21話
その日は、雨が降ったりやんだりの落ち着かない空模様だった。
《Janus》の看板はしっとりと濡れ、扉の外には水たまりができている。
けれどその中に、小さな靴音が近づいてきた。
──カラン。
鈴の音が、控えめに鳴る。
扉を開けたのは、まだ10歳くらいの少年だった。
肩に合っていないジャケット、泥のついた靴。
けれど目はまっすぐで、どこか背伸びをしたような表情をしていた。
リゼがすぐにカウンターから出てくる。
「ごめんね。ここ、おとな向けのお店なんだ」
少年はぴたりと立ち止まって、小さく首を横に振った。
「知ってる。でも……来たかったんだ」
「どうして?」
「……お父さんが、ここに来てたって、言ってたから」
リゼが思わず言葉を飲む。
「……父さんね、もういないんだ。ずっと前に……病気で」
「でも、お父さんが話してた店の名前と、灯りと、匂いが……全部ここだった」
シズクが静かにカウンター奥から顔を上げた。
「ようこそ。《Janus》へ」
少年は、ぺこりと頭を下げた。
「……僕、お酒は飲めないけど、ここで“おとなの約束”をしたいんだ」
「どんな約束ですか?」
「……父さんが好きだった酒の名前を、忘れないってこと。
それと、僕もいつか、“ここで一杯だけ飲む”ってこと」
リゼの目が、少し潤んでいた。
シズクは黙って冷蔵棚を開け、数種の果実とハーブを取り出す。
グラスの縁に軽く甘味をつけ、手際よくノンアルコールの一杯を仕上げた。
「“ハニーミント・スカッシュ”――おとなの気配がする、子どものための一杯です」
少年は両手でグラスを持ち、恐る恐る口をつける。
「……うまい。なんか、胸がすーってなる味」
「それが、はじまりの一杯ですよ」
少年は少し黙って、空になったグラスをカウンターに戻す。
「父さんが、好きだった酒の名前……分かりますか?」
シズクは一瞬だけ考え、棚の奥から一本のラベルを指差した。
「《ブランデー・アレキサンダー》。
いつも、その話をするとき、少しだけ顔がほころんでいましたよ」
少年はその名前を、そっと繰り返す。
「ぶらんでー、あれきさんだー……」
「難しいけど、忘れない」
やがて、少年は小さな肩を揺らしながら立ち上がる。
「ありがとう。……また、“大きくなったら”来ます」
「待ってるよ」
リゼが微笑んで手を振る。
扉を出ていく少年の背中は、来たときよりもほんの少しだけ大きく見えた。
──カラン。
再び鳴った鈴の音は、
静かな夜に、小さな灯を残していった。
カウンターの端、少年が使ったグラスだけが、
ゆっくりと曇って、また透明になっていた。
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