第31話 静かな崩壊

かつ丼歴百七十五年と二十七日目。


その日も、丼は変わらずに用意されていた。

炊き立ての米。

黄金色の衣。

とろりとした卵。

甘じょっぱい出汁。


とわ子は、箸を手に取った。


ひと口。

もうひと口。


……何も感じなかった。


「……あ……」


空のどこかを見つめながら、箸を置いた。

味が、完全に消えていた。


百七十五年をかけて手に入れた至高の味が、

たった数十日の繰り返しで色を失った。


何度も何十度も、同じ丼を食べた。

気がつけば、ただの作業になっていた。


「……もう、いいや……」


ぽつりと呟く声は、誰にも届かなかった。


丼を押しやる。

立ち上がることもしなかった。

視界の端に人々の気配があった。

何かを待つ声があった。


どうでもよかった。


その夜、とわ子はかつて神の広場と呼ばれた場所に身を横たえた。

朝が来ても起きなかった。

昼が来ても、何も言わなかった。

夜が来ても、ただ目を閉じていた。


人々は最初、困惑し、次に不安になり、やがて解釈を始めた。


――神は深い瞑想に入られた。

――神は罰を与えようとしている。

――神はもう見放したのだ。


勝手に理由を作り、勝手に祈り、勝手に怖れた。


とわ子は、ただ眠っていた。

何も考えず、何も欲せず。

ただ、何千年もしてきた惰眠に戻った。


その間にも文明は進んだ。

銀行は巨大になり、都市はさらに分かれ広がり、都市はいつしか国になり、交易は盛んになった。

財を巡って争いが起こり、土地を巡って血が流れ、

誰も止めるものはいなかった。


やがて、火薬が発見された。

武器が作られた。

他の集団との戦いが始まった。

神の声を取り戻すための戦争と呼ばれた。


遠くで爆発が起きても、とわ子は目を開けなかった。

煙が街を覆っても、何も言わなかった。


何十年も続いた戦火の末、ついに文明は燃え尽きた。

大地には黒い灰だけが積もり、

壁も畑も砕け、交易の道は風にさらわれて消えた。


人が一人、また一人と消えていく。

声も、歌も、跡形もなくなった。


だが、その廃墟の中央で、

とわ子はただ寝息を立てていた。


何も欲さず、何も選ばず。

夢の底で、何もない暗がりに沈んでいた。


百七十五年かけて築いたものが、

静かに崩れきるまで――

彼女は一度も目を開けなかった。

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