第6話

私は窓を大きく開け放ち、畳の上を丁寧に掃いていく。

私が入る前に一度クリーニングが入っていたのだろう。

目に見えるゴミはほとんどなく、水回りもそれほど汚れてはいなかった。

でも、やっぱり自分の手で掃除すると、気持ちも少しずつ整っていく気がする。

そのまましばらく掃除を続けていると、背後から聞き覚えのある声がした。


「お、姉ちゃん、頑張ってんな」


振り返ると、入口に長岡さんが立っていた。


「おはようございます。ちょっと掃除しようと思って……」

「見りゃわかる。爺さんが使ってた共用スペースだろ? たまに一緒に茶でも飲んだりしてたからな。手伝うよ」

「え、いいんですか?」

「いいってことよ。男手も必要だろ?」


そう言って、長岡さんは靴を脱ぎ、さっさと中に入ってきた。


「水回りはあとでやるとして、俺は窓をやっつけるわ」


そう言って、置いてあった雑巾を手に取り、手際よく濡らして窓枠を拭き始める。

その動きがあまりにも慣れていて、思わずじっと見てしまった。


「……長岡さんって、意外と家庭的なんですね」

「意外とってなんだよ。俺はずっと独り身だからな。家事くらいは一通りやるさ」


おお……まさしく「大人の男」って感じだ。

私の友達が年上好きを公言していたけど、たぶんこういう人のことを言ってたんだろうな。

心の中でそうつぶやきながら、私はほうきを動かす手を止めずにいた。

長岡さんは黙々と窓を拭いている。無駄のない動きで、まるで長年の習慣のようだった。


「……こういうの、結構好きなんですよね」


私がぽつりとつぶやくと、長岡さんは手を止めずに返してきた。


「掃除か?」

「はい。なんか、頭の中まで整理されていく感じがして」

「わかる。無心になれるしな。あと、終わったあとの達成感が地味にいい」

「そうそう、それです!」


思わず笑ってしまった。

こうして誰かと一緒に作業するのって、久しぶりかもしれない。

会社では、誰かと並んで何かをすることすら、どこか緊張していたから。


そのまま、私たちは黙々と掃除を続けた。

天井や窓枠、台所スペースの棚の上といった高い場所は、長岡さんが手際よく片付けてくれたおかげで、私は水回りを中心に掃除に集中できた。

その結果、部屋の隅々まできれいになり、ほとんどの作業が終わった。


「よし、大体終わったな」


少し汗ばんだシャツの裾を引っ張りながら、長岡さんが軽く伸びをする。

その姿はどこか爽やかで、まるで高校時代に見た、男子たちの部活終わりみたいだった。


そのとき——


「……あ、掃除して……たんですね」


入口のほうから、ぼそっとした声が聞こえた。

振り返ると、宇津井さんがコンビニの袋を片手に立っていた。


「おはようございます。起こしちゃいました?」


私が声をかけると、宇津井さんは少し目を細めながら、ぼそっと返した。


「いや……なんか、気配で……。あ、これ」


そう言って、彼は手に持っていたコンビニ袋から、スポーツドリンクを2本取り出した。


「……よかったら」

「わ、ありがとうございます! ちょうど喉乾いてたんです」


私は思わず笑顔になって、長岡さんと一緒にボトルを受け取った。

きっと、私たちが掃除しているのを見かけて、わざわざ買ってきてくれたのだろう。

ドリンクはしっかり冷えていて、手に持っただけでひんやりと気持ちよかった。


「……あんたが、201号の?」


長岡さんが、ボトルのキャップを開けながら宇津井さんに声をかけた。


「……あ、はい。宇津井です。201号室に住んでます」

「俺は103号の長岡。今日が初めてだな。よろしく頼む」

「……あ、どうも。こちらこそ……」


二人の間に、少しだけぎこちない空気が流れる。

でも、それは悪いものじゃなくて、たぶん“初対面の男同士”特有の、距離感の探り合いみたいなものだった。


「……掃除、もう……終わりですか?」


宇津井さんが、ぼそりと尋ねてきた。


「ほぼな。お姉ちゃんが頑張ってくれたから」

「いやいや、長岡さんが高いところを全部やってくれたからですよ」


私がそう言うと、長岡さんはふっと笑って、手にしたスポドリを軽く振った。

「せっかくだしさ。せっかくこんなに綺麗にしたんだ。何かに使いたいよな、ここ」

「……前みたいに、集会場として使えば……?」


宇津井さんが、壁の掲示板をちらりと見ながらぼそりとつぶやいた。


「前って?」

「前の大家さんが、住人と……お茶飲んでるとことか……見たことあるんで。……オレは行ったことないけど……」

「へぇ、そうだったんですね」


私は少しだけ考えてから、二人の顔を交互に見た。

私のやるべきことが、見つかる気がしたからだ。

ただ、二人が受け入れてくれるかは、わからない。それでも、言ってみた方がいい。

なんとなく、そう思った。


「じゃあ、ここで……ご飯、食べませんか?」


私がそう言うと、二人の間に一瞬、静かな間が生まれた。


「ご飯……?」


長岡さんが眉を上げる。私はうなずいて、言葉を続けた。


「うん。朝だけでも、私が作って。せっかくだし、みんなで一緒に食べたいなって。……無理にとは言わないけど、誰かと一緒に食べるご飯って、やっぱりおいしいから。私、そういうのが好きなんです」


沈黙。

その空気を破ったのは、宇津井さんだった。


「……オレ……料理とか……できないし……」


ぼそりと、でもどこか気にしているような声。


「別に作ってとは言ってませんよ?」


私が笑いながら返すと、宇津井さんは少しだけ視線をそらした。


「……オレが……作るわけじゃないなら……まあ……食うだけなら……」

「お、意外と乗り気じゃねぇか。来ねえかと思ったよ」


長岡さんがニヤリと笑うと、宇津井さんはむすっとした顔でそっぽを向いた。


「ふふっ、じゃあ決まりですね」


私がそう言うと、長岡さんがスポドリを一気に飲み干して、満足そうに息をついた。


「俺は大賛成だ。材料費とかは言ってくれな。金だけは持ってんだよ」

「あんまり……高くないと助かる……」


宇津井さんが、ぼそっと長岡さんに付け加えるように言った。

「じゃあ、明日の朝から始めましょうか。私、和食派なんで——ゴリゴリの和食、作っちゃいますよ?」


そう言って笑うと、宇津井さんはほんの少しだけ口元を緩めた。

それが笑ったのかどうかは、よくわからなかったけど——

でも、たぶん、「悪くない」って思ってくれてる。そんな気がした。

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