第5章 東方の風と別れの影

夜明け前の空は、まだ薄紫色に染まり、星の名残をわずかに残していた。


琴音は神域の社の縁側に腰を下ろし、遠く東の山々を見つめていた。その風は少し温かく、春の兆しを含んでいたが、どこか――胸にしみる冷たさを帯びていた。


「……次の神域は、東の“風神の地”だって」


背後から千景の声がした。彼もまた、準備を整えて琴音の隣に座った。


「風は姿を持たず、時に人を惑わせる。それでも、逃げるつもりはない。君といる限り、俺は歩き続ける」


琴音は頷いた。だが、その唇はわずかに震えていた。


「……千景、私――あなたに言わなきゃいけないことがあるの」


彼女の声は風にさらわれそうなほど弱く、それでいて切実だった。


千景は静かに顔を向ける。「なんでも言ってくれ」


琴音は拳を握った。「私……“契約の期限”を知ってしまったの。私とあなたを結ぶこの契りは……あと、三月(みつき)で切れるの」


風が止まったように思えた。


千景はわずかに目を見開き、しかしすぐに目を伏せた。「……そうか。そういうことか」


「言うべきか迷った。でも、私は……もう、黙っていたくないの」


彼女は言葉を紡いだ。強さと弱さを内包した声で。


「たとえ契りが切れても、私はあなたと歩きたい。でも、それは“形”だけじゃできないことだって……わかってる。だから……」


「だから?」と千景が続けを促す。


「私、もう一度――“契り直したい”。今度は、自分の意志で。心から」


その言葉に、千景は驚き、そしてゆっくりと微笑んだ。


「君がそう思ってくれるなら、俺は――何度でも契るよ。命が尽きるその時まで」


二人の指先が触れ合うと、わずかに光が灯った。


それは、形式ではない“新たな契り”の兆し。


しかし、穏やかな朝を引き裂くように、東の風が突然強く吹き荒れた。


――風神の警告だった。


* * *


東方の神域は、“常東(つねひがし)”と呼ばれる広大な草原地帯の奥にあった。

その中心に、風の神を祀る祠がぽつんと建っていた。


琴音と千景は、祠の前に立つ巫女・**風乃(かぜの)咲弥(さくや)**と対面していた。


咲弥は細身の少女で、常に微笑を絶やさず、しかしどこか冷たい瞳をしていた。


「風は、言葉よりも早く心を運びます。でもそれは、とても不安定なもの。琴音様、あなたの“覚悟”を風に委ねる覚悟はありますか?」


琴音はうなずいた。


「私たちは、すでにいくつもの試練を超えてきました。だからこそ……最後まで信じたい。“声”も、“契り”も」


咲弥はその答えを聞くと、静かに祠の扉を開けた。


「ならば――試されてください。“風の迷い路”を越え、“真の言葉”にたどり着けるなら、あなたは次の神域へ進めるでしょう」


* * *


風の迷い路。それは、記憶でも夢でもない、不確かな“心の空間”だった。


琴音と千景は手を取り合いながら、視界の揺らぐ幻想の中を進んだ。


突然、千景の手が琴音からすり抜けるように離れた。


「千景!?」と叫ぶも、彼の姿は霞のように消えていった。


気づけば琴音は、一人で“かつての故郷”に立っていた。


見慣れた家並み。母の声。優しい日々。


だがそれは偽物だった。


「戻りたい? あの幸せな日々に。神の契りも、戦いも、苦しみもない、ただの普通の娘に」


誰かの声が囁いた。


琴音は目を閉じ、深く呼吸した。


「たしかにあの日々は優しかった。けれど――私は戻らない。

苦しくても、今の私には、守りたい人がいるから」


その瞬間、世界が崩れ、風が吹き抜けた。


そして、彼女は再び“本物の千景”のもとに立っていた。


「戻ってきたか」


「……待たせたね」


「いや、信じてた。君は、必ず戻ってくると」


二人は再び手を取り合い、風の祠の中心部へと歩を進めた。


* * *


祠の最奥、風神の化身――**颯嵐(そうらん)**が姿を現した。


透明な羽衣のような姿で、目は鋭く、声は音にならぬ風そのものだった。


「我は風の声。契りの者よ、問う。

“声”とは何か。“言葉”とは何のためにあるのか」


琴音は風に語るように答えた。


「声は、想いを届ける手段。言葉は、それを結ぶ糸。

人が人であるために必要なものです」


颯嵐はしばし沈黙し、次に問うた。


「ならば――その言葉が届かぬ時、君はどうする?」


「届かないのではなく、“届いていないだけ”です。

ならば、何度でも届けようとします。信じる限り」


その答えに、風が一層強く吹き抜けた。


颯嵐は風の中で消えゆく寸前、最後の言葉を残した。


「ならば進め、次の神域へ。“言葉の果て”が、汝らを待つ」


* * *


風神の祠を出たとき、空はすっかり晴れていた。


千景が言った。


「琴音。契りは“形”を超えた。もう、言葉がなくても、俺たちは繋がってる」


琴音は彼の腕をそっと取り、囁く。


「それでも私は……あなたの声が、好きよ。だからこれからも、何度でも聞かせて。何度でも、呼んで」


「……ああ。琴音」


その名を呼ばれるたびに、琴音の心は満たされていくのだった。


そして、二人は新たなる神域――“最果ての地”を目指して歩き出す。


そこでは、最後の選択が待っているとも知らずに。

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