第28話 推しとのクリスマスイブ③

 お茶を濁す、という言葉は非常に便利だと思う。

 そうやって誤魔化せばどうにかなることは往々にしてある。


「音無くん」

「あの……ちょ、ちょっと、静香さん?」


 しかしお茶を濁すにはそれなりの距離はやはり必要である。

 座っていた僕の膝に向き合うようにして馬乗りになって至近距離で見つめてくる静香推しを相手に誤魔化してこの場をやり過ごせるのはやり手の詐欺師くらいのものだろう。


 つまり僕が言いたいことは「誘惑に負けたい」ということだ。


 静香さんはシャンパンはあまり強くはないのだろう。

 いつもと違って明らかにお酒の回りが早い。

 そんな静香さんが色っぽく甘えるようにゆっくりと麗しい唇を近付けてくるというこの異常事態に男としてどうしろと?


 抱くべきか?

 男である以上、女性に恥をかかせてはいけないという理由を正当化して僕は今、大人の階段を登るべきなのか?


 しかし、ファンとしてはそれはいけないことであると知っている。

 この一線を越えてしまえば、少なくとも僕はもう純粋な”静香さんのファン”ではなくなってしまうだろう。


 それはきっと、自分の中の何かが歪むと思う。

 どうしていいかわからなくなるだろうと思う。


 静香さんがまだシラフだったら、真剣に受け止めて覚悟を決めてもよかったかもしれない。

 華奢な静香さんを抱き寄せてキスをすればいい。

 キスなんてしたことがないから、きっと下手だと笑われてしまうかもしれない。


 僕が笑われるのはいつものことだ。

 それでいいと思う。


 だが問題の本質はそこじゃない。


 静香さんがただ寂しくてこうしているだけならば、誰でもいいと思っていたなら、僕はそれを許容できない。

 そんな静香さんでいてほしくない。


「……音無くんは、わたしのことを、好きでいてくれるよね?」


 目の座った静香さんはゆっくりと腕を僕の首に回してきた。

 揺らめくようなその仕草に思わず息を飲んだ。

 目を離せないし、離したくない。

 このまま飲み込まれてしまえば楽だろうと思う。


 僕がクズ男だったなら、こんなに都合のいいことはないだろう。

 歳上のお姉さんで童貞を卒業してしまえるだろうし、酔っているなら弱みだっていくらでも握れるだろう。

 そしてそのまま性欲に溺れて怠惰に浸りたい。

 クズになりたい。


 だけど、それでもいやだった。

 わかっている。

 青臭いことを考えていることくらい。


「静香さんは……僕にどうしてほしいんですか?」


 今なら、静香さんを手に入れられる。

 自分の所有物にできるかもしれない。

 黒く汚れた考えはいつも甘くて魅惑的だ。


 それが手を伸ばせば簡単に届いてしまうこの状況は、きっと僕の人生の分かれ道なのだろう。


「……どうって?」


 あまり長くはない付き合いの中で、静香さんが何を抱えて、何を求めているのかはなんとなくわかる。

 だってそれを僕も欲しいと思ってたから。


 言葉にできるほど語彙力もないし、それがなんなのかは具体的に想像できるわけでもない。


 それでも、わかる。

 前に静香さんは言っていた。

 静香さんと僕はどこか似ていると。


 その言葉の本質はわかってた。

 お互いに何かが欠けている。


 だからたぶん、静香さんは求めているものはひとつだろう。


「音無くん」


 僕は静香さんを抱き締めた。

 静香さんが求めているものは愛情なのだろうと思う。

 漠然としていて形すらよくわからないそれを求めて、そしてそれが自分に無いことを知っている。

 それが無いという傷を舐め合える仲間がほしいのだ。


 だから誰でもいいわけではない。

 その傷を舐め合う痛々しい行為は、お互いにその傷がなければ成立しない慰めだ。


「甘えたいんでしょ。今日だけですよ」


 僕に母親はいないし、代わりだった婆ちゃんにしてもらったことがあるような曖昧な記憶を頼りにそっと抱き締めた。

 静香さんのような人をもしかしたらアダルトチルドレンと言うのかもしれない。詳しくは知らないから断言はできないけど。


 でも僕も似たようなものだろうと思う。

 静香さんのことをかっこいいお姉ちゃんみたいに思いたかった。

 たぶん、姉でなくてもよくて、兄でも良かったのだろうと思う。

 頼れる歳の近い人がそばにいてほしかった。


 でもそんな人はいない。

 僕にも静香さんにも。


「静香さんはしばらくシャンパンは禁止です」

「……うん……」


 悪酔いは困る。

 なんなら僕の方が甘えたいのに。


 静香さんが痛い思いをしないようにそっと抱き締めて、頭をゆっくりと撫でた。

 長い髪をくように、少しでも静香さんが安心できるように。


 本当は頭の上を撫でてみたかったけど、頭ポンポンは髪が乱れるからされたくないと聞いたことがある。

 というかそういう動画の編集もしたことがある。


「……音無くん……」

「……なんですか?」

「……ありがと……」


 僕の首と肩の間に埋まるように顔を埋める静香さんは情けない小さな声でそう言った。

 そして肩に水滴がぽつぽつと垂れていくのがわかった。

 その水滴が静香さんの涙であることは言うまでもなかった。


 そうして子どもをあやすように頭を撫でて、少しずつ整っていく静香さんの呼吸を熱と共に感じた。


「……眠ったか……」


 不意にぐっと重くなった。

 静香さんが重いとかじゃなく、眠って体の力が抜けたのだとわかった。

 ずいぶんと大きな子どもだと思う。


 お酒に酔って、未成年の男子高校生に抱き締められて眠るお姉さん。

 夜が明けたら、静香さんはどんな顔をするのだろうか?


 そんなことを考えながらしばらく抱き締めたままでいた。

 そして静香さんの寝息が安定してきたのを確認してベッドに寝かせた。


「……なんか疲れた……」


 親が子を育てるというのがどんなものかは知らないけども、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。


 ようやく眠ったかと思えばテーブルには冷めきった夕食がほとんど手付かずでそのままだ。

 仕方なくラップして冷蔵庫に保存してお皿を洗って、シャンパンの保存方法とか調べたりして更に疲れた。


 ようやっと片付け終えて歯を磨いて眠ろうかと思ったときに僕は気付いた。


「……どうやって眠ろうか……?」




 ☆☆☆



 結局寒さで一睡もできずに朝になった。

 タオルケットを巻いて寒さを誤魔化した。

 暖房を付けていたとはいえ、それでも床で寝るのは堪える。


「へっくしょん」


 男はつらいよ。

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