第2話『思い出を閉じこめるカメラ』


 足が導いた先は、小さな公園だった。

 ブランコに一人の少女が座っている。小学四年生くらいだろうか。膝に古いアルバムを抱えて、じっとページを見つめていた。


「……消えてる」


 少女の声が震えていた。

 ヒバルはそっと近づいて、隣のブランコに腰を下ろした。配達袋の中でカメラが温かくなっている。この子が届け先だ。


「どうしたの?」

 ヒバルが声をかけると、少女——ミユは顔を上げた。目が真っ赤だ。

「お母さんとの写真が……消えちゃうの」


 ミユが見せてくれたアルバムには、確かに不思議なことが起きていた。写真は残っているけど、その中の人物の一人——きっとお母さんだろう——がぼやけて、薄くなっている。

「一か月前から、少しずつ……」

 ミユの声が詰まった。

「お母さん、離婚して出て行っちゃって。それから写真が消え始めて。このままだと、お母さんとの思い出が全部なくなっちゃう」


 ヒバルは配達袋からカメラを取り出した。

「これ、君に届け物」

「え?」

「撮った瞬間の感情を永遠に保存するカメラだって」


 ミユは恐る恐るカメラを受け取った。手にした瞬間、目を見開く。

「温かい……」

「使ってみる?」

 ヒバルは優しく言った。でも、心の中では不安もあった。このカメラ、本当に大丈夫なのかな。


 ミユはカメラを構えて、消えかけている写真を撮った。

 カシャッ。

 古いシャッター音が響く。すると——


「わぁ!」


 ファインダーを覗いたミユが声を上げた。

「見える! お母さんがはっきり見える!」

 確かに、カメラのファインダーには、消えかけていた母親の姿がくっきりと映っていた。しかも、ただ映っているだけじゃない。

「お母さんが……笑ってる」


 写真の中の母親が、まるで生きているみたいに微笑んでいた。

 ミユは夢中でシャッターを切り始めた。消えかけている写真を、一枚、また一枚。そのたびに、ファインダーの中で思い出が蘇る。


「海に行った時だ……お母さん、すごく楽しそう」

「これは誕生日! ケーキ作ってくれて」

「遊園地も行ったなぁ」


 でも、ヒバルは気づいていた。

 ミユがシャッターを切るたびに、現実のアルバムの写真が、さらに薄くなっていることに。

 まるで、思い出をカメラの中に吸い取っているみたいに。


「ミユちゃん、ちょっと待って」

 ヒバルは止めようとした。でも、ミユは聞こえていないみたいだった。

「全部撮らなきゃ。全部保存しなきゃ。じゃないと、お母さんがいなくなっちゃう」


 夢中でシャッターを切り続けるミユ。

 その顔は、嬉しそうでもあり、必死でもあった。


 ついに、アルバムの写真が全部消えた。

 真っ白なページだけが残った。

 でも、ミユは満足そうにカメラを抱きしめていた。


「よかった。これで、お母さんとの思い出は消えない」

 ミユはファインダーを覗いて、にっこり笑った。

「ずっと、ここにいる」


 でも、次の瞬間——

「あれ?」

 ミユの表情が変わった。

「お兄ちゃん、誰?」


 ヒバルは凍りついた。

 ミユが自分のことを忘れている。つい今まで普通に話していたのに。


「ミユちゃん? 僕、ヒバルだよ。さっきカメラを渡した」

「カメラ?」

 ミユは不思議そうに首を傾げた。手に持っているカメラを見て、

「これ、最初から持ってたよ。お母さんが買ってくれたんだ」


 何かがおかしい。

 ヒバルは周りを見回した。公園の風景は同じ。でも、何かが違う。

 そして気づいた。

 ミユの服が、さっきと違う。髪型も少し違う。まるで——


「お母さん、まだ?」

 ミユがつぶやいた。

「もうすぐ迎えに来るって言ってたのに」


 ヒバルは理解した。

 このカメラは、思い出を保存するだけじゃない。

 保存した思い出の中に、持ち主を閉じ込めてしまうんだ。


「ミユちゃん、そのカメラを貸して」

「やだ」

 ミユはカメラを抱きしめた。

「これがないと、お母さんに会えない」


 どうしよう。

 ヒバルは焦った。このままじゃ、ミユは過去の中に閉じ込められたままだ。

 でも、無理やり取り上げたら——


 その時、配達袋が震えた。

 中を見ると、ヨルからのメモが入っていた。


『困った時は、相手の本当の願いを聞いてごらん』


 本当の願い。

 ヒバルは深呼吸して、ミユの隣に座り直した。


「ミユちゃん、お母さんのこと、大好きなんだね」

「……うん」

「どんなお母さんだった?」


 ミユは少し考えてから、ぽつりぽつりと話し始めた。

 優しかったこと。

 一緒にお菓子を作ったこと。

 寝る前に絵本を読んでくれたこと。


「でも」

 ミユの声が小さくなった。

「最後の方は、ケンカばっかりだった。お父さんと」


 そして、ミユは打ち明けた。

 本当は、お母さんが出て行く前の日、ひどいことを言ってしまったことを。

「『お母さんなんか、いなくなっちゃえ』って……」


 涙がこぼれた。

「だから、お母さん、出て行っちゃったのかな」


 ヒバルは首を横に振った。

「違うよ。大人には大人の事情があるんだ。ミユちゃんのせいじゃない」

「でも……」

「ミユちゃん、本当は何がしたい?」


 ミユはカメラを見つめた。

 ファインダーの中には、笑顔のお母さんがいる。

 でも、それは過去の姿だ。


「本当は……」

 ミユの声が震えた。

「お母さんに、ごめんねって言いたい。大好きだよって、伝えたい」


 その瞬間、カメラが光り始めた。

 ファインダーの中の景色が変わっていく。

 過去の思い出じゃない。

 今の、現在の景色が映っている。


 そして——

 遠くに、一人の女性の姿が見えた。


「お母さん!」

 ミユが立ち上がった。

 カメラから目を離して、現実を見る。

 公園の入り口に、本当にお母さんが立っていた。


「ミユ……」

 お母さんも泣いていた。

「会いに来ちゃった。ごめんね、勝手に」


 ミユは走り出した。

 カメラを置いて、お母さんに向かって。


「お母さん! ごめんなさい! 大好き!」


 二人は抱き合った。

 離婚しても、離れて暮らしても、親子の絆は消えない。

 写真が消えても、思い出は心の中にある。


 ヒバルは静かにカメラを拾い上げた。

 もう、特別な力は感じない。

 普通の古いカメラに戻っていた。


「それ、持っていく?」

 ヒバルがミユに聞くと、ミユは首を横に振った。

「ううん。もういらない」

 そして、笑顔で言った。

「だって、これからも会えるもん。新しい思い出、いっぱい作るの」


 お母さんが優しく言った。

「月に一回は会おうね。約束」

「うん!」


 ヒバルは配達袋にカメラをしまった。

 配達完了。

 でも、ただ届けただけじゃなかった。


 帰り道、ヒバルは考えていた。

 ハコブネ堂の荷物は、願いを叶える。

 でも、使い方次第で、人を不幸にもする。

 配達人の仕事は、ただ運ぶだけじゃない。

 相手が本当に必要としているものを、見極めることなんだ。


 ハコブネ堂に戻ると、ヨルが待っていた。

「おかえり。どうだった?」

「難しかったです」

 ヒバルは正直に答えた。

「でも、なんとかなりました」


 ヨルの時計の目が、優しく光った。

「そうか。君は見込みがあるね」

 そして、黒い箱をちらりと見た。

「一歩、近づいたよ」


 ヒバルも黒い箱を見た。

 まだ固く閉じている。

 でも、いつか必ず——


 カランカラン。

 

 配達完了の鐘が鳴った。

 でも、ヒバルの心には、新しい決意が芽生えていた。

 次は、もっとうまくやろう。

 もっと、相手の心に寄り添えるように。


 だって、配達人の仕事は——

 ただの仕事じゃない。

 誰かの人生を、少しだけ変える仕事なのだから。

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