Case:2
金城埠頭と迷った末、桶狭間古戦場公園まで足を延ばした。心霊スポット巡りが趣味、というわけではない。紅祢と初めて会った夜の言葉が、頭から離れない所為だろう。不良グループというと、誘蛾灯に集まる蛾の如く心霊スポットに突撃しているイメージがあるだろうが、私はそういう夜の遊び方は好まない。神だ悪魔だ幽霊だは信じていないが、最低限の、尊厳の問題である。もっとも、殴って蹴って奪って逃げてを繰り返していた人間に、最低限の尊厳を語る資格などないのだが。
夕方というには光が白い時間帯。夏の午後五時過ぎは、真昼時とそう変わらない。落ち武者の霊も、今は地中か木の上あたりで眠っているだろう。
そういえば、霊の寿命は四百年、という話を耳にしたことがある。胡散臭い霊能者気取りの詐欺師連中が考え出した、間の抜けた説だ。史実に基づいた心霊話、それに登場する霊であれば、四百年前だろうと二千年前だろうと紀元前だろうと、きっと誰かの記憶を喰らい続けて生きている。
大池の横を通った。冬場であれば、澄んだ空気が
そこからさらに少し南へ歩いて、石の鳥居を潜り、桶狭間神明社へと入る。今川軍の武将が戦勝祈願をしたという神明社の手水舎には、不細工な亀のような石像が設置されていた。口元に穴があり、細い竹が差し込まれているが、ここから水でも吐き出すのだろうか。マーライオンでもあるまいに。
死者は、訪れた生者に対して、何を求めるのか。記憶に住み憑くという呪いをかけられた人間は、死者に何を想うのが正解なのだろう。
都市部に戻ったのは、午後八時になる直前。有松から名古屋、名古屋から栄へと電車に乗って、地上に出てすぐ、ライトアップされたオアシス21を見た。同じような光景をつい先日目にしたばかりで、出多の言葉が、自然と脳裏に思い起こされる。
十時を回る頃、栄の快活クラブに入った。メイクを落としてシャワーを浴び、保湿をしてから再度メイクをする。出費を抑えなくてはならないため、一晩ここで過ごすわけにはいかないのだ。都合の良いことに、一日二日寝ずに動いても問題ない程度の体力はある。若さは武器、というわけだ。
錦三丁目。名古屋唯一の眠らない街。二か月前までは、この場所が家のようなものだった。
静かな夜が好きだ。
静かな町が好きだ。
人は夜を照らし、その下を這いずり回る。汚れ切った都市環状を尻目に、誰もがきっと、春を待っている。神が自分に似せて人を造ったのなら、この過程も神とやらの経験を基にしているのだろう。
「────────あれ、零じゃん」
ドンキの前でビルの隙間を仰いでいると、よく知った声で名を呼ばれた。声がした方を見ると、五人の男女が立っている。二か月前まで共に夜の下を這いずって、人を殴って、蹴って、金を巻き上げていた連中だ。
「………よっす」
「久々じゃん。どーしてたん、連絡つかんし」
「まぁ、ちょっと」
特に理由はないけど、なんとなく東京行ってて………などと、本当のところを話す義理もない。
「五人だけ?
「あー、あいつね。道でリーマンと口論なって、そのままぶん殴って骨いかせちゃって、捕まった」
「あーね」
大地、というのは、このグループの中で最年長の男だ。今年で二十二歳になる。以前にも一度逮捕されているので、今回は実刑確定だろう。
気に入らなければ暴力を使って黙らせる。生物的本能による、優位を取るための行動。「まだそんなことをやっているのか」と言いたいところだが、残念なことに、私もまだそんなことをやっている。阿比留と出会った夜にそうしたように、それはコットンに垂らしたリムーバーと同じくらい末端神経まで染み込んでいて、社会的善悪を判断するよりも先に、体が反応するのだ。そして省みようとも思わない。殴れば相手が黙るなら、そちらの方が手っ取り早く、効率的だとさえ感じている。無論、合理的ではないし、次に発生する問題を考えれば、効率的でもないのだが。
「その荷物なに?」
先頭の女────親に
「今日明日の、私の全部」
「なにそれ」
能乃は苦笑して、私の隣まで体を移動させた。
「あ、そうだ。女王、妊娠したんだよね」
能乃が女王を指し、その指を隣の男────
「何か月?」
「もうすぐ二か月」
私が名古屋を離れた直後に種を付けられたというわけか。
「産むん?」
「え、当然じゃん?他にないっしょ」
裕也が答えて、女王の肩を抱き寄せる。
女王は十八歳の高校三年、裕也は十六歳で高校一年。真面に育てられるはずもないというのに、どうしてこういう輩というのは、避妊をしたがらないばかりか、後先考えずに産みたがるのだろう。毒親になる未来しか見えない。こうやって、残業の灯りの下を這いずり回る負け犬が、一人、また一人と増えていく。アスファルトの養分になるためだけに、一時の生物的本能に身を任せた一組の男女から、二分の一を足し算したクローンが作られる。クローンなのだから、当然、そいつの将来も推して知るべしだ。
店長は、"ガキのお守りができるようになって、ようやく子供と呼ばれなくなる"と言った。来年の今頃にはすでに父と母になっているこの二人は、どうだろう。産んだ子供のお守りを、正しくできる人間に変わっていて、子供でなくなっているのだろうか。
ずっと、漠然とした不安が胸にある。
子供のまま歳を重ねた時の、将来の自分の姿に対して。
子供でなくなった何時かの、未来の自分の姿に対して。
目の前の、つい二か月前まで行動を共にしていた数人を見ていると、その不安がより具体化されるというか、不安が擬人化して目の前に立っていて、私と会話をしているかのように感じる。省みない私も、間違いなくこうで、そうなるから。
しかし、紅祢との生活を続けるのであれば、このままというわけにはいかない。短絡的で楽天的では、生活など瞬く間に瓦解する。子供だけでは、日常を送ることすら不可能に近いのだから。
「これからカラオケで飲み会すんだけど、零も来んべ?」
というか、妊婦が飲むなよ。子供が馬鹿になるぞ。こいつらが親の時点で、馬鹿以外にはなれないだろうけど。
「触んなマジで、三股が
浮気性は感染症だったのか。いや、押しに弱い性格の人間に限った話であれば、ある意味正解といえるのかもしれない。さくらは非常に気が強いので、感染症対策の必要はないらしいが。
「んで、零も来るっしょ?」
「うぇーい」
以前であれば、断る理由もないので同行していただろう。だが、今は生憎と、この手の連中とは関わりたくないのだ。ついでに言えば金もない。
「わり、金ねェんだわ。あと今日は気分じゃない」
ノリ悪ぃー、と若干白ける五人………否、四人。能乃は私が断ることを予想していたようで、気分じゃないならしゃーないじゃん、と他の面々を宥めている。
「ウチ、ちょっと零と話してから行く。先行ってて、後で電話かけるから」
「おけー」
四人がドンキ横のカラオケ屋に入っていく背中を見送って、能之と二人でドンキに入り、飲み物だけを買って出る。時刻は午後十時二十三分だ。
「もうちょっと早ければ、観覧車乗れたのになー」
ドンキの前、サンシャイン栄のシンボルであるスカイボートを見ながら、能之が呟く。彼女は「まぁ仕方ないか」と続けると、東の方へと足を向けた。噴水でも見に行くつもりなのだろう。
「久屋?希望?」
「んー、希望をきぼーします」
能之はどうやら三段噴水が見たいらしく、希望の広場が目的地となった。といっても、久屋大通公園も希望の広場も、ほんの一ブロック歩くだけで着く距離なのだが。
広場に着いてすぐ、能之は噴水へと向かった。希望の泉とかいう、無難過ぎるネーミングの噴水だ。中心がズレた三段の噴水の頂上には、片足の脛を岩に乗せ、両手を大きく空へと広げている裸女の銅像が立っているが、慈雨を浴びているようにも、飛び降り前の解放感を表しているようにも見える。どちらの意味での希望なのかは、見る者の判断に委ねられているのだ………と、適当なコメントを付けておこう。一応、噴水前に石銘板があったりするのだが、読む気にはなれなかった。
「皆は結構、零のこと勘違いしてるけど」
缶コーヒーのプルタブを開けて、噴水に視線を残したままに、能之が口を開く。
「零って多分、根本はこっち側じゃないんだよね。同じ考え無しではあるんだろうけど、ちゃんと考えてるっていうか。時々そういう雰囲気と表情になるしさ」
そういうところに惹かれたんだろうなー、と能之。
「ウチと付き合ってた時とかもさ、二人の時は、今みたいなだったし」
本来は夜にいるべき人間ではない。そう言いたいのだろうか。或いは、二か月の音信不通期間を"昼に戻ったのだ"と考えて、なぜ夜に戻って来たのかと問うているのかもしれない。
「その荷物、着替えとかでしょ?」
よく分かったな、と私が言うと、能之は「そりゃ分かるよ」と笑った。
「今、零がどこに住んでるのかは知らないけど、明日には帰るんでしょ?カラオケ断ったのは、もう関わりたくないから」
流石、三か月間とはいえ付き合っていただけはあって、私のことはよく分かっているようだ。しかし、それを知っていて、なぜ私と話す時間を作ったのか。そう質問すると、彼女は「なんでだろ」と呟き、少しだけ困ったような表情をした。
「そうだなー。んー………縒り戻したいからって言ったら、どうする?」
「断る。そもそも私、昼前までしかこっちいないし」
「だよねぇ」
私に未練があったとは、実に驚きである。別れる際も特に揉めたりしなかったし、別れた後も普通に接していたから、湿度低めな性格なのだろう、と思っていたのだが。
私も能之も、他の面々に対しては、表面上の友人としての感情しか抱いてない。短い夜の暇な時間を浪費するための相手、というだけだ。いや、初めの頃は、能之への認識も変わらなかった。偶然互いに同性愛者だと知って、たまたま体を重ねた結果、情が沸いたのか交際するに至った、というだけ。とはいえ、一度芽生えたその情というやつはなかなか消えるものではなく、感情だけがずるずると引き延ばされている。
もっとも、私の方はすでに、恋愛感情も未練もないのだが。だからこうして話の誘いを受けたのは、他の四人と違って、然程関わりたくないと思っていないから、というだけのことなのだ。
「ついてったらダメかな?」
ダメかな、と小首を傾げられても困る。能之の行動を縛る権利を、私はすでに手放しているのだから。
「来たけりゃ好きにすればいいんじゃん?」
「んー、一緒に住む?」
別れを切り出したのは能之だったはずなのだが、ずいぶんと押しが強い。
「無理。同居人いるし。まだベッドもなくてマットレス一枚だしな」
「………一緒に寝てるの?」
「不本意ながら」
紅祢の寝相が悪過ぎて、何度殺意を覚えたことか。早急にベッドを買いたいところだが、私も紅祢も金に余裕があるわけではないので、先延ばしになっているのだ。来月の給料次第では、マットレスをもう一枚買うことも視野に入れるべきか。
「それって今カノ?」
「いや、ただの同居人だけど」
「でも零、パーソナルスペース広めじゃん。気ぃ許してる相手以外とは寝ないでしょ」
「気は許してるけど、別にそれ、恋愛感情だけに使われる表現じゃないだろ」
そうだけど、と不服そうな能之。仮に私と紅祢がそういう関係だったとしても、能之とはもう別れているわけで、関係の無い話だろうに。
「まぁ、上手くいかなかったから別れたわけだし。今更縒り戻したところで二の舞か」
一度別れた二人が、縒りを戻してハッピーエンド。
「女王と裕也見てさ、零、こいつらバカじゃねって思ったでしょ」
「思ったし、実際バカだろ」
「ね。ほんと、夜にいるやつらって、全員バカなんだよねぇ」
ウチも含めてさ、と、能之は自嘲気味に嗤った。
「最近、なに考えてるの?将来とか?」
将来のことを考える。確かに合っているが、ここでいう将来を考えるとは、なりたいものとか、やりたいこととか、そういう前向きな意味ではない。もっと後ろ向きな、しかしきっと重要なことだ。
「そのうち、子供じゃなくなった時に、私は────」
────ちゃんとやれるように、成れるのだろうか、と。ずっと、それを考えている。
「成程、成程。大人になろうとしてる、ってわけだ」
「どうだろ。でもまぁ、多分そう、なのか?」
子供と呼ばれなくなって、大人になったのだと自覚する。そこに至るまでに必要な要素は、何か。自制を学ぶこと、だろうか。
例えば、今の私であれば、暴力に対する自制がない。手っ取り早い問題解決手段だと考えている。行動に伴う結果を無視しているのだ。暴力は何も生まないとよくいうが、何も生まない行動など一つとして存在しない。行動には必ず、利益か不利益、そのどちらかの結果が生じるのだ。それを考えられるようになることが、子供でなくなること………なのだろう。
「じゃ、ウチはもう少し、子供に戻ってみようかなー。爪先立ちやめて、等身大に」
そう言って笑った能之はスマホを取り出すと、女王に通話をかけた。
「あ、ウチ。ごめん、ちょっと行けなくなった。てか、しばらく遊べんかも」
ごめんってー、と少しの間電話口の相手と談笑していた能之は、通話を終えると私に向かって悪戯っぽくにひっと笑顔を作って、ラインのトーク欄の女王達をブロックした。
「どしたん、急に」
「なんかねー、零見てたらね。恥ずかしくなった。ちゃんと考えてるんだなー、って」
だから、しばらく夜から離れるよ。と能之は伸びをした。
「明日から、学校行こーっと」
空き缶を手の中で弄る彼女を見て、私の方が恥ずかしくなった。恥ずかしげもなくまだ夜から抜け出そうとしていない自分が、恥ずかしくなったのだ。
考え無しが多少考えているふりをしてみたところで、行動に移していないのであれば、それはやはりふりだけだ。実際には私は、まだ何も考えていないままで、変わっていない。
「零ー!」
背を向けて離れていった能之が、振り向いて私を呼ぶ。
「会えてよかったー!ばいばーい!」
そう言い残して、能之は駅の方へと歩いて行った。
夜に溺れた人間は、昼の光を浴びると、水分を奪われて干からびて、道端で野垂れ死ぬ。
きっとそのうち、能之も夜に舞い戻るだろう。手足を大きく動かして、逃げ走る様が舞踏のようになって、どうせ、これまでと同じになる。
それでも彼女は、昼に戻るらしい。私を見て恥ずかしくなったからと、自分のこれまでとこれからを考え、省みて、精神適応外の時間へと。
少しの間、鏡を見る度に、恥ずかしくなりそうだ。
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