第18話
朝、自室の窓を開けると、風の匂いが変わっていた。
夏の間は、湿った風が部屋にすべり込んでくるような気がしていた。
でも今朝は違う。澄んでいて、ほんの少しだけ冷たい。
軽く顔を洗って、いつものように共用スペースへ向かう。
戸を開けたとき、軒先に吊るしていた風鈴が、かすかに揺れた。
けれど、音は鳴らない。
風の向きが変わったのか、それとも空気が変わったのか。
どちらにしても、もう鳴らなくてもいいのかもしれない、と思った。
風の気配はあるのに、風鈴は静かなままだった。
そっと手を伸ばして、結び目をほどく。
涼しげな音をいくつも鳴らしてくれた小さな風鈴は、今、手のひらにすっぽり収まっている。
「じゃあ、また来年」
そうつぶやいて、薄手の布にくるんで、引き出しの奥にしまい込んだ。
その瞬間、私はようやく季節がひとつ進んだことを実感した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
台所に入ると、外の光がやわらかく差し込んでいた。
夏の光とは違って、少しだけ青みを帯びている気がする。
換気のために窓を開けると、風が通り抜けていき、肌に触れた空気が思いのほか冷たかった。
「……やっぱり、ちょっと涼しくなってるや」
ひとりごとをこぼしながら、袖口を少しだけ直す。
季節が一歩進んだのだと、あらためて感じた。
炊飯器のふたを開けると、昨晩仕込んでおいたさつまいもごはんが、ふっくらと炊き上がっていた。
もち米のつや、角切りのさつまいもの黄金色。
ふわっと立ちのぼる甘い香りに、肩の力がふっとゆるむ。
味噌汁は、しめじと油揚げ、大根と人参を入れて具だくさんにした。
だしを引いた鍋の湯気が、湯気というよりも“香り”として空気に溶け込んでいくように感じられる。
主菜はサンマ……には少し早かったので、昨日安かったサバにした。
副菜は、かぼちゃの煮物とほうれん草のおひたし。
どれも秋らしく、落ち着いた色に仕上がった。
茶葉の缶を開けて、大きめの急須に茶葉とお湯を注ぐ。
湯気が静かに立ちのぼっていく。
ほんのりあたたかい緑茶は、秋の朝にはちょうどいい。
共用スペースのテーブルを拭いて、器を並べる。
窓辺では、金魚がゆらゆらと泳いでいる。
誰かの足音が聞こえるまでの、静かな時間。
それもまた、秋の朝らしいと感じられた。
窓辺では、木々がわずかに色づき始めている。
遠くの空には、雲がすっと長く伸びていて、風の道筋を指し示しているようだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
テーブルを整え終えた頃、外履きの健康サンダルが、玄関をコツコツと鳴らした。
「……おはよう」
宇津井さんだった。いつもより少しだけ早い。
黙って机の前に立ち、置いたばかりの湯気の立つ味噌汁に目を落とす。
「今日はなんと、具だくさんのお味噌汁に、さつまいもごはんです」
「……うん。匂いでわかった。……何か手伝うことは?」
「大丈夫ですよ。座って待っててください」
「……ありがとう」
そっと座布団に腰を下ろす宇津井さん。表情は、まだ少し眠たげだった。
追いかけるように、ぱたぱたと軽い足音。
美咲ちゃんが「おはようございます!」と元気に顔を出し、そのすぐ後ろから美穂さんが歩いてくる。
「今日はなんだか、ちょっと天気が秋っぽいですね」
「そう思って、朝ごはんもちょっと秋っぽくしてみました」
「そうなんですね。とっても嬉しいです」
「えー! さつまいもごはんだ! やったー!」
美咲ちゃんは椅子に座ると、さっそく茶碗をのぞき込んだ。
「かぼちゃもある! あっ、お魚の匂いもする!」
「なんと、サバも焼いてるよ」
「サバも好き!」
最後に、寝ぐせのまま長岡さんが共用スペースに入ってきた。
「……いやー、外の風、完全に秋だな。ちょっと寒いじゃん」
「長岡さんだけですよ、まだ半袖一枚なの」
「いや、油断したわ。鍛えてるっつっても、自然には勝てねえな」
「また分かんないこと言ってる……」
私がつぶやくと、美穂さんが吹き出して笑った。
急須から緑茶を注ぎながら、私はみんなの表情を眺める。
器から立ちのぼる湯気の向こうには、変わらない朝があった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「いただきます」
みんなで手を合わせてから、箸を伸ばす。
この景色も、もう何度目になるだろうか。
「もうすぐ、運動会なんだよ!」
美咲ちゃんが、さつまいもごはんを一口食べて、口元をふきながら言った。
「そうなんだ。じゃあ、たくさん食べなきゃだね」
「うん!」
私が笑って返すと、美穂さんが「今、練習すごく頑張ってるんですよ」と補足してくれた。
「リレーの選手になったから、毎日、走ってるの」
「へえ、すごいじゃん。そりゃ気合入るな」
長岡さんがサバをほぐしながら、目を細める。
「……よし、じゃあ俺と特訓するか」
「えー、なんだか厳しそう」
「大丈夫だって。めっちゃ足速くなるぞ……宇津井くんが」
「いや、なんでだよ」
3人のやりとりに、美穂さんと私は同時に吹き出してしまう。
私たちを見て、他の3人もまた笑った。
その後も、話題は自然と美咲ちゃんの運動会に戻っていった。
「当日は私もお休みなので、美咲の応援に行きます」
「俺たちも……と言いたいところだけど、今はなんか色々厳しいんだよな」
「そうなんです。保護者以外はグラウンドに入れないし、お弁当も、みんな教室に戻って食べるみたいで」
「ちょっと寂しいですね。私は運動会といえば、お弁当を家族みんなで食べるのが楽しみだったから」
「……オレも、そうだったな」
「……じゃあ、その日の夜は、みんなで晩ごはん食べませんか?」
気づいたら、そう言っていた。
運動会の話を聞いているうちに、お弁当は一緒に食べられないこと、保護者しかグラウンドに入れないこと。それが、少しだけ残念に思えたから。
「いいですね。私もそうしたいなと思ってたんです」
美穂さんがすぐにうなずいてくれる。
「ごほうびの晩ごはんだ! オムライス~!」
美咲ちゃんが、茶碗を持ったままリズムをとる。
どうやら、オムライスが食べたいようだ。
「じゃあ、俺はその日は全力で飲むか」
「私もお付き合いしますよ」
「お、じゃあいいお酒入ったから、出しちゃおうかな」
お酒の強い長岡さんと美穂さんがほくそ笑んでいる。
二人とも、随分と打ち解けたように見える。
「……楽しみだな」
宇津井さんがぽつりと言う。
「宇津井さんも手伝ってくださいよー」
「ゆ、夕方からなら……!!」
みんなの顔が見渡せる朝の食卓。
運動会の話が、晩ごはんの約束になっていく。
そんな小さな連なりを、秋の日々が包んでくれるような気がした。
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