Case:4
七月十日。
午前四時四十二分。
新宿駅東口前。
紅祢のバイトが休みということで、無理に始発で帰ることもない、と適当に歩いていると、数時間前に見た髪型の少女が座り込んでいるのが見えた。ねちっこい男に営業をかけていた、二色のメッシュ入り黒髪ツインテールだ。
恐らく、私達が逃げたどさくさに紛れてその場を後にし、ホテルに入ったのだろう。結局一晩いくらで話が纏まったのかは不明だが、四時間程度で数万円を手にできるのであれば、確かに得な商売ではある。
妙な客に引っ掛からなければ、だが。
ちょっとした興味で、顔を伏せている少女に近付く。足音に気付いて顔を上げた少女の目元には痣があって、唇も切れていた。
「やっぱあのおっさん、そっち系だったか。保冷剤とか持ってる?」
「………持ってるわけない。お陰でしばらく仕事できない。変なのに当たっちゃった」
「気ぃつけなよ。ああいう手合いが一番ヤバい、らしいから」
手慣れた者なら、交渉の時点で客に取るべきか否かを見極める。体を売った回数はそれなりにあっても、まだ春を売り始めて日が浅いのだろう。
「氷、買ってくる?」
腰を折って目線を低くした紅祢が、駅中のコンビニの方を指す。少女はそれに首を振って答えた。
「分かってたなら、教えてくれてもいいじゃん」
恨めし気な目で、少女が私を見る。
「あの程度の判別もできないなら、もう少し真っ当な体の売り方しろってこと」
立ちんぼというのは、ウリの中でもそれなりに危険度が高い。危険度の高い仕事を選ぶのであれば、最低限自分の身を守る術を身に付けるべきで、そしてそれは、経験からしか得られないものだ。
「ま、その程度で済んで良かったんじゃね。もっとヤベーのもいるし」
少女の隣に立って、慰めにもならない言葉を口にしてみる。もっとも、慰めるつもりもないのだが。
「どんな?」
「女にレスタ入れて自分で葉っぱキメて、口から色々撒き散らしながらヤって、そんで女の腕折ったヤツとか」
「ぇ、こわ………」
紅祢と少女が同時に、盛大にヒく。名古屋時代のエピソードには、こういう類の面白可笑しいものも多い。
因みに、その女というのが私の友人の一人で、後日男を路地裏で締め上げ、示談金をグループで山分けにしたというのが話のオチだ。女はOD中に階段を踏み外して転げ落ち、骨折したということにした。
「それ、医者とかなんか言わなかったの?怪しい、みたいな」
「OD中に階段から落ちた、ってことにしたんだって。これだけで分かるっしょ」
ああそういうこと、と少女が納得する。市販薬中毒者を気にかける程、医者も暇ではないのだ。
「歳いくつ?」
この少女にどの程度の売春経験があるのか、という疑問にアタリを付けるため、年齢を問う。
「十八」
「そっか」
まぁ、そりゃ初対面の相手に実年齢は明かさんよなー、と適当に相槌を打つ。
「………嘘。ほんとは今年十五」
しかし、何を思ったのか、少女は実年齢で答え直した。先程までの会話で、多少距離を縮めても問題ない、と判断したのだろうか。将来は壺やら数珠やらを買い込みそうだ。
「二つ下か。若いっていいねぇ」
「わたし達もまだ十分若いよ………」
「二人とも十七?」
「わたしは今年十九」
「大学生?」
「由緒正しきフリーター」
「私はプー」
「プーってなに?はちみつに飽きた黄色い熊?」
B級ホラー映画が好きなのか、こいつ。趣味が合いそうだ。
というか、紅祢もそうだが、見た目に反して映画が好きな女、というのは結構多いのだろうか。いや、ただの映画好きならいるだろうが、マイナー映画好きな女というのは、少々近付きたくない人種だ。自分のことも含めて。
「B級ホラーじゃなくて、無職って意味。私の人生はB級程高尚じゃない」
「何級なの?」
「あー………オメガ級?」
「そっか。人生詰んでるんだ」
話していると、少し先で、初老の女が若い男の乗った自転車に撥ねられた。男は女に罵声を浴びせるとそのまま走り去り、後には路上に蹲る女と、スマホで撮影する人間達だけが残る。都会ともなると、やはり自転車との衝突事故は絶えない。名古屋でも、東京でも、きっと京都や大阪でも。
「救急車とか、呼ばないの?」
少女が私と紅祢に、模範的行動を取らないのは何故か、と問う。
「スマホ持ってない」
「え、そんな人いるんだ。どっちも持ってないの?」
「わたしは持ってるけど………」
紅祢がスマホを取り出し、不思議そうに少女を見て、それから形成されつつある人だかりに視線を戻す。
「呼びたいの?救急車」
少女は首を振り、興味なさそうに答える。
「ううん、別にどうでもいい。知らない人だし」
そう、知らない人間だ。故にどうでもいい。
自分の身に起きた場合を考えろ、とご高説を垂れる者もいるだろう。だが、それは無意味だ。何故なら、まだ自分の身に起きていないから。刹那的破滅思考の人間には、そんな発想すら出てこない。
「でも多分、普通の人なら、こういう時はそうするんだろうな、って」
少女が、人だかりを見つめる。何の感情もない瞳で。私や紅祢と同じ瞳で。
「ならやっぱ、私らが呼ぶ必要ないでしょ。私らより普通の────いや、普通っぽいヤツらなんて、そこら中にいるんだし」
普通とは何か、などとよく耳にするが、明確な答えを知っている者などいるのだろうか。人は、何時如何なる場合に於いても、『自分』という仮面を被って生活を続けているらしい。そして、社会は法を定めても、普通を定義しない。
「ああいうのさ、ネットとかで動画見たヤツらとかって、命にかかわることだぞーとか、常識的に考えて有り得ないーとか、そうやってキレたフリすんだよな」
しかしそれは、自分には真っ当な感性があり、普通の道徳と倫理観を持ち、決して出る杭などではなく、排斥されるべき人間ではない、ということをアピールしたいだけではないのか。
社会というのは、どれだけ発展しようとも、相互監視が根底にあることは変わらない。それ故に、普通であると自分に言い聞かせているのではないか。普通でないと知られてしまうのが、この上なく恐ろしいから。
「だって、こんなん誰でも分かるじゃん。例えば知らない人間が自分の目の前で殺されたところで、知らないんだから関係なんてあるわけない、って」
そういう場面に恐怖するのは、自分の身の安全が保障されないからだ。逆に言えば、身の安全さえ保障されているのであれば、
人だかりに気付いた通行人の一人が、人を掻き分けて、中心で蹲る初老の女に駆け寄る。これ一本で一日分の人間繊維、優しい世界というやつだ。
「ほら。ああいうふうに、自分に"自分は優しいんだぞ"って言い聞かせてるヤツが、ちゃんと普通を演じてくれる。だから関係ないんだよ、私らみたいなのには」
「そう。頭おかしいんだね」
「お前もこっちだろ」
つまらないと傍観している私達も、面白いと群がっている野次馬も、優しさを振り撒く普通の人も、変わらない。何を演じているかが違うだけだ。
救急車が現れる頃になって、そういえばまだ名前を聞いていなかったな、と少女に名を問う。
「人に名を訊ねるならば、まず自分から名乗るのが筋ではないか?」
「一度は言いたい台詞ランキング何位なん、それ」
「んー、十七位くらい?」
「上に十六個もあるの………?」
これ以上がまだ十六も残っているとは、非常に気になるところだ。あの台詞やあの台詞は、いったい何位にランクインしているのやら。
「私、零。こっちは紅祢」
「紅祢だよー、よろしく」
「
珍しい苗字だ、とは言わない。私も紅祢も、かなり希少な姓を持っているという自覚があるからだ。
「下の名前は?」
その質問に阿比留が押し黙り、人に言えないような名なのか、と察する。恐らく、キラキラネームなのだろう。とびきり難読なやつか、とびきり頭の悪いやつか、もしくはその両方を併せ持っているような。
「………………………………らぴす」
「ラピス?」
「夜の光って書いて
「盛大に親ガチャ失敗したな………」
「ほんとにね」
キラキラネームを付けるにしても、もう少しこう、意味や語源を調べてからにすべきではなかろうか。いや、その程度の発想力すら持ち合わせていないからこそ、妙な名付けをするのだろうか。
しかし、世の中には、真面な感性でキラッキラな名前を我が子に付ける畜生も存在している。阿比留の親はどちらだろう。
「零………さん、はさ」
「呼び捨てでいいよ」
生憎と、さん付けで呼ばれるような人生は送っていない。
「で、なに?」
「パパ活とか、結構やってるの?」
やはりそう思われているか。最初の助言というか、あれは経験者か、近くに経験者がいる者でなければ出ない。ついでにこんな派手な見た目だ。当然、同類に見えるだろう。
「いや、ちゃんとやったことはないかな。女になら売ったことあるけど」
レズ専門のママ活、という分野も存在するが、私の場合は、街で声をかけてきた顔の良い女と寝て、それで金をもらったことがある、という程度だ。聞き齧った言葉を助言として与えるにも、既に品切れなのである。
「じゃあ、あたしも買ってくれる?」
阿比留が座ったまま、上目遣いで私を見る。
ふむ、成程。好みかどうかと問われれば、阿比留は好みに入りはする。普通に可愛いし。抱けと言われれば喜んで抱きはするが、しかし、
「買う金ない」
女遊びに使える程、金銭に余裕はない。紅祢と街を遊び歩くだけでも、恐らくかなりの出費になるのだ。収入の無い現状では、阿比留を買うなど愚行の極みである。
「そっか、残念。あたしもあんまないけど」
「女の人としたことあるの?」
「あるわけないじゃん。あたしレズじゃないし」
紅祢の質問に、何言ってんだとばかりに答える阿比留。そりゃそうかという感想以外出てこない。
世界中でジェンダー問題が取り上げられているが、数が増えたわけではなく、ただいるということを世間が知り始め、カミングアウトする者が増えた、というだけのこと。マイノリティがマジョリティに取って代わることなど、現代社会ではそうそう起こらない。
「なら、一個だけアドバイス」
「聞く」
「女も客に含めれば、リスク高い立ちんぼじゃなくても稼げる。ネットの掲示板とかでレズ相手に使えるSNSとか聞いて、そこで探しな。男客なら、Xか………インスタで裏垢作って、そこで釣ればいい」
個人情報だけには気ぃ付けなよ、と付け加えるのも忘れない。阿比留は「なるほど、女相手も客に………」と真剣にスマホにメモっていた。
「ああでも、マチアプ勢には要注意。マチアプレズ民って、結構未成年NGなヤツいるから」
男が相手ならば、大抵は気にする必要はないが。これも一種の民度の差、というやつか。
「ありがと。もっと稼げそうな気がしてきた。頑張る」
頑張るのはいいが、程々にすべきだろう。春を売るなら、文字通り体が資本。体調管理や病気への対策など、気を付け過ぎるということはない。それと、女客を取るのであれば、指コンも買っておいて損はないだろう。使うかどうかは別として。
「ユビコン、ってなに?」
「指用のゴムだよ。指用コンドーム。確かに、あった方がいい………かも?」
まぁ、あんま使ってる人見たことないけど、と紅祢が唇に指を当てる。こいつも大概、そっち方面に詳しいようだ。
二人の女から助言をもらった阿比留は、私と紅祢の顔を交互に見て、同時に指をさし、
「二人、付き合ってる感じ?」
と小首を傾げた。
成程。確かに状況的に、誤解されても仕方がないのかもしれない。加えて私は完全に同性愛者だし、どうやら先程の発言から、紅祢もそうである可能性が高い。となれば、交際関係にあるのでは、と考えるのは自然だ。
「わたし達、まだ今日で会うの二回目なんだけどね」
「嘘じゃん絶対」
「マジよマジ。初めて会ったの一昨日の夜中」
「嘘じゃん、絶対。熟年感出てるもん」
ジュクネンカン、と二人で噴き出す。たった二回で醸し出てしまう熟年感とは、随分年季が浅い。
紅祢が私の肩をぽんぽんと叩き、呼吸を整える。
「ねぇ、零」
「なに」
「今夜は熟年感」
「出前館みたいに言うのやめな?」
それデリヘルじゃねぇか、と紅祢の手を引っ叩く。
その光景を見た阿比留が再度指先をこちらに向けて、
「いや、やっぱ付き合ってんじゃん」
と、疑いの眼差しを向けてきた。
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