室や料理教室、生け花教室の婦人たち、夫との関係で玉恵との確執が続いた薬店経営の君子が輪の中心になって喋っているのを久しぶりに見た。農業青年の息子の顔が思い出され親子の仲が気になった。別の輪にはホテルオーナーの常美や末山佳須美、海鮮料理店の従妹の里子がいる。皆、現役でやっている者もいるし、子供に譲った者もいる。あの三人は元々仲が悪かったのに、何故、笑い合っているんだろう?と思われる節があって、経営の為にはその辺を乗り越え、飲み込む度量が必要なのか?・・佳須美は事業の失敗によって鬱病になり、不具者となった夫、金秋に代わって事業を起した。難波酒店を取得した後、マーケットの敷地の半分を君子から譲り受けコンビニエンスストアーを開店して新たな新規巻き返しに挑戦していた。両通センターと数店のコンビニエンスストアーを県庁所在地に同時に開店させるという離れ業をやってのけた女だ。父親の家毛増男の根っからの満州ブローカーの血を引いていたのかもしれない。そして鬱病になり、不具者となった夫、金秋に本来の農業生活に戻ることを勧め、県庁所在地の流通センターを海産物と金秋が作る野菜類だけとし、縮小した流通センターと併設のコンビニは息子夫婦に譲り、佳須美は天海郷町の酒屋とコンビニを管理している。実際、流通センターが縮小に追い込まれたのは大手との競争に負けたこともあり、その権利の大部分を持っていた兄の家毛増男が確立しつつあった関西までの販売ルートを大手に譲り、代わりに缶詰工場の品を大手のルートに乗せる交換条件を出した為だ。
「お前ら!兄妹には勝てね~よ!」金秋は小心者の正体を現していた。
「あんたが、元々!力が無いんよ!野菜作りでもして頭を元に戻しなさい!」と、この頃から末山金秋の義兄への屈辱心が生まれたのは当然のことかも知れなかった。・・・
会場の男達のかたまりに目を移すと、長身の二人の男が遠くの輪の中で話しているのが目についた。日本海事協会を退職した玉恵の愛人の村井俊介と、海底調査会社を経営しているロシア人との混血の洋輔に似ている。二人とも他の老人と比べて首一つ出ている。俊介は髪が薄くなっていて洋輔は銀髪だった。海に関することを話しているのだろうか?俊介はこの町に帰って来て一年程だが、玉恵の気持ちは変わらず俊介にあった。夫、源次郎があの世に行く前から、この関係は既にこの町に噂として流れていたが、玉恵は一向に気にはしないようにしていた。それはお互いが愛を育んで来たと云う自負があり、後ろめたさはあまり無かった。こうして姿を見ると玉恵はほっとするのだが、信頼関係の糸が一直線に繋がっている筈だったが、・・・
日本人には無い白系の洋輔の噂は様々聞いてはいた。以前、海産物を届けた時に二~三度話をしたことがあって悪い印象はなかった。ただ自分とは違う世界の人間のように思われたが、骨格が男女の違いはあっても洋輔の妻のオーストラリア人の妻に引けを取らない玉恵の身体で互いに向き合うと不思議と親近感を覚えたし、海の色男と噂される洋輔からも好奇の目線が注がれた記憶があった。こうして俊介と並んでいる姿を眺めると二人はどこかが似ている気もするが、君子やホテルオーナーの常美たちとの浮名も流した洋輔が少し若いように見えた。このロシア系の男は海底調査会社を鷲住町の港と県庁所在地に置いていて、住まいはこの町の先の竜神様の祠がある洗濯板の岩場がある付近に洋風の家を建て、妻のシャーロットと共に住んでいるが、最終的にはこの町一番の成功者との噂もある。県外の入札やら海洋生物研究にも参画している手前、関西の大学の水産試験室の人間とも交流があって、一年の半分以上は、県庁所在地の事務所で過ごす。玉恵は俊介が鷲住の事務所によく出入りをしていることを聞いていたが、退職後の仕事として、スタッフとして官公庁への役割を受け持ち、洋輔の会社に勤めるのではないかとも思っていた。海底の経営者と元海事協会の関係は海洋に関する情報が繋がることが多い。事務をしているシャーロットがそこにいて、俊介は港の事務所で彼女と海を眺めていることが多かった。シャーロットは船舶の検査員であった俊介を頼っていると云う噂もあった。相思相愛であった俊介が今でもこちらへの愛情が消えていないのか?玉恵は考えていた。
玉恵も含めて女たちもまだ還暦前後で身も心も現役の気配があり、美容師の幸枝が俊介にいやに馴れ馴れしくしている光景は見たくないと思ったし、逆に洋輔の視線が玉恵に向けられているのを快く嬉しいと思った。玉恵の心が自然と騒めき、己の本性が頑なに秘められているのは君子等と何ら変わりはない女なのではないかと思ったりした。次第に洋輔に濃い接点を感じてしまう自分がいた。・・・
青年団の腕に黄色の腕章を付けた若者が笛を吹いて、いよいよゲートボールのゲーム開始だ。やり方は各教室ごとのチームで男女別に行われる。出発ゲートは二ヶ所あり、手前が女で、先の方が男たちだ。二チーム同時進行で進められ、五つのゲートを何打で一巡してきたかで勝敗が決まる。女のチームの緑の木球が、かん高い音をたてて転がり始めた。男の方は白い木球だ。玉恵の手芸教室チームは最後に近い五番目らしい、二番目に登場したチームの中に半農半漁の篤次の元妻だった幸枝と現在の妻 楓子が言葉を交わしながらスティックを打っている。二人の軋轢(あつれてき)はないのだろうかと?
幸枝はあれから、下の娘を連れて篤次と協議離婚をしていた事を人づてに聞いた。その娘は美容師同士の結婚をして、幸枝が作った街の美容室を任されていて、その美容室も美容センターとして数人の美容師を雇って、料金を安くして数で稼ごうとしているらしかった。ところがそこに楓子の娘がいつの間にか入り込んでいて、同じ篤次の種ではあるが、若者同士の今ばやりのドライな付き合いと云うのか? その娘が美容センター経営の若夫婦を伴って篤次と村政とが共同経営している農家レストランに頻繁に訪れていると云う関係、雇う者と雇われる者との関係ではなく、要するに今ばやりのフェアーな形がある事で呆気に取られた幸枝と楓子はそれだけで親近感を覚えたのだった。そして二人でいる事を新鮮なものとして楽しんでいるのだった。・・
ゲートボールというゲームでは本来のその人間が持っている内面や性格が裸になる場合があり、特に男の場合は感情が顕著に表に現われ、そして衝突する。玉恵たちの手芸チームの順番が来て、初めてスティックを持って、緑の木球を打つ。渇いた音が快い手ごたえと、思う方向へ進まない可笑しさをチーム全員の笑いで楽しんでいる時、ゲームの審番をしている青年団の若者の吹く笛の音が断続的に鳴り響いた。先方のゲートの男性側のほうだ、バラバラと他の審番や振興会の人間が走り寄っている!何かが起こったのだ。ゲーム全体が止まって、玉恵たちも呆然と人だかりの方を眺めていた。
「お爺ちゃん達!何んか?あったんね?」玉恵たちは顔を見合わせた。
暴力行為があった見たいなんよ?」君子たちの声が聞こえた。玉恵は俊介や洋輔の事が心配になった。二人は人生を謳歌している部類の人間で妬まれる可能性があったからだ。しかしその予感はすぐに消えた。 何故ならば、二人は体格的にも体力的にも周りよりも勝っているからだと独りよがりの予感があった。
「違うだろう!あの人たちは?」と、・・その時うつむき加減の二人の老人が若い審番に両脇を抱えられてテントの中に連れられて行く光景があった。老人会長や振興会長、区長たちも集まっている。暫くして、スピーカーから
「事故が発生しましたのでゲートボール大会はこれで終了します。まだゲームを終了されていないチームもおられますが、直ちに表彰式を行いますので、名前を呼ばれたチームは正面テント前に並んで下さい!」と、甲高い音声が流れた。玉恵はまだ七球しか打っていなかったが、仕方がないのでテント横に皆なでゾロゾロと歩いて行った。男女とも参加チームの代表だけが並んでいたが、洋輔たちや幸枝たちが無表情な顔で立ち尽くしていた。町を挙げて行われた大会は煮え切らない気持ちと不穏な空気の内にウーロン茶を一本ずつ配られて散会となった。
男の料理&陶器展
玉恵は老人会主催の≪男の料理≫の試食会に出かけて行った。中央公民館の会場には魚介類や山菜を中心とした料理が並べられ、奥の窓際には数人の若い男女のスタッフが様々な陶器の皿の説明をしている。入場者は町の住民や家族連れでごった返していたが、料理をする白髪頭の老人たちがエプロンを付けてウロウロしている姿は変に可笑しかった。刺身や焼き魚にキャベツや山菜を盛りつけたありきたりのものが多く出されていた。婦人たちがひそひそ話をしながら味見をしている。頭にコック布を巻いた俊介と洋輔が何か皿に盛って調理室から出て来た。女たちの視線が一斉に集まり、君子と幸枝が長身の男の傍に近寄って行く。
「あらっ!なんの料理?」
「カツオのタタキたい!」洋輔たちは其々にワインを注いだ。
玉恵は焼き物展のコーナーにいて従妹の里子や陶芸家、菊子の夫、村正と立ち話をしていた。そこに俊介がグラスに注いだワインを持ってきた。
「俊介さん!この前のゲートボール大会の事故は何だったんですか?スティックで網子だった人が怪我をしたと聞いとりますけど?」
「喧嘩だった。スティックで殴り合ったったい!」
「誰だったんですか?」
「元網元の家毛増男と網元を途中で辞めざるおう得なかった小呉新七たい。どうも、小呉が先に殴ったらしか?気が短いお人じゃ!ほら、あのコーナーでアナゴの蒲焼やってる男」
小呉は小ざっぱりした男で人気があり女たちが集まっていた。
「あらっ!まあ、乱暴な人には見えないけどね?」
昔の怨念とゲームのトラブルが重なって暴力事件に発展したのだった。小呉新七も既に七十を超えていて、不実の垂れこみで網元の権利と義理の弟を失った喪失感、一時、家庭も壊れ、失意のどん底で苦しみ、一介の網子となって、息を繋いで来たが、数年して本当の垂れこみの相手が誰であったのか?の噂が立ち始めたことで、復讐心を燃やしていた。しかし反撃する力は残っていなかった。力をつけるのは仕事を取る事だと、えび漁の小舟を二隻仕入れ、人の何倍も働いた。やはり大型船に比べて小舟は限界があるのだ、小呉は頭の回転は良かった。思い切って漁をすべてやめて、別の道を模索した。その頃、沖の方で養殖のフェンスがはやり始めているのに目を付けて、軽量のアルミフェンスに海水に強いメッキとビニールでの被覆方式を考えたのだった。コストを下げなければ大手に勝てない、新七は工業高校電気科を出ているので、メッキと被覆方式については興味があったし、現実に試して見るのにも夢中になれた。工場の一角に溶接機材を持ち込み数人の弟子と試し焼きを何度も繰り返した。製品が出来上がり更にコストを下げたことでフェンスの取引の目処が立ってきた。そして海老網で根気よく貯めた資金で網元跡の倉庫をフェンス工場に造り直した。沖の潮の流れに応じて色んな円型を考案して、失業していた弟や身内の人間を集めて事業を少しずつ広げて行った。事業が軌道に乗ると恨みとか怨念の気持ちは薄れてくる。恨みを持ち続けると、自分自身のエネルギーが消耗される事を感じた。
新七はある港の岸壁のフェンス工事に参入している時、海底調査をしている洋輔と出会った。洋輔の存在は噂としては知っていたが、変な外人かぶれしている女たらしくらいに思っていたが、仕事を一緒にしてみると、新しい感覚の時代の人間だと感じた。そして洋輔の事務所にも出入りするようになり、≪海の環境は海底にある≫ことを学び、工業高校で電気をかじった事が大きく蘇ってきた。新七には二人の息子のうち次男を洋輔の海底調査会社に入れた。現在、次男は洋輔の会社の幹部になっている。一方、小呉フェンス工場は大きくは成長していないが、県外の港湾工事にも参入している。二年前に鷲住港のフェンス工事終了後、原因不明の事故が起こったが、近くに家毛増男の缶詰工場があったせいか、港湾事務所に
「小呉フェンスの材質の手抜きがあったのではないか?」との垂れこみがあった事で、一時、小呉フェンスの指名停止が起こり、県による調査が行われ、基礎のコンクリートの材質に因るものか?フェンスの強度の問題なのか?原因の解明は宙に浮いたままであった。家毛による不実の垂れこみが一度ならず二度までもあったことに、消えかかっていた怨念が何倍もの憎しみとなって新七を襲って来たのかもしれない?スティックでの殴り合いは双方が手を出したので喧嘩両成敗で互いに、たん瘤ぐらいで済んだので町の振興会と老人会では警察問題とはしないこととされた。
陶器展は里子の実家の跡を取った村政の妻、菊子の協賛によるものだったが、本人は来ておらず、主に遠方から集まっている弟子たちの作品だった。菊子は地道に陶芸の道を進んだが壁に突き当たると必ず、京都の熊(恩師の陶芸家)の元を訪れた。その度に
「俺の真似はするな!お前の五感でやれ!」とはっぱを掛けられた。十数回行っただろうか?経済的に困窮したこともあったが、一心に極めようとした努力は世に名が出るまでになった。一方、一時挫折した夫、村政は後半、有機農法とバラエティーな山菜園とキノコ園を確立し、本来の頭脳思考が甦っていた。しかし既に夫婦間には冷たい谷間が横たわっていて、菊子は盛んに京都との往復に時間を費やしていたが、それでも過去一男一女は生まれていて、辛うじて家庭は存在していた。頭脳思考の村政も新たな事業展開を始めていて、里子の従弟篤次の海の幸と合わせた農家レストランに協賛していた。責任者は篤次の二番目の妻である楓子が担当し、もう一人のスタッフとして村政の山菜の助手をしているうら若い彼女を加えた農家レストランは通りに面しない眺めの良い丘の上に駐車場を広く取ったカラフルな建物とした。当時の農家レストランは珍しく村政の大学の同期で食育の講師をしている友人の考えを実行したものだった。観光客からの口こみから発展し、多い時は行列が並ぶくらいで丘の上には楓子夫婦、村政と彼女、四人の顔ぶれが毎日のようにあって、以後、村政と菊子の不仲は決定的となった。不仲の原因は子供にあった。子供に将来何をさせるかの意見の衝突があった。住居も村政が本屋で菊子は離れで生活をしていて、夫と数か月も顔を合わせない事も多かった。たまに鉢合わせすると冷たい感情の無い口争いになった。
京都の陶芸の師、“熊 ”は常に厳しかったがブランクを抜け出した菊子は、
「見せようと思うな!心で焼け!」の言葉を胸に、納得のいく山菜の器の出来栄えに挑戦し続けていた。近年は県内外のスタッフが六人、手足のように動いている。どういう訳か、菊子は町の人たちとの接触が殆んど無いままでここまで来たことが心残りであった事を払拭したかったのだが、役所を退職した三郎に
「菊子さん!もうそろそろいいんじゃないんですか?この町での展示会も?」と言われ続けていたのだが、村政との不仲、三郎との不倫の噂が聞こえて来たことで、天海郷町でのイベント参加をためらっていた。産業振興課の三郎と二人三脚で進めて来た菊子陶芸展も三郎が役所を退職した事で一区切りついた。これを機会にこの町での陶芸展を開催したのだが、やはり本人は来ないままで行われた。陶器展と同時に計画された《郷土の味の腕前》が実は素人の下手物料理だとの噂がたったことで菊子の感情を傷つけ、急きょ執行部が《男の料理》に変更し、何処かの料亭からウナギの白焼の専門家を呼んでその場をしのいだのだった。
里子の実家の跡をとった村正の夏野菜が出品されたがホテルオーナーからケチがついた。「これはこう云う色なんよ、ウナギに合う食感の夏野菜なの!」
「そうかな?・・でも料理は見た目だからね、うちでは使えないね!これは」
「結構ですよ!使ってもらわなくても、うちの山菜料理では味に肥えたグルメ嗜好の方には凄く喜んで貰っていますよ!」里子は実家の山菜にケチがついた事で目をつり上げて、いきなりワイングラスをテーブルに置いた。
「うちのホテルには合わないね!他の山菜か、海藻だね!」常美はすまし顔・・、
「ホテルのオーナーさんが、本当の山菜の風味が分からないのは残念なことですね!ホテルにお泊りのお客さんが、うちの店に来られますが、料理を食べられると、ほっとする!とおっしゃいますよ!」常美のすまし顔が消えて
「それっ!どう云う意味?うちのホテルの料理はほっとしないと云う事?」
「けばけばしいんじゃないですか?高いだけで!」
「あんたね?・・・・!」周りがざわつき、視線が集まった。校長上がりの振興会長が場を治めようと、
「あんたらね!こんな場で喧嘩はいかんよ!いい年なんだから」
「会長さん、私はそんな年じゃありません!」と言った常美は結い上げた髪に手を添えながら急にト~ンを下げた。
「会長さんの仰る通りですよね、いい年してこんな事で言い争うのって見っとも無いですよね!」
会場のあちこちでくすくす笑いが起こったが、里子が神妙な顔で常美にビールを注いだ。
「常美さん!うちも必死だけど貴女はもっと大変なんよね?ホテル経営は誰にでも出来ないからね!」
「貴女んとこの山菜の風味は一流だと解ってるんよ!お互いに気持ちは同じやけどね」
ホテルも山菜料理屋も一時の隆盛が終わって下降線に向かっていて、不景気なのに喧嘩なんかしてられないよ!とばかりに二人の衝突は水に流された。
老人会親睦旅行
一年が過ぎ、生きている者は六十代と七十代の老人会の会員となった。残暑が消え、山々の一部の樹木の葉が緑色から黄金色に変わり始める十月の初め、天海郷町中央公民館から大型観光バス三台が出発しようとしていた。
一泊目は震災から立ち直って間もない阿蘇に泊まり、二泊目は九重町から二一〇号線で湯布院を通り別府温泉が予定されている。三日目はひたすら南下し、宮崎の南国情緒を味わい、更に南下して鹿児島の桜島を拝みながら、そのまま三号線をひたすら上って来ると云うコースだ。老人会の旅行は二年に一度、それぞれの地区で行われていたが、今回は国の年号がそろそろ変わるのでは無いかとの国民的懸念があるために、町を挙げての合同旅行が決定されたのだ。旅行には老人会長は勿論のこと、振興会長と各区長が同伴した。老人会の幹事は現在も三倉玉恵の彼であり、パートナーである痩せた長身の俊介が三台のバスに向かって拡声器で出発前の注意をした。
玉恵、山菜料理店の里子、里子の実家の村政、銀髪に変色したシャーロットが久しぶりに姿を見せた。陶芸家の菊子は来てなくて農家レストランを経営する篤次と楓子たちが身振り手振りで何か話している。別のバスには今や故人となった末山金秋の仲間で、陰を残したまま年を取った葉たばこ生産者や漁船を降りた旧漁師たちが徒党を組んでいる。女のグループの中に一人高笑いのホテルオーナーの常美がいた。
横には美容師の幸枝もいる。コンビニオーナーの佳須美と薬局経営の君子が深刻そうに顔を突き合わせている。三台目のバスに新たな海の経営者として蘇った小柄な小呉新七のジーンズスーツ姿があって難波幸助酒店と親しそうに笑っていて、後ろの座席に役所を退職した三郎夫婦が静かに出発を待っていた。
バスの外に老人会長と俊介の周りに振興会長や各区長が集まり何かざわついていた。総勢一二〇人を超えてしまった人員の為に、急きょ、公民館の一八人乗りマイクロバスをチャーターすることになり、運転手にバス会社に勤務する区長が選ばれたが、更に二~三人の区長が怪訝そうな顔で、バスの席が決められていたのがこの時点で不満の声が上がって 「あの人の近くは嫌だ、別のバスがいい、でなければ旅行には行きたくない!」とか駄々をこねる老人と奮闘している事を伝えて来た。監事の俊介と振興会長は額に汗して三台のバスを説得に回った。
「あんた方!一応決められた席に座ってもらってですたい!途中叉、向こうでお互いに話し合って貰ってですね!好きな席に交代すればいいじゃないですか!」
「監事!座席に二人ずつ座ると窮屈で仕方ね~わ、腰も痛いし、もう少し伸び伸びと旅行したいわ!」
「あんた、仕方ないでしょう、そう言う人は自分で金出してバスをチャーターして独りで旅行に行って下さいよ」
「冗談!冗談!・・冗談ですたい」
その時、シャーロットが元気を取り戻したように俊介に拍手を送った。その目は輝いていた。
「オゥ!ナイス リーダー!」洋輔が海底で亡くなって、彼女一人に潜水会社の経営を任されたシャーロットにとって会社の顧問となった俊介に心が動くのは当然だと思われた。独身となった立場で他人に遠慮をする必要が無い西洋人の思考があった。
「玉恵さんの彼氏!頑張って!」冷やかしの野次が飛んだ。玉恵は自分たちの応援歌に聞こえたが、俊介は苦笑いで済ました。三〇分遅れでやっと出発が開始されて俊介たちが乗り込んでいる最後尾のマイクロバスが中央公民館の駐車場を出ようとした時、誰かが手を上げて走り寄って来るのが見えた。ホテル経営の常美の夫、秀安だ。派手なスーツに長いマフラーをなびかせながら、忍者のように走り寄って来た。マイクロバスは停車してバックした。
「すっまっせん!俺も乗せてくれ、」開いたドアの外から飛び込んできた秀安は、空いていた俊介の隣にどかっ!と腰を下ろした。
「ああっ!遅れてしもうた!」遅刻した負い目は微塵も感じさせない、
「相変わらず、せっかちやな?あんたは、」
「俊介はん!まあ!ええやないか?」
大型観光バスは快調に阿蘇に向けて走ったが、ドライブインが見える度に“おしっこタイム!”の掛け声がかかる。ホテルオーナーの常美が
「これだからお年寄りってや~ね!」どこからか
「あんたもでしょう?」かん高い笑い声が、バスいっぱいに響いた。そのバスに乗り合わせていた男たちは横を向いていて、女の勢いが男に勝る時代はもう既に始まっていた。阿蘇に着くと、悲惨な震災の模様を皆テレビで見ている為に、バスの中がシーン!と静まり返って乗客の目は前後左右の建物を追っていて、所々に青いビニールシートが残ってはいたが悲惨な状況は意外と見えなかった。
「風車はどうなってるんね?」、
「殆んど、無くなっているらしいよ、」、
「嘘でしょう?ほら!あそこに回っているのがあるじゃない!・ひとつ、」
「ひとつだけ残ったんかね?」
「風車の下にレストハウスみたいなのが、何軒かあったよね?」
「みんな、やられてもう!無いんじゃね~か?」バスは南阿蘇の俵山まで回ることになった。レストハウスは数軒が壊れてあとは残っていた。そして一部は再建の途中だったが、別名X橋は再建中で迂回道路を通って俵山に登ったが、最初に出会った風車は六十メートル位あった塔が半分切断され、上部が無くなっていた。遥か尾根の先に一本だけ残っている風車が見える。
「あらー!・・みんな駄目になったんだ!」、乗客はかたずを飲んでいる。大自然の災害の前に皆言葉が出なかった。運転手が言った。
「もう!再開しないそうですよ?撤去するのにも、だいぶ金がかかったみたいですから?」
運転手の説明の中の約二十七万年の時空の中で巨大な噴火によって地下のマグマが動いて形成されたカルデラの前には直径六十メートルの大羽根を持つ鉄の風車などは一溜りもなく破壊される脅威に皆ため息をついた。バスは引き返し、草千里を通って阿蘇の観光ホテルに向かった。しかし各区長たちはそれどころではなかった。百二十人を超える宿泊客のホテルの相部屋の割り振りに懸命だった。
「年寄りは我がままやな!」若い区長たちが呟いた。三台のバスは予定のコースを阿蘇のホテルに向けて走り出した。到着した古い大きなホテルから眺めた阿蘇の峰々は白い噴煙がたなびいていた。
一日目の大宴会は初日、気疲れしたのか?はしゃぎ過ぎたのか?あまり盛り上がらず、阿蘇の震災跡の原風景と大自然の脅威を新らためて感じながら、各自団体部屋にて、早い就寝となり、眠りに着いた老人たちは、遠い過去のそれぞれのステージに立った。
・・・・(美容師の意地) 幸枝は隣町の出身だったが、都会で篤次と知り合い、篤次の実家であるこの町に帰って来て結婚した。そして美容室を経営し、更なる夢を追うことで、男出入りが激しくなった。夫婦不和になり、夫が年上の女、楓子とねんごろになったのを機会に夫と離婚し父親から美容室を自分の名義にしてもらった。娘を引き取り息子を篤次にやったが、子供が向こうとこっちを行ったり来たりしていることから、農家である篤次の父親に野菜を貰いに行った時、父親からきつい言葉が帰って来た。
「あんたは美容師をしちょるから、家の事は何も出来んかったのは仕方がないんじゃけど、新しい嫁の楓子さんはそれはもう!こまめに我々にも良くしてくれるし、優しい良い嫁じゃ!」
と言われて、腹が立ったが、ぐっと!堪えて、
「私もお父さんたちのお世話をしようと思ってはいたんですけど、美容室が忙しすぎて仕方がなかったんです。娘にはいつも買った物ばかり食べさせているので、野菜の繊維も必要だと思って今日は頂きに来たんですけど?」
「あんたも、この家を出た人間やが、子供には罪はないけん、野菜でも、米でも持って行きなっせ」
「ありがとうございます!お父さん、その代わり、お父さんの髪、きれいにしますよ。いい男に成られますように」・・
それから父親は米や農産物を美容室に持ち込み、髭を剃ったり、散髪をするようになった。しかし散髪をしながら父親の愚痴は続く。
「幸枝さん!あんたのその口の利き方は早口で我々年寄りには聞き取りにくいんじゃ、楓子さんはこれまた柔らかくて優しい声で言ってくれるし」
幸枝は腹綿が煮えくり返る思いだったが、ぐっと!押し殺して
「お父さん!喋り方は性格だから仕方がないんです。それよりも、もっといい男に成るように、少し、髪を染めましょうか?」
「そうかい、わしも最近は内臓が悪かようで、色目が良う無いと言われるけん、ひとつ黒髪にして男振りを上げるか?」
幸枝は黒の染料を父親のゴマ塩頭に優しく撫でるように塗りこめた。
「お父さんは顔だちもいいし!若い時は持てられたんじゃないですか?」
「そぎゃんでも無かよ」幸枝のうら若い胸の膨らみが、女の香りを漂わせている。
「一週間に一度は来てくださいよ?お髭も剃って、何度も染めないと黒くならないんですよね」・・幸枝は染料を塗る度に胸に溜まっているものが、すうっと!抜けていくのを感じた。
優しく 々 ゆっくりと染粉を父親の頭に塗り込めた。彼女は強い染料に含まれるジアミンが肝臓の悪化を促進することを知っていた。その後、父親は野菜を持って美容室に来るたびに、髭を剃り髪を染めていい男になった。二年半ほど美容室に通った後、父親は入院し、末期の肝臓がんで死亡した。・・・
・・・・(共犯の夢) 俊介はこの旅行の監事をしていて各会員の我がままに対応すべく走り回っていたのだが、計画段階からストレスが溜まっていた。十月の始め、夜は冷えていて各部屋は暖房が入っていた。俊介は振興会長と区長会長、年輩のオブザーバーとの四人部屋に寝たのだが、部屋の入り口付近に枕を置いた為に、一晩中エアコンの熱風を受け続け、頭がのぼせ上がっていた。熱い、黄な臭い思いが胸を過ぎった。
俊介と玉恵はいつしか?阿蘇山が爆発したのを思い出していた。赤い溶岩を吹き出しながら、谷あいを赤く染めた。玉恵は夫からガラスの灰皿で後頭部を殴られて、パックリ割れた傷口からどろどろと流れ落ちる血液が、谷あいを染めている溶岩と重なった。玉恵は後頭部から流れる血で肌けたスリップを赤く染めながら、既に恋人となっていた俊介の元に走った。髪から血液が背中に滴った。その姿を見て俊介は目が飛び出るほど驚き玉恵の肩を抱き、怒りを震わせた。俊介は長い晒の布で玉恵の傷口を巻き、流れる溶岩を横目に玉恵を背負い、取って返し、夫、源次郎を怒鳴りつけた。手には木刀を持ち殴りつけようとも思っていた。
「源次郎!お前は人殺しになるぞ、妻殺しだ! 早く!病院に連れて行け! 玉恵さんを俺は愛しとる。お前なんかより、ずっと!玉恵さんを大事に思っとる。 病院の医者には、玉恵さんが自分で転んで怪我をした事にして良かけん、俺が玉恵さんの愛人だと云うことには目をつむれ! いいか! さもなければ!お前が加害者であることをばらすぞ?刑務所行きだ!そして、この恨みは今後、晴らすからな、」
源次郎は二の腕を木刀で叩かれ、たじろぎ、小心者の正体を現した。その後、一か月ほど経ち、玉恵の傷が癒えて復讐が始まった。三倉水産には養殖の現場で寄生虫の駆除を目的にホルマリンの原液が貯蔵されていた。ホルマリンの中のホルムアルデヒドは毒物で人体に長期間投与すると、末梢神経をやられ、発がん性があることを、船の検査官である俊介は知っていた。それを毎日少しずつ分からないように、味噌汁に入れて源次郎に呑ませたのだ、俊介が指示し。玉恵が実行した。当時、肝臓が悪化していた源次郎は神経をやられ、やがて肝臓癌との合併症で死亡した。その後、お互いに独身となった二人は一夜を過ごす事があったが何故か以前のように燃えなかった。
・・・・(払拭する妹) 事業欲に必ず悪行が付き纏う家毛増男の妹でその配下の末山金秋の妻である佳須美は夫の事業失敗から何とか立ち直ろうと、同じ境遇の君子の協力で、破産した酒屋の物件を取得し、そこを新たな店舗としてコンビニエンスのオーナーに辿りついたが、兄や夫の悪行の影を引きずっていることに次第に嫌悪感が大きくなり、何とか払拭したいと思っていた。そのためには自分自身を心機一転しなければ成らず、コンビニの本部の営業マンから販売促進とセールスプロモーションについて、貪るように教授を受けた。その中には客だけではなくスタッフの教育の分野で、こき使うのではなく、可愛がることが、販売促進に繋がる一番の早道だとわかって来た。
「兄や夫はここが欠けていたんだ! そして悪行は必ず刃となって己に返って来るんだ!」と、佳須美はこんなふうに自分が考え付いたことに、ある種の驚きを感じた。
「君子さん!貴女んとこのドラッグストアーの従業員の接客はどんな風にやってるん?」賢明な質問に君子は冷静に答えた。
「ドラッグストアーではね、従業員さんに登録販売者の資格を取って貰ってるのね、大事な事は薬の効用を良く知る事、お客さんに良く説明する事、・・コンビニでも従業員が品物の味覚を良く知る事が接客を上手くする事に繋がるから薬とあまり変わんとじゃないと?」
君子の言うことにはどこか余裕があった。玉恵の夫、源次郎から巻き上げた金と亡き夫の保険金を元手に金貸し業もやっていたのだ。
「食品販売と薬の販売も同じかな?君子さん!貴女、こんなこと知ってる?最低賃金で働いているスタッフの表情は暗くて不愛想、少しでも高いところは愛想がいいとお客さんは感じるのよ!それが同じ品物でも違って来るんよね?」君子はそんなに深刻に考えていなかった。
「薬は信用だから、従業員は真面目な子がいいな? 男の子は清潔感がある子、コンビニは料理を作る訳でもないし、品物をきちんと綺麗に並べるだけじゃないの?あとは本部がやるんでしょ?貴女んとこも本部次第よ?」
「そりゃ~そうだけど!兎に角、他のコンビニもあるし、うちは最低賃金にはしないようにしてるよ」
「欲張るとだめよ!隣町に新たなコンビニが出来て、この町にもきっと来るよ?そうなると私たち困るよ、また路頭に迷う事になる」
「貴女!人が不安になるような事、言わんでよ!兄も夫も事故で死んでしまって私も崖っぷちで生きているんだから!」
「私も貴女と一緒!利用され裏切られ続けて来たのよね?」と君子の眼は暗く輝いていた。
・・・・(悪行と復讐)家毛増男は何かを忘れるように闘争本能の塊りになっていた。それは少年の頃の極貧と荒寥とした世界から抜け出そうとする自己防衛本能でもあった。目的を果たす為に手段を択ばず、ありとあらゆる策謀を身につけた。そして己が目指す目標を達成しても欲望は尽きる事がなく、更に高みを目指した。それを彼は正当な向上心と言っていた。不思議な事に妻と家族は夫を苦労人故に家族を大事にする懐の深い人格だと信じていて、妻と子供たちは県庁所在地に住み、教育を重視し一流大学を目指す事を言い渡されていた。しかし他人を陥れ、踏み台にし、思う高みに辿り着いた彼の一生はあっけなく散らされた。己の末路が見えているかのように。小呉新七の弟、Cは現在、洋輔の海底調査会社の援助で設立した小呉フェンス工業の幹部をしていたが、兄の新七が以前、網元の株を、不実の垂れ込みで家毛増男に奪われたことに復讐を誓っていた。先日、行われたゲートボール大会で兄の新七が家毛増男一派とスティックの殴り合いで家毛増男本人を取り逃がしたことを残念に思っていた事を知っていた。ある日、神社の境内のゲートボール場で、ゲームが終わった後、境内の裏で独りスティックの手入れをしている家毛増男に近づいた。
「憎まれっ子世に憚るじゃな?・・いや!あんたは悪徳世に憚るだ!」
「何を!言ってるか、お前は?」
「忘れんだろう?あんたがうちの網元の権利を奪ったことを!」
「何十年も昔のことを、何を、とぼけた事を言いよるか?お前は。俺は知らん!忘れた」
「俺の妹の婿は死におったんやぞ、妹もあれからおかしくなった。噂は本当だったんじゃが?」
「自分たちの不始末を他人のせいにするな。この!バカ者が」
家毛は貧弱そうなCをステックで突いてきた。よろけたCは素早く相手の膝にスティックを打ち込んだ。その瞬間、家毛は神社裏の石畳の段差を踏み外した。そして段差下にあった敷岩の角に頭から落ちた。暫く起き上がろうとしていたが、数人の老人が近づいて来て、
「どぎゃんしたんな?」・・・
「この人が逆上せて足踏み外したんじゃ!」
誰の目にも、頭の傷と石の血のりが一致する自損事故であるように思われた。救急車に乗せられた家毛増男は三日後、救急病院で意識不明のまま、打撲に因る脳内出血で死亡した。駆けつけた家族と共に見取った妹、佳寿美は常に弱音を見せない厳しい鎧を付けた兄の表情が穏やかで安らかな死に顔になっているのを眺めていた。・・・
・・・・(君子の思い・海底の色業師) 洋輔が亡くなり旅行に姿を見せなかった事を惜しむ者は玉恵も含めて多かった。そして洋輔に憧れていた女も数多くいて、君子もその中の一人だったが、何度もアタックして捨てられた。一度、漁師と結婚し、死に別れてからも、再度、事業の成功者である洋輔に身を呈して近づいて行った。嫌で堪らなかった貧乏から、なんとか抜け出したい思いがあった。平行して以前からの男であった源次郎からも金を無心して、ある程度の蓄えが出来たことで、金貸し業をし、表向きはドラッグストアーの事業も始めたが、女の一生は虚しかった。尽くしても男は離れて行く!あれほど身を捧げた洋輔は金髪のオーストリア人を妻にした。君子は自分の身の上を恨んだ。そして遂にその矛先を洋輔に向けた。最後の女のけじめをつける為に、・・・
長年、洋輔の事務所に出入りしていた君子は、ダイビング機器のメカニズムを知っていた。海底の虫や貝殻を除去するホルマリンや様々な薬剤の知識が身についた。そして港湾工事の深い海底の調査の折りに、洋輔の酸素ボンベに仕掛をしたのだった。洋輔は暗い海底の薄れゆく意識の中で、母親が読んでくれたピノキオとイワン三世の絵本が脳裏に浮かんでいた。そしてその絵本を小脇に抱えながら、通り過ぎた幾人もの女の人魚に手を引かれ、導かれて海の底に沈んで行った。洋輔は他のダイバーに引き上げられた時、深い海底の水圧で肺が潰れていた。懸命の手当ても届かなかった。駆けつけた妻は金髪の髪を振り乱して泣き叫んだ。
「ヨウスケ!・・オーマイゴッド!」
数日経ってシャーロットが鏡を見ると金髪が銀髪に変わっていた。・・・
前日の夜は早めの就寝で、朝、大勢の浴衣姿の老人たちが大広間で朝食を食べていた。
「昨夜はよく眠れましたか?」・・「う~ん!久しぶりでゆっくり寝さして貰いましたわ」・
「久しぶりにこんなところに来て大変な夢を見てですな!わたしは?」・・
「夜中に叫び声をあげる人がおったりしてですよ!怖い夢でも見られたんでしょうかね?」・
「私の近くにはキャーっと言う声あげる人いたんよ!目が覚めて、ほんとに寝不足!」・・
「恐怖の声、もの哀しい夜泣き声、様々よね?色んな事あったんでしょうね?」・・
「寝言の連続の人いたんよ?あなたじゃなかった?」・・
「誰だろう?わたし何か?言ったかな?」・「隣が凄かったわよ?」・・寝言の話ばかりで朝食が終わった。
阿蘇の観光ホテルを出発した天海郷町老人会の大型観光バスは、ひたすら別府温泉に向かって走り出した。九重やまなみハイウェーは雲が降りて視界が悪かった。先頭を切って喋り出すのはホテルオーナーの常美たちで性格がかなり出ていた。
夫の秀安はこのバスを避けて他のバスにいた。九重を過ぎ、右手にうっすらと由布院が眼下に現れた。
「貴女ここには来たことある?」・・「一度来たわよ!」・・「女の客にはいいよね!ここは?」・・「しっぽり!隠れて来るのもいいらしいわよ、誰かさんと?」・・
「若い頃は貴女達もそうだったんじゃないんね?」・・
「あら!今でもお盛んな人いるじゃないですか?うちの町にも?」
ひそひそ話が聞こえる。君子が
「監事さんと、あの人とか?・・」、誰かが
「海鮮の里子さんも、偉い学者さんと!・・内緒?」、常美が
「他人の色恋について色々言っちゃ駄目なんよ!自分の事を棚に上げて?」、誰かが
「そう云う貴女は激しすぎたからね?」、「お黙りなさい!」・・常美は高笑いをした。
通り過ぎた過去が虚しく笑いに変わっている。男たちは一言もしゃべらず、霧の町を眺めていた。
最後尾のバスには玉恵たちがいて、いつもは賑やかなシャーロットが今回は静かに外の景色を眺めやっているだけだった。玉恵はその意を酌んで何度か彼女の背中を撫でてやった。彼女との軋轢が生まれようとしている予感を感じながら、
「これ!霧なの?雲の中なの?」・・「霧と雲は同じじゃ無いよね?」・・
「どうせ!私たちもいつかは雲の上に昇るんだから今日はその時の下見ってとこね?」
車内は静まり返っていた。
別府の町に入った。地獄巡りだ、数分ごとに吹き上がる地獄の湯に歓声があがり、熱帯林のドームが繋がる巨大なホテルに着いた。数百人の客の殆んどが部屋着に首にタオルを掛けて館内をウロウロ歩き回っている。
二日目の大宴会は盛り上がった。カラオケ有り、舞台踊りあり、最後は姐さん連中の勝手なダンス踊りで収拾がつかなくなっていた。
「皆さん!一次会は終了します!後は各々、自己責任でやって下さい!・・」監事の俊介の 声がスピーカーを通して流れた。
「監事さん!・・玉恵さん!・・万歳!・・」、変なヤジが飛んでいた。年寄りは就寝が早い、
盛り上がった後は二十一時頃までは其々が眠りに就いた。
・・・・(三郎の生き様) 三郎は初めてこの老人会の旅行に参加して見た。長い役所時代が一瞬にして過ぎ、走馬灯のように心の臓器が震えるのを思い起こした。三郎と亜実夫妻の一人娘が十八才になった。高齢出産でやっと授かった愛娘だった。あの時から四十年、やっとここまで来たのだ。夫婦は既に還暦を越えていて、三郎は役所を退職するまで陶芸家菊子のとりこになっていた。憧れと恋慕の情だった。若い頃、何かを忘れようとするかのように窯元に押し掛け、よく金髪のオーストラリア人と鉢合わせした。
「あなた、よく来るね?お皿が好きなの?それとも菊子さんが?」
「どちらも好きですよ!特にこの皿がいいんです!」そして一年後、
「菊子さんは平安美人でとても美しい!皿はそれなりに深みがあるきれいさが出てます!」
菊子はこの土地に来てから数年後に県庁所在地のイベントに陶器を出品した時から、町の職員である三郎に出品の手配から陳列まで世話になったことで親近感以上の感情を持っていた。
課長時代に地区の集まりに参加して宴会に出た時の事だった。同年代は殆んど自分より老けていて、見知った人間は多く、その中で三郎に親しく近寄って来る者がいた。コップにビールを注いで、こちらを見上げた顔は、三郎があまり好まない人間だった。親類の村政のたばこ乾燥窯に付け火したと噂されるグループの男だった。村政の葉たばこの選別の仕事に協力していた三郎の兄嫁に夜中にちょっかいを出して兄に殴られ、嫁はその時、腰を打った事からその後、怪我が重なり動けなくなっていた。三郎もこの不憫な姉のために色々と尽くして来た。男はやつれて気弱になった表情で、
「久しぶり!お元気でしたか?」、態度が低調で過去の事の詫びを入れているのか?役所人には言いやすいのか?全てが時効だと考えているのか? 傷を与えた側より、受けた側が記憶は強い事が解っていない。この場合、はっきりした証拠がない限り、周りの雰囲気として時効?水に流す?方向に軍配が上がる。三郎は証拠はないが恨みを晴らす意味で
「あんたも、生きとったとな?」と言って見た。途端!不思議と男の顔が崩れて苦笑いが見えた。
「あんたの兄弟には本当に迷惑をかけた!俺はバカじゃったよ!お陰で罰が当たったよ!俺はあんた方兄弟が羨ましかったんよ」懺悔が堰を切ったように続いた。
「ぐうたらで、だらしがなくて、どうしようもねえんじゃ!俺は、借金作って、嫁も家族もおらん様になった。誰も助けてくれんし、死ぬしかねえんじゃ!俺は」泣き上戸だったのか?涙声が続いた。周りの人間が
「またか」、「相手するなよ!」の目配せを送っている。この場合、どう云う態度で臨むか?
三郎は実際、男に対する憎しみは殆んど無くて何か?変な気がした。男も直接的に関係がない役所勤めの人間にうっ憤を晴らしている気がした。三郎は言葉を選んで
「あんたはそれだけ反省しとるんなら、神様も見捨てんだろもん?」その瞬間、男の表情が我に返ったように見えた。一週間ほどして兄に雇われている東南アジアの農業労働者が働く青物ハウスに行って見た。そこに例の男がめったに手に入らない天然の山芋を小脇に抱えて三郎の前に現れた。男は山芋を三郎に差し出しながら
「この前!あんたから、神様は見捨てないから、なんとか!頑張っなっせ!と言ってもらって、ほんとに有り難かった。あんたが神様に見えた。家も田畑も、間もなく借金のかたに取られてしまうんじゃけど、せめて家だけは助けてくれんじゃろうか?迷惑をかけたあんた方に、頼む立場じゃないんじゃけど?役所の退職金が待っとるあんたしか?いないんじゃ。兄さんには言い出し難くてな?」
「どのくらい借金はあるんな?」、男の目に一筋の光が灯ったように見えた。
「三百万もあれば家は助かるんじゃけど」
「返せるんな?」
「死ぬ気で返す。それと残った田畑は安くあんたか兄さんに渡す。どうせ二束三文で持って行かれるんじゃけん?」三郎は神妙な男に同情する気持ちが無い訳ではなかった。それに三百万と云う金は誰にでも右から左に動かせる額ではなかったし、即答を避けた。
「一週間後に返事するたい!」
「宜しくお願いします。でないと?首を吊らにゃいかん!」
三郎は男が差し出した山芋を受け取らなかった。男の顔が妙に歪んだ。三郎はパートに行っている亜実(妻)に連絡を取った。
「あん人は嘘が多い、そうやって、みんなから金借りて、返さんで、それが借金になってるんよ。それにあんたが信望している陶芸の菊子さんとこにも金借りに行ったって聞いたけど?」妻の返事だった。三郎は愕然とした。菊子の身に何か?・・そう言えば以前、菊子から窯元の近くをうろつく変な男の話を聞いたことがあった。約束の一週間後に青物ハウスの同じ場所で三郎は男の借金の申し出を断った。肩を落としてうなだれて帰るうしろ姿を三郎は見なかった。水路の横から、つがいのカワセミが勢いよく金切り声を出して飛び立った。三日後、消防団の赤い車がサイレンを鳴らして、続いてパトカーが見えた。夜、警察が来て、納屋で首を吊った男の作業着の内ポケットに入っていたと云う “三郎宛ての三百万の借用書”を見せられた。・・・
数年後、二月の凍るような極寒の日に経済部長の三郎の前に、せっぱ詰まった崖っぷちの二人の助成金陳情者が現れたが見覚えがあった。以前行政改革上のあおりで自分たち夫婦が嵌められ、妻が漁協を去らねばならなかった関係者の二人だった。当然妥当な採択案だと思われたが、三郎はそれを見送り他の陳情者の書類に採択の印を押した。二つの事業所が倒産に追い込まれ、一人が自殺、もう一人は鬱で廃人となってその後亡くなった。翌年に三郎は六十一才で役所を定年退職したが、死んだ者の身内から殺人職員と囁かれた。退職後、三郎は港の付近を良く散歩した。今でも三郎の女王様であり続ける菊子の端正な顔を思い浮かべながら、二十歳になった菊子の息子が天海郷町の現場でドローンによる新版の地図製作の図面作りをする姿を眺めていた。・・・
・・・・(復讐心の感触) 家毛一派の不実の垂れ込みで、網元の権利を失なった小呉水産の電波船の責任者が責任をとって自殺したのだが、その男の兄であるDは長年漁協に勤めていたが、当時の真相はリーダー格が家毛増男で、垂れ込みを実行したのは家毛の妹婿の末山金秋だと、うすうす知っていた。漁協を退職したDは長い間胸につかえていた思いを晴らす為に、商売に失敗して鬱病になっていた金秋に近づいた。二人とも老人会に入っており、金秋は鬱から痴呆に移行しつつあって、Dに対して全く無防備であった。どこの誰か分からなかったのかも知れない。Dは復讐心が二重にも三重にも重なって苦しくなり復讐を遂げなければ死んでも死にきれないとの思いが、年を取るに従って強くなって来る己の心を恐いとも思った。最初の内は復讐を遂げるにしても、殺人を犯すのは家族にも親族にも大変な迷惑をかけることになり、実行する事が出来ないのは当然の事でもあった。ある時、テレビでどこかの火山が赤い溶岩を吹き出して怒っている光景が脳裏に残った。
「地球さえもストレスが溜り、どうしようもなくなって吹き出すのだ。遥かに 々 小さい一個の人間が何んにも出来ないで死んでゆく。そして土と塵になって消えてしまう。なんと!虚しいことか?悲しすぎる。・・せめて、生きている間に己のストレスは吐きだして土となり塵となりたい。火山のように、己も七十の半ばに差しかかり、いつ朽ち果てるかも知れないDは決断した。友好的な態度で、金秋を磯釣りに誘いだした。金秋は久々に他人から釣りの誘いを受け、
「どこのどなたか分かりまっせんが?こんな廃人を釣りなんかに誘って貰って有りがたか!」Dは金秋より半回り年上で人生経験は上回っていた。約束の日に港で待ち合わせして、シルバーマークの付いた軽トラックに金秋を乗せて磯釣りに出発した。
「末山さん!おにぎりも持って来たよ、漬物も付きじゃ!あんたの分もあるよ、ほら!缶コーヒーでも飲みなっせ」
「すっまっせんな!わしは何んも持って来んかった。家内から言われている通り、こんな廃人は誰にも相手にして貰えんでな?・・・金だけは持って来たけどな」
良か、良か、石鯛でも釣って刺身にして食う時、ビール代でも出して貰えば?」
金秋は濁った目を輝かして喜んだ。
「あんたのおかげで、こうして楽しか釣につれて来てもろうて」金秋は心から嬉しくて自然と両手を擦り合わせた。軽トラックは天海郷町を出て、小高い山が入り江に突き出た道路の脇に停まった。道路から磯までの高さは約三十めーとる、崖に沿って斜めにジグザグに狭い通路があって外側には細いフェンスが取り付けてある。二人で支え合って磯に下りた。金秋は白い無精ひげを指でなぞりながら、目は子供のように踊っている。閉じこもり、廃人扱いされ続けていた老人が大自然の大海原と向かい合っているのだ。その日は不思議に二人とも釣れた。小ぶりの石鯛、ボラ、アジも釣れた。夢中になった!Dはいつの間にか復讐計画を忘れてしまいそうになった。
子供のような肩を丸めたこの老人への憎しみが薄らいでいる。むしろ親近感さえ覚える。
「お連れさんには本当にビールをご馳走せにゃならんごつなったな?」
金秋は善良な小太りの老人に戻っている。悪行を重ねた男の素顔が子供に生まれ変わっている。
「今日は大漁じゃった。良かった。また来ましょうかい?末山さん」
「そうや、そうや、良かった。今日は、」金秋は嬉しそうに肩を揺らした。それぞれ十匹くらいの魚を網かごに入れ、降りて来たジグザグの崖を登った。降りるより登る方が、老人にとっても体力がいる。Dは小太りの金秋を後ろから支えてやった。
「よいしょ!よいしょ!」と、支えて押してやった。登りながら、かなりの高さになった時、片手で支えている金秋の背中の筋肉の感触に、汚い人間の嫌なものをDの脳幹が感じた。そして苦しく歪んだ顔で死んで行った弟の顔が重なった。突然!憎しみが沸き上がった。そして震える言葉で、
「金秋さん!昔、あんた達が不実の垂れ込みで潰した小呉水産の自殺した乗組員は、わしの弟だよ」金秋の背中の筋肉が一瞬、硬直したのが、支えていたDの手に伝わった。金秋は支えられていた身体を半回転させてDを振り返った。その瞬間!手の支えが外れた身体は横にぐらついた。片足が小石の上で跳ね上がった。ジグザグの通路の折り返しの角にフェンスの隙間があった。八分通り登り上がった地点だった。金秋の身体はフェンスの隙間から滑り落ちて、途中で岩に数回バウンドし、平たい磯に落ちて止まった。網かごが宙を舞い途中の岩の辺りに引っ掛かった。竿は針すがフェンスに巻き付いてぶら下がっていた。
新聞に《危ない!老人たちの磯釣り、転落して一人死亡》の記事が小さく出た。Dは振り返った金秋の血走った眼光を忘れない。
・・・・(村政の記憶) 妻と一緒に天海郷町の伯父の家の跡取りをする事になった村政は葉たばこの乾燥窯を付け火と思われる火事で焼失させ、大きな経済的損失を被った。それは村政夫婦に亀裂が走るずっと前であったが、その犯人グループの一人と思われる酒癖の悪いHが、菊子が焼き物の展示室での作業を連夜続けて、一人、休息寝している時に、酔って真夜中の灯りを求める蛾のように迷い込んで来た。Hは都会の女の魅力を持つ菊子の体を眺めて、魔が差したのか、身体に手を伸ばしてきた。疲労の為、深く寝入った女の胸をまさぐった。さすがに飛び起きた菊子にHは驚き、平謝りに土下座をしたが、菊子は村政を呼んだ。村政が駆けつけた時、Hは狸寝入りをしていて、
「酔っとって!何がなんだか?・・俺は何かやらかしたかな?・・何かやらかしたんなら、謝る!・・」村政は
「とぼけるな! 酔ったふりして、この野郎!」
「だから、何かやらかしたんなら、謝る。・・」と土下座を続けた。菊子は燃えている窯が気がかりだとその場を立ち去った。平謝りを続けるHの姿にその夜は何事もなく過ぎたが、秋の終わりになり近所で法事が行われ、帰り道に村政はHに呼び止められた。二人共酔っていて、Hは深い水路に立ちションをしながら言った。
「お前の嫁はいいケツしとるじゃねえか?」
「この狸寝入り野郎!」とっさに村政は平手をHの顔に飛ばした。Hはぐらついて水路に落ちた。水路には少量の農業用水が流れていたが、Hは体勢を立て直し、這い上がって来るかに見えた。
「今度!菊子に悪さをしたら、警察に引っ張って行くからな!」と恫喝しながら村政は其のまま帰って行った。翌日、Hが水路の中で、全身濡れねずみで死んでいた。死因は酔って水路にはまり、心臓麻痺での自損事故とされた。過去、乾燥窯に付け火をしたと思われるグループの内二人が死んだ。村政は二日酔いが酷くて平手打ちを飛ばした事を良く憶えていなかった。
・・・・(甦ったマシーンの快感) ホテルの入り婿になった秀安は元暴走族だったが、少年院時代、ある保護司に導かれて寿司職人となり、ホテルの娘 常美の夫として迎えられ、ホテルの寿司コーナーで腕を振るった。水族館付きホテルをオープンして十数年は客足が絶えなかったが、次第に状況が下火となり、経営的にオーナーの常美も頭を悩ましていたが、秀安が新しい寿司ネタを考え出した。魚の臭みを完ぺきに消すために洋バチの蜜(アカシヤ)を溶かした冷水に漬け、一気に冷風で乾かす、シャリに使う酢にもハチミツを少量入れ甘みを増す、名づけて《新・みつ寿司》、これがメディアで人気を呼び、女性の宿泊客が殺到した。女の集まる所に男が寄ってくる。常美も高級伊勢海老に加えて、活魚のとびうおや山菜料理屋の里子との協定で旬の山菜も取り入れた。努力が功を奏してそのうちにホテルの宿泊は一時、ピーク時に戻る勢いで簡単に予約が取れないまでになった。そんな時、一団の客が来た。その中に昔の秀安の暴走族のメンバーで悪の道に入り刑務所を出所したJがいた。務所暮らしが長かったらしいJは精進したのか?さっぱりとした性格になっていて毎日寿司を食いに来た。短気だが情にもろい秀安は次第にJに気を許すようになった。数日してJは懐かしい昔話をしながら秀安の心の中を探り始めた。秀安が暴走族時代、警察に疑われた未解決事件があって秀安はその事件については全く記憶がなかったが、その当時、仲間に何かの連絡の手助けをした事があった。秀安はその手助けがその事件に関係しているとは思わなかったが、Jが
「あの事件は実は俺たちがやった事でお前はあの時の連絡係だったんだよ!」
「俺は知らん!そんな事はとっくに忘れた!・・」猫を被っていたJが本性を出し始めた。
「バカ言え!あれは老夫婦の金を狙ったが未遂だったんだ!・・おかげで俺もあの爺ジーに日本刀で腕を斬られて!現ナマを少し握っただけで、金塊は取れなかったんだ。あの爺じーもきれいな金じゃなかったらしくてな?まあ!時効は一五年だから、今、ばれても俺はどおっちゅう事はねえんだが、お前は困るだろう?ホテルのオーナーだからな」
「それはゆすりか?」
「ゆすりとか大それたもんじゃなくて、昔の馴染みが貧乏しているから、少し色を付けてくれと言ってるだけだ。」秀安は頭に血が上りかけた。
「汚ねえ野郎だ!殺すぞ貴様、出て行け!宿泊代は要らねえよ。お前みたいのから金とったらホテルが腐るわ?」Jは薄ら笑いを浮かべて、一団から離れてホテルを出て行った。
「後悔すんなよ?新規寿司ネタの有名人」本性を現したJが秀安には小金で引き下がる奴ではない事は分っていた。
「あんな、汚ねえ奴は息の根を止めなければ始まらねえ、」短気な秀安は腹をくくった。そしてJに連絡を入れた。
「俺もお前も昔のバイク野郎だ。 勝負しよう! 俺が負けたらお前に一生譲るわ」秀安は馴染みのバイク屋で好みのマシーンを撫でながら、気持ちを高ぶらせ、族の本性を蘇らせた。マシーンを借り受け数時間、疾風して見た。そして冬の大阿蘇大観峰にJを呼び出した。バイクのマッチングレースだ。Jもさすがにその申し出を受けた。二人ともバイク野郎の意地を賭けていたのだ。大観峰は小雪がちらついて人一人っ子いない。レースは下から出発し大観峰を登り、やまなみハイウエーをUターンして大観峰を降りたところで勝負を決める事にした。二人はおもむろにエンジンをふかした。
「もう、還暦を過ぎた。若い時のようには行かねえだろう?」
「大観峰の凍結も有りだ」心が躍った。秀安たちは一気に大観峰を登り、やまなみハイウエーに乗った。
マシーンは言うことを聞いてくれた。汚い約束がどこかに飛んで行った。ただ、マシーンと一体となった己だけ、大自然の中に突き進んでいく快感! 秀安は負けてもいいと思った。やまなみハイウエーをUターンし大観峰を下る時、二台のマシーンが並んだ、その瞬間!秀安はJのマシーンを横に蹴った。・
「お前が汚いことをしたので、俺も一回だけ汚い事をするぜ」Jはハンドルを取られ数百メートルの大観峰の崖の下にマシーンと共に消えて行った。・・・
朝目覚めた老人たちは寝汗をかいている者もいた。疲れの中で熟睡した者もいた。火の山阿蘇と別府地獄の湯の大自然の驚異を目の前に、老人たちは其々の想いと其々の歴史を顧みる。夢と幻は時を超えて現れた。そして現実に起こったであろう遠い記憶を省みる老人もいた。夜明け前、観念したように遠い幻のステージを降り、朝食は皆、静かに旅の親睦を深めるように無言のうちに終わったが、三台の大型観光バスは日南海岸を下り、桜島を見上げ、一路、国道三号線を上り、夕方、天海郷町の中央公民館前に到着した。
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