19話
その日は、少しだけバタついていた。
常連客、旅人、ふらりと入った若いカップル。
いつもより少しにぎやかな夜だった。
「すみません、そちらエールビールでしたっけ? ……あっ、違いました、ロゼの方!」
リゼの声が、少しだけ上ずっていた。
「あ……!」
カウンターの内側で、リゼの手からグラスが滑る。
──カラン、カシャン!
割れた音に、店の空気が一瞬だけ止まった。
「……す、すみませんっ……!」
慌てて片づけるリゼの手が、ほんの少しだけ震えている。
シズクは黙って新しいクロスとグラスを差し出す。
声はかけなかった。
いつもの、静かなやり方で。
やがて客が引け、夜も深まり始めた頃。
カウンターに残っていたのは、穏やかな風貌の中年の男性ひとり。
やや大柄で、笑うと目尻に深いしわが寄る。
手には軽く油が染みたような跡が残っていた。
リゼが片付けをしながら、そっと視線を送ると、
その男が静かに話しかけてきた。
「……落としたね、グラス」
リゼはびくりとして、深く頭を下げる。
「す、すみません……見苦しいところを……!」
男はふふ、と笑った。
「うちの店でもね、若い子がよくやるんだよ。
違う料理運んだり、皿落としたり、客のズボンにワインかけたり」
「……あの、店……?」
「昔、店をやってたんだ。レストランね。
今は息子に任せて、俺は飲む専門になった」
リゼが小さく笑った。
「でもね、どんなにベテランになっても、ミスはするよ。
大事なのは、それを“どう飲み込むか”だ」
「飲み込む……」
「そう。“許す”んじゃなくて、“受け入れる”んだよ」
男の言葉は、どこまでも穏やかだった。
「お嬢さん、ちゃんと謝って、片づけて、
それでも顔を上げて接客してた。それだけで、上出来さ」
リゼは、少し目を潤ませて、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
カウンターの奥で、ずっと聞いていたシズクが
一杯のグラスをそっと置いた。
「ウィスキーソーダです」
琥珀色の液体に、しゅわりと氷が溶けていく。
「カクテル言葉は、“立ち直る勇気”」
男は受け取り、ひと口。
ゆっくりと、口角を上げた。
「……沁みるね。泡と一緒に、つまらない意地も抜けていく」
リゼがその様子を見つめながら、
小さく、でもしっかりと背筋を伸ばす。
「次は、ミスしません。……たぶん」
「してもいいさ。そのぶん、味で返せばいい」
男の笑い声が、
夜の静けさに、ふんわりと溶けていった。
──氷が溶けるように、心の緊張も少しずつほどけていく。
それが《Janus》の夜。
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