第30話 満たされた空虚

かつ丼歴百七十五年と一日目。


夜が明けた広場に、とわ子は座っていた。

目の前の調理場では、もう新しいかつ丼が用意されていた。


「……今日は何も教えない」


言葉を告げると、人々は黙って頭を下げた。

誰も反論しなかった。

もう神が何を言っても、理解するだけの文化と知識がある。


とわ子は、湯気を上げる丼を抱える。


一口目。


あの香り。

あの温かさ。

何度でも確かめたくなる味。


「……うま……」


朝日が差し込む中、ただ黙って食べ続けた。


かつ丼歴百七十五年と二日目。


また、かつ丼を用意させた。

銀行の監査も税の調整も、もうどうでもよかった。


「……全部、他の奴らが勝手にやればいい……」


箸を持つ。


衣は少し薄めにしてくれとだけ頼んだ。

米も新しい品種を混ぜて香りを増した。

それだけで十分だった。


口に運ぶ。


「……うま……」


かつ丼歴百七十五年と七日目。


人々は戸惑いながらも、毎朝、毎昼、毎晩、かつ丼を差し出すようになった。

もはや誰も神に進言することはなかった。


「……今日は少し出汁を濃くしようか」


それ以外に望むものはなかった。


文化も制度も、遠い景色のように思えた。

自分の興味の外側で、勝手に回るものだとすら感じた。


かつ丼歴百七十五年と十五日目。


朝から夜まで、かつ丼を食べ続けた。

食事はとわ子にとって生理的必要ではなかった。


それでも、箸を止めなかった。


「……うま……」


目を閉じる。

湯気が頬を撫でる。

記憶の底に沈んでいた全ての時間が、遠くに霞んでいった。


あの蕎麦屋で一杯を食べた時から、何も変わっていなかったのかもしれない。

ただ、もう一度これを食べるために、百七十五年もかけて街を作っただけだ。


「……もう、これだけでいいや……」


人々は遠巻きに、神が同じ丼を食べ続ける様子を見ていた。

それが畏敬の対象かどうかも、もはや分からなかった。


とわ子は何も気にしなかった。


ただ丼を抱え、毎日毎日、かつ丼を食べ続けた。


それが永遠に続くような気がしていた。

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