18話

その夜は、風がやや強かった。

窓の外で看板が、かすかに揺れていた。 

店内には、ふたりの常連客とリゼの声。

いつもの、穏やかな夜。

──カラン。

鈴の音とともに、重い空気が流れ込んだ。 

扉をくぐってきたのは、長身の男。

分厚い黒のマントに、無精ひげ。

瞳は鋭く、背筋はまっすぐ。

けれど、腰には剣が――なかった。 

「……いらっしゃいませ」 

リゼの声に、男は小さく会釈し、

カウンターの端に、静かに腰を下ろす。

 

「お飲み物は……?」

 

「……強いやつを、頼む」

 

声は低く、短い。

けれど、その一言に何かが詰まっていた。

 

 

カウンター奥、

シズクがゆっくりとグラスを磨きながら、様子を見ていた。

 

「初めてのご来店ですね。……街の方ですか?」

 

男は少し黙り、やがて言った。

 

「……昔、ここに来たことがある。もう十年以上前だが」

 

「そのときの店主も、静かな男だった」

 

「そうでしたか。……なら、変わらず静かなまま、ということで」

 

シズクは、淡く笑った。

 

やがて注がれたのは、琥珀色の一杯。

 

《ゴッドファーザー》。

アマレットの香りとウイスキーの重みが混ざり合う――

“誇り”をテーマにしたカクテル。

 

男は一口、口をつけて、

わずかに目を細めた。

 

「……懐かしい味だな」

 

それだけを言って、しばし沈黙。

 

リゼが何か話しかけようとしたが、

シズクが目で制した。

 

この男には、言葉はまだ早い。

 

 

数分の静寂のあと、

男はぽつりと呟いた。

 

「……俺は、剣を捨てた」

 

「戦うことに、誇りを持っていた。

 だが、あるとき振った剣が……間違っていたと気づいた」

 

「それからだ。……何も信じられなくなった」

 

 

シズクは黙って、グラスの底に残った氷を揺らす。

 

「それでも、“またここに来た”んですね」

 

「……ああ。あの頃は、酔えなかった。

 今なら……少しは、酔えるかもしれないと思って」

 

シズクは頷いた。

 

「じゃあ、この一杯が“あなたを肯定する”なら、

 今夜は《Janus》も、悪くなかったということにしましょう」

 

男はわずかに笑った。

 

「……そうだな。……そう、かもしれないな」

 

 

その夜。

彼は2杯目を頼むことも、名前を名乗ることもなかった。

 

ただ、静かに酒を飲み、

静かに立ち去っていった。

 

去り際、リゼが思わず口を開いた。

 

「……剣、また、握るんでしょうか」

 

男は振り返らなかった。

けれどその背中は、どこか軽くなっていた。

 

「そのときが来れば、きっと、な」

 

カウンターに残ったグラスの香りが、

ほんのりと“過去”の余韻を漂わせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る