Case:5
東京。
渋谷。
笹塚。
駅北側のビルの隙間に体を捻じ込ませている、細い六階建てのアパート。エレベーターもなく十八部屋しか入っていない、しかし笹塚駅まで徒歩二分圏内ということで家賃は高いという、なんともコメントの付け辛い物件。それが、紅祢の自宅らしかった。
「ここ、屋上出れるんだよ。管理人さんに許可取ったら、バーベキューとかできるの」
「BBQ………」
阿比留が涎を垂らす。夏といえばバーベキュー、異論はない。私も経験がある。アパートの屋上で、となると未経験だが。
「わたしの部屋、最上階だから。階段疲れるよー」
ええ………と、阿比留と二人で不満を漏らす。
あの後、五時台の電車で池袋まで戻ろうか、と考えていたところ、紅祢に家に誘われた。二人揃ってだ。どうやら、阿比留も私と似たような生活をしている、と聞いて、朝から飲んだくれたくなったらしい。
その、実に健康的なお誘いを、私と阿比留は二つ返事で受け入れた。
私と阿比留は新宿駅のロッカーからそれぞれキャリーバッグとリュックを取り出し、三人で京王新線に乗り込み電車に揺られ、そうして今に至る。人と飲むのは随分と久し振りなので、正直かなり楽しみだ。
息を切らしながらようやく最上階に辿り着く。このアパートは上から見ると
「ここがわたしの部屋ー。入って入ってー。あ、零は上がる前に………」
「コロコロ拭く、でしょ。持ってる」
人様の家に上がる前に、キャリーバッグのコロコロをウェットティッシュで拭く。常識である。
玄関脇には小さなシューズラック。上がり框の先、右手すぐには一口IHコンロが置かれただけのキッチンと流し台、その下に備え付けの保冷庫と収納。左手にはトイレの扉と、洗面所兼風呂場へ続く扉。
「ザ・ワンルームって感じの玄関回りだ」
「でも、風呂トイレ別なんだよ」
ワンルームで風呂トイレ別というのは、探すのになかなか苦労しそうだ。
そういえば、欧米では風呂トイレ同じが主流だと聞いたことがある。なんでも、風呂は汚れを落とすための場所であり、トイレと同じ部屋にある方が合理的というか、自然なんだとか。私は絶対に御免だが。
阿比留と共に、廊下と呼ぶのも烏滸がましいそこを抜けて、正面の擦りガラスが嵌められた扉を潜る。六・五畳、最低限の家具も揃っていない、殺風景な室内だ。
が、
「お、おお、おおおー」
部屋の左奥に梯子が見える。洒落た人間の家には必ず存在するという、幻の空間への、天使の梯子だ。
「ロ、ロフトだー!」
「ほんとだ、ロフトだ!」
荷物を部屋の隅に置き去って、梯子を上る。なんということだ、ロフトは実在したのだ。紅祢はお洒落女子だったのか。良い部屋に住んでおられる。
「零のテンションがバグった………」
「これがバグらずにいられるか!ロフトだぞ、ロフト!やっぱここで寝てんの?」
「いや寝ない。暑いし」
なんと勿体ない、と後に続いて上がってきた阿比留と共に、耐久性が気になる板の上に寝転がる。素晴らしい。これがロフトか。天井が近い。私もこんな部屋に住みたい。
きゃいきゃいと阿比留と転がるが、少し経ってから、ロフトの致命的な欠陥に気付く。というより、直接肌でそれを感じた。
「………クッソ暑いんだけど、ここ」
「いや、だから言ったじゃん。暑いよって」
日本の気候にロフトは合わない。夏は暑く、冬は寒い。いや、ヒーターを置けば冬はまだ改善の余地があるが、夏場は地獄でしかないだろう。扇風機などという、初夏の極僅かな期間しか役に立たない代物では、茹だる暑さを乗り切ることなどできはしない。何しろ日本の夏は、アフリカの熱気を日常として肺に溜め込んだ人間ですら、酷暑と評する程なのだ。
ロフトで遊ぶことを断念した私と阿比留が、死んだ表情で梯子を下りる。やはり、浪漫などというものは、現代社会には存在しなかったのだ。滅びろ世界。
そんなことより、と紅祢が手にしたレジ袋に視線を集める。笹塚駅前のセブンで買ってきた、安くて度数が高い、悪酔い必至の安酒。セブンなんたらとかいうブランド版のストゼロだ。
「なにも言われなかったね、買う時」
「言われないよ。髪が普通より派手だと、勝手に成人してるんだなーって勘違いしてくれるから」
だから阿比留も一人で買えると思うよー、と、紅祢がプルタブを開ける。私と阿比留もそれに倣い、手にしたとてつもなく不味い疑似ストゼロの缶を打ち合い、同時に酒を呷った。
「座布団かなんかないの?ケツ痛いんだけど」
「一枚ならあるけど」
あとはマットレスくらいしかない、と紅祢が部屋の隅を指し、ずずずとそれを部屋の中央に押してから、雑に広げる。
「じゃ、私マットレスで」
「じゃああたしも」
「えー。家主を差し置いて図々しい客だなー、もう」
酒の席で細かいことを気にするな、とマットレスを二人で占領し、紅祢を座布団へと追いやる。
「あ、なるべく騒がないようにね。ここ、宅飲みダメな物件だから」
だろうな、とストゼロの贋物を喉奥に流し込む。宅飲みが許されるワンルームの物件があるならば、むしろ見てみたいものだ。
紅祢がレジ袋の中身を床にぶちまける。同じくセブンで買ってきた、割高なつまみたちだ。
「デカカルパス誰の?」
「私。美味いんだこれ」
各々が自分で買ったつまみを手元に寄せて、朝っぱらから酒に溺れていく。
世間では今日は水曜日。つまり週の真ん中で、平日だ。あと一時間と少しすれば、仕事や学校へ向かう人達が、アパートの下を通り過ぎていく。
全員が、敢えて特定の話題を避けるかのように、中身の無い会話を続ける。それでもきっと、心の底では、同じことを考えていただろう。
平日の朝。街は既に洗顔を終えていて、窓ガラスを一枚隔てたその向こうでは、世間が、社会が、世界が回っている。部屋の扉を閉ざしても、夜の街を歩いても、私達がその一部である事実からは逃げられない。
三人が三人とも、思考を停止させるべく、まだ足りない、まだ酔えない、まだ忘れられないと、缶を呷る。午前六時三十九分の光景。
────なにやってんだろ、私達。
そんな呟きを舌上にすら出さないように、喉を焼いていくのだ。不味い安酒と、価格に合わない内容量のつまみを手にして。
「わたしメイク落とすけど、クレンジング使う?」
「んー、どうしよ。帰りにメイクすんのめんどいしなぁ。………いや、帰る家ないけど」
「え、泊まってくんじゃないの?」
帰るつもりだったのか、と紅祢が間の抜けた表情をする。
確かに、宅飲みの誘いを受けておいて、飲んだら飲んだでじゃあ帰りますでは通らない。幸いにも私の荷物は全てキャリーバッグに収まっている。つまり、メイク道具はある、というわけで。
「ありがたく借りるか」
「あたしもー」
どうせ、寝る場所といってもネカフェか公園くらいのものだ。このまま床で潰れるのと大差ない。
まぁ、私は酔い潰れてもマットレスを占領し続けるつもりだが。
結局、朝方の晩酌は昼前まで続き、最後の一人────私が酔い潰れたのは、午後一時を回る頃だった。
セブン版ストゼロを買い足し、合計で十本の空き缶を生成した私達は、そのまま全てを忘れるべく眠りに就き、目が覚めた時には午後九時を半分過ぎていた。
順番にシャワーを浴びて、部屋の片付けをする。ゴミは分別などせずに、一つに纏めてベランダへ。そのままついでに、三人で煙草を吹かすことにした。
視線を下に動かすと、京王線と京王新線の線路が見える。線路を挟んだ向こう側には、いくつかのマンションと、営業を終えたばかりのフレンテ笹塚。それらの隙間からは、東京以外でも見ることができる住宅街。眠りつつある街の景色だ。
「………仕事、どうしよ」
ベランダから灯りも疎らな街へ、煙を贈る。周囲のウケがよく、ユーザーが多いというだけで吸っている、赤マルの臭い煙を。
「レズ専ママ活デビュー」
お前の助言だぞ、と阿比留がウィンストンの先を私に向ける。
「今の時代、ウリするにしたって、スマホ持ってないと客引きもできんしなぁ」
住所不定無職、連絡先も無し。我ながら詰んでいる。
何をしているのか、以前の問題だ。この状況から、どうしようというのか。
足を踏み外してみたところで、私はまだ未成年。親元に返されるか、鑑別所行きか、そこから少年院に入るか。その程度の未来しか見えない。
「あー………金がねぇー………」
ね、と二人が頷く。
つまるところ、問題はそこなのだ。金がない。稼ぐ手段も見つけられない。いや、きっと、本気で焦っていないから、見つからない。
現状から抜け出そうという気概が、無いのだ。
しかしそれを、阿比留は否定する。自分は底辺では終わらない、金さえあれば、人生を変えることができるのだ、と。
「………中一の秋にね。クソ親父がさ、金ないから、文化祭の集金盗ってこいって」
互いに名を知って、特別深い理由もなしに、同じ部屋で酒を飲んだだけ。今夜が終われば、少なくとも、阿比留はこの中から消えるだろう。
だからきっと、阿比留にも、特別な理由はなかったはずだ。本当にただ、そう、なんとなくで、話し始めた。
「現実でそんなのあるんだって思ったけど、言うこと聞かないと殴られるから、そうした。したら、バレて虐められるようになって。おまけみたいに、高校は義務教育じゃないから、行くなら自分で学費払えって」
フィクションのようなテンプレートな話だが、本人にとっては重大な問題で、転換点だ。
「だから金が要る」
裕福な家庭に産まれる。それだけで幸福になれるというわけではないが、貧困層の産まれというのは、たったそれだけで、決定的に、確定的に、絶望的に、不幸だ。
金があれば、その微温湯のような地獄から抜け出す、活路を拓くことができる。金があれば、たったそれだけの決定的な不幸を、変える術を得られる。
「金貯めて、中学卒業したらちゃんと部屋借りて一人暮らしして、高校行って、コンビニとかでバイトして。大学も行きたい。大学出たら就職して、三十ちょっと前くらいで結婚して、二年か三年くらい後に子供産んで………」
彼女もきっと、理解はしているのだろう。平凡と呼ぶに値する人生を送れる者は意外と少ないのだ、ということくらいは。
平凡であれ、幸福であることに違いはない。そして、世の人間の大半は、絶対的に不幸のはずだ。
「あたしも皆みたいに、そうやって生きるんだ。今はこんなだけど、絶対、普通になってやる」
生まれる家は間違えたけど、そんな理由で、このままで死んでなんかやらない────と、ベランダの
我が子に
「朝の………ばぁさんが自転車に撥ねられた時の。あの時の阿比留を見る限り、普通には多分、なれないよ」
「………………うん、そうだね。分かってる」
底辺からの脱出。決して不可能ではない。可能性がゼロではないなら、それは誰かの身には起こり得る。
だが、その誰かが自分になることは、ない。
私達は所詮、午前四時半の西の果てで、白む東の空を羨むだけの、その他大勢に過ぎない。敗れて追われ、地平線の下で天蓋を背負うしかなくなった、既に
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