小話

Case:1

    小話:石飾りの小路




「いやぁ、良かったよ。また連絡してもいいかな?」

 二〇二五年。

 一月十日。

 東京、新宿。

 歌舞伎町。

 ラブホテルの入り口の前で、あたしを買った男が、気色の悪い笑顔を作ってスマホを左右に振る。

「もち。今後ともごひーきに」

 それに、いつも通りに、適当に対応する。

 金を欲して体を売る女と、それを買う男。法的には問題があるが、需要がありあたしのような人間が供給を続ける限り、このは消えない。古来より、神事を含めて、女とは男に股を開くことで食い扶持を稼いできたのだ。古代ギリシャだかの巫女は、性行為中に頭に浮かんだイメージを神託として授けたというし。あれは、酒も飲んでいたんだったかな。

 まぁ、零と紅祢に出会ってからは、男だけじゃなく、女相手にも売っているんだけど。

「………二人、今どうしてんのかな」

 スマホを取り出し、ラインを起動する。零と紅祢にそれぞれメッセージを送ってみるが、やはり返事はないし、既読にすらならない。

 『モリヤテイ』の店長は、二人は実家に帰ったとだけ話した。でもそれは、間違いなく嘘だ。だって、あの二人が、前触れ一つなく同居をやめて、実家に戻るはずがない。

 二人と連絡が取れなくなったのは、一か月と少し前からか。彼女達に何があったのだろう。ただの喧嘩別れであればまだいいが、零と紅祢がそうなっている場面が想像できない。きっと、もっと………決定的な何かが、二人の身に起こったのだ。

「家、行ってみるか」

 二人が住む………いや、或いは住んでいたというべきなのだろうか。そのアパートには、以前一度泊まったことがある。半年前のことだ。半年も経つ、とも感じるし、半年しか経っていない、とも感じる。

 時刻は午前五時十一分。二十九分発の始発に乗れば、笹塚に着くのは三十三分か。他人の家を訪ねるにはいささか早過ぎるが、あの二人なら問題ないだろう。まだこの街にいてくれたら、の話だが。


 一度来ただけのアパートの階段を、一歩一歩と上っていく。足が鉛のように重く感じるのは何故だろう。きっと、もう分かっているからだ。

 思い返せば、紅祢とは会って話す機会が少なかった。零とは『モリヤテイ』で会ったり、スカイツリーを見に行ったり、勉強を教えたりしていたが、紅祢と最後に話したのは………花火大会の時、になるだろうか。印象に残る女だったし、零と同じくらいには友人だと思っているのだが、意外と関りは薄かったのだ。

 六〇三号室の、玄関扉の前に立つ。インターホンに伸ばした手が、ふと止まる。

「ドアの色、こんなだっけ」

 他の部屋の玄関扉と見比べて、明らかにこの扉の色だけが、薄い。半年前に来た時は、こうではなかったはずなのだが。

 インターホンを鳴らして、数秒待つ。もう一度鳴らして、また数秒。それを何度か繰り返すが、誰も出てこないどころか、室内から物音一つ聞こえない。

 ああ、やっぱり────

 ────二人はもう、この街にはいないんだ。

 何があったのかは分からない。店長も何も語らない。きっと、"零の友人"であるあたしには聞かせたくないような、決定的な何かが起こって、二人は街から去ったのだろう。

「────………にしたって、あたしに一言も無いの、酷いじゃん」

 二人があたしのことをどう思っていたのかは知らない。でも、少なくとも、あたしは二人を友達だと思っていたし、感謝もしている。特に零に対しては、恩義すら感じているのだ。

 あたしに初めてできた友達で、そして、夜から昼へと向かう背中を見せてくれた、恩人。零がいたから、あたしは、夜の光を浴びて誘蛾灯の紫色に溺れているような人間でも、常夜の街から抜け出すことができるのだと、そう思えたのだ。

 それなのに、いなくなるにしたって、電話とか、せめてメッセージとか、それくらいはあっても良かったのではないか。

「友達だって思ってたの、あたしだけだったんかな」

 そう口にして、感情を吐き出そうとしても、胸中に絡み付いているのは空しさだけ。二人がそんな人間じゃないと、知っているからなのだろう。

 朝っぱらから三人で安酒を呷った部屋はもう空っぽで、街には二人の影は無い。

 あたしはまた、独りに戻ったのだ。




「だからさぁ。しつけーって。一万でも稼げただけいいだろ」

「ざけんな死ね。生ナカしといて一万とか頭おかしいだろ」

 一月十八日。

 東京、新宿。

 歌舞伎町。

 ラブホテルの一室。

 仕事終わりに報酬を要求したら、遊んでそうな見た目の男が、舌打ちとともに長財布を取り出して、渋沢一枚だけを机の上に置きやがった。ホ別ロクゴというから買われてやったというのに、頭蓋の中に蛆虫でも飼っているのだろうか。

「るっせぇな、立ちんぼごときが。どうせテメーら終わってんだから、金あってもしゃあねぇだろが」

「おい待てカス野郎、金払え!」

 部屋から出て行こうとする男の腕を掴むも、体格差と力の差で振り解かれ、床に倒れる。中三女子が成人男に力で敵うはずもない。

 しかし、ここで退いては一晩の苦労が徒労に終わってしまう。なんとしてでも体代を支払ってもらうぞ、と部屋を飛び出し、階段を駆け下り、男に追いつく。が、男はそのまま、自動ドアの方に歩いて行った。こいつ、ホテル代も払わないつもりか。

「おい、マジでざけんな!クソ野郎、金払えっつってんだよ!」

 誰が終わった人間だ。お前があたしの何を知ってる。あたしは終わってない、これからなんだ。受験して、高校に入って、貯めた金で部屋を借りて学費も払って、これから一人で普通になるんだ。自転車に轢かれた初老の女を冷めた目で見ていた零が、少しずつ昼に歩いていったように、あたしも────

「マジでしつけーよお前、ウゼェって」

 走って近付いて、腕にしがみ付く。次の瞬間頬に衝撃があって、世界が九十度くらい回転して、目の前にアスファルトが迫ってきた。顔を殴られて、地面に倒れたのだと理解する頃には、男の背はずいぶんと離れてしまっていて。

「ざっ………けんな、マジで。クズが、カスが、ゴミ野郎が」

 夜の女になら何をしてもいいとでも思っているのか。好きで体を売っている、肉棒狂いの淫乱だとでも思っているのか。仕事でやってんだよ。需要と供給、利害の一致、欲求不満な奴に股開いて喘ぐ演技をして、そうやって金稼いで生活してんだよ。金を受け取るまでが売春なんだ。逃げるな、屑野郎が。

 この街では、こんな光景は珍しくない。だからだろう、警備員らしき男達がすぐに駆け寄ってきて、男は数人がかりで取り押さえられて、あたしもその場から動くなと言われた。

 それから少しして、通報を受けた警察が現れる。目撃者の証言から、男は障害で現行犯逮捕された。いい気味だ。

「えーと、君は………阿比留、やこう?え、これラピスって読むの?名前ヤバいな」

 余計なお世話だ。自分の名前など死ぬ程嫌いだというのに、警官は何度も何度も、下の名前であたしを呼ぶ。

「十五歳………十五歳で立ちんぼか。んー、言いたいことは色々あるけど、取り敢えず親御さんの連絡先、教えてくれる?」

「クソ親の連絡先とか知らない」

 あのカスのような、あたしを産んだだけの男女に連絡などされては堪ったものではない。間違いなく連れ戻されて、殴られる。せっかく抜け出したあの家に戻るくらいなら、それこそ死んだ方がまだ気が楽だ。

「あー、はいはい。反抗期ね。よくいるんだよね、君みたいなの。でも、こっちも仕事だから。連絡先教えて?」

「マジで知らない」

「って言われても、家出少女を放っておくわけにもいかないんだよ、こっちも」

「だから、マジで知らないんだって」

 困ったなぁ、と頭を掻く警官。困ったと言われたところで、知らないことをどうやって教えればいいというのか。とにかく、あのクソ親にだけは、居場所を知られてはいけない。

「………あ、待って。君、捜索願出てるね」

「は?」

 あのクソ親共、一丁前にそんなものを出していたのか。どうせ、あたしを殴って、酒と煙草を買いに行かせたいだけのくせに。

「ああ、お父さんの連絡先あるね。今から連絡するから、大人しくしてて」

「ちょ、待ってマジでやめて!」

 その辺の家出娘と一緒にしないでくれ。生死に関わる問題なのだ。毎日毎日殴られる生活などお前には想像がつかないかもしれないが、こっちは文字通り必死の思いで逃げてきて、ようやく普通というやつが見え始めてきたところなのだ。あいつらがあたしを見つけたら、今とこれからが消えてしまう。壊れてしまう。

 殴り倒してでも連絡などさせない。そう考えて手を伸ばすが、別の警官に体を抑えられる。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。

「人の将来なんだと思ってんだ!なにが警察だ、あたしの人生奪う権利あんのか────んん!」

「はいはい、ちょっと大人しくしててねー。大丈夫大丈夫、親御さんも分かってくれると思うから」

 あたしの口を、警官が手で塞ぐ。気安く触るな、あたしの体は商品だぞ。触るなら金を払え、遊びでやってるんじゃないんだ。

 親御さんも分かってくれる、なんて、何も知らない部外者が、ただの赤の他人が、知ったような言葉ばかりを並べ立てる。産まれた時から普通で、恵まれていて、親に殴られたことなんてない奴らが、あたしの人生を壊しにかかる。どいつもこいつもクソだ、クソばかりだ。

 零、零。なんでいないの、助けてよ、今じゃなくてもいいから、クソ親があたしを家に連れ戻した後でもいいから、助けに来てよ。昔空手やってたって、喧嘩強いって言ってたじゃん。あたしも零みたいに、普通に成って生きたいんだよ。あと少し、もうあと三か月くらいで、あたしは昼に往けるんだ。体を売るのをやめて、コンビニとかでバイトしながら高校に通うんだ。それで、暇な時間に零とかと遊んで、スタバとか行って、それで────

「お父さん、すぐ来るってさ。いやぁ、今日が土曜で良かったよ。平日の朝早くじゃ、仕事あるからとかで来てくれないかもしれないし」

 あのクソ親父が、そんな真っ当な仕事などするものか。お前らは今、国家権力振り回して、一人の人生を壊しただけだ。仕事をしたぞというような表情をするな。

 なんで、なんで皆、あたしをちゃんと見てくれないんだ。置き去りにしていくんだ。誰も彼もが平均水準を満たした家庭で、普通に育っているのだと、どうして決めつけるんだ。

 もう少しで、やっと、あたしも、普通に────




「テメェ、親に黙って、一年近くどこほっつき歩いてやがった!」

 西東京、北町第一児童遊園の近く。

 あたしを産んだクソな男女が住んでいる、安アパート。

 一〇一号室。

 警察の前では比較的温厚な態度を演じていた男だったが、アパートに戻るなり、大声で怒鳴り散らしながら、あたしの顔に拳を叩き込んできた。

「ご、ごめんなさい」

「体売るならせめて俺らに迷惑かけんなや、ボケ!」

「ごめんなさい、ごめんなさい………」

 また、これだ。

 逆戻りだ。

 夜に。

 零と紅祢は、どうしてるかな。元気だといいけど。

 零は、普通に成れたかな。それか、今も普通に成って往ってる途中かも。

 いいな。

 あたしも、普通が良かった。

 せっかく、もう少しで、誘蛾灯の紫色を、振り払えそうだったのに。

「夜光ー。あんた結構稼いだんでしょ?通帳とカード、バッグの中?」

 こうなると分かっていたから、ここには戻りたくなかったのだ。稼いだ金も、これからの人生も、全てこの二つの肉塊に搾取される。普通に成ろうとしただけだというのに、それすら叶わない。結局これが、あたしの人生なのだろうか。零みたいな、大人には、成れないのだろうか。

 ────………いや。

 絶対に、普通に成るんだ。

 あたしのバッグから通帳とカードをくすねるクソ女に飛び掛かり、その顔を殴りつけ、奪い返す。もう、こんな場所には、コンマ一秒たりとも居たくない。こんな奴らの顔など見たくない。あたしは一人で、ちゃんと、普通に成って生きるんだ。

 バッグを拾って、玄関まで走る。夜から逃げるために。昼に向かうために。

 直後、男の怒号が響いて、腕を掴まれ、体の右側面から床に叩きつけられる。そして、右腕の肘に激痛が奔った。

「ぅあ、いっ、ぁ"あ"っ!」

 痛い、痛い、痛い。熱い、冷たい、痺れる。右肘だけが熱くて、他は冷たくて、全身が痺れている。

「ちょ、あんた、流石にやりすぎだって」

「これくらいしねぇと分かんねぇんだよ、ガキってのは」

「一応救急車呼ぶけど、転んだってことで話合わせてよ?」

「わーってら」

 少しだけ頭を動かして、右肘に目をやる。前腕が、変な方向を向いていた。余程強く床に叩きつけられたのだろう、折れているのだ。

「し、ね………」

「ああ?なんか言ったか?」

「死ね、クソ野郎………死ね、死ね、死んじまえ」

 再度飛ぶ怒号と、男を宥める女。割って入ったのは、親心からではない。ただ、これ以上あたしに怪我をさせては警察を呼ばれてしまう、と考えただけだ。


 救急車に乗せられて、病院で手術を受けた。しばらく入院する必要があるらしい。

 顔の怪我の原因を訊かれ、迷わずあの男に殴られたと答えた。骨折の原因もそいつだ、と。二人が手錠をかけられたと聞いて、安堵した。これでまた、普通を目指せるのだと。

 しかし、やはり一度夜に溺れた人間の人生というのは、こういうものなのだろうか。二人が逮捕されたことで身寄りがなくなったと判断されたあたしは、福岡に住んでいる、クソ親父の兄に引き取られることになってしまった。余計なお世話、どころの話ではない。あたしはこの街で、一人で生きていけるのに。

 入院期間中、零のこととか、これからとかを考えては、ずっと泣いていた。看護師達は的外れな慰めを口にするばかりで、結局最後には、「これからは叔父さんの家で普通に暮らせるよ」と、同じ台詞に落ち着く。あたしはまた、誰にも見てもらえない。


 退院日に、初めて叔父を見た。あのクソ親父の兄というからどんなクズだと睨みつけたが、予想外に温和な性格で、肩透かしを食らってしまう。演技かとも思ったが、車の中でも変わらないところを見るに、これが素の性格なのだろう。

 夜の東京が、背後に消えていく。零と紅祢、音葉、出多、心美、かりな、真弥、店長と出会った、鈍色の街が。あたしが普通に成ろうとした、誘蛾灯と看板のライトと夜勤の灯りが朝霧のように停滞する、とても綺麗とは言えない、だけどきっとあたしの全てが生まれた、東京が。

 首都高に乗って、次第次第に、光が疎らになって、最後には黒だけが残る。

 人生万事塞翁が馬、などというが。

 あたしの人生は、結局、墜ちていくだけなのかもしれない。

 もう、流れる涙すら、残っていなかった。

 二〇二五年。

 二月七日。

 午後五時四十五分。

 あたしは、東京から追い出された。




    小話:石飾りの小路

           /終

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