第18話 調味料の旅
かつ丼歴六十二年。
とわ子は、海を見ていた。
灰色に光る波の先に、何千年も前に人が作った港の残骸が突き出していた。
崩れた岸壁の隙間に、潮がうねりを立てている。
「……塩は、ここでいいか」
潮の香りが鼻を刺す。
村からここまで、荷車を引いて十日以上の道のりだった。
それでも、塩だけは確実に手に入る。
人を連れて来て、海水を瓶に汲ませる。
煮詰めるための平鍋も運ばせる。
夜は焚き火で平鍋を火にかけ海水を煮た。
煮詰まるのを広げた毛皮の上で寝転んで待つ。
七千年前も、きっと同じようにここで人が暮らしていた。
翌朝、最初の塩が乾いた。
真っ白ではなく、少し灰が混ざっている。
それでも、指先に乗せて舐めると確かな塩味がした。
「……うん」
小さく頷いた。
村に戻ると、塩はすぐに人々の間で広まった。
食べ物の味は劇的に変わり、保存も効くようになった。
かつ丼歴六十四年。
塩が定着した頃、とわ子は森へ向かった。
湿った腐葉土を踏みしめ、腐木をひっくり返す。
胞子を撒く黒いキノコが幾種類もあった。
一つずつ匂いを嗅ぎ、指で潰し、苦いもの、毒のあるもの、香りの立つものを試し選んでいく。
人なら死に至る毒でも、不死の体には関係がなかった。
「……たぶん、これがいける」
黄色い傘を持つキノコを試しに煮て、出汁を引いた。
澄んだ汁を口に含むと、深い旨味が舌に残った。
村へ戻り、豚肉と米を煮る鍋に少しずつ加える。
味が重くなる。
香りが増す。
人々は最初は訝しげに見ていたが、匙を渡すと歓声を上げた。
「……うん、これで近づいた」
ひとりごとを呟く声は、誰にも聞かれなかった。
かつ丼歴六十八年。
昆布は手間がかかった。
海沿いの岩にへばりつく黒い海藻を少しずつ採取し、干して味を確かめる。
何度も煮出しては棄て、ようやく出汁になるものを見つけた。
「……これ、たぶん昔の人間が食べてたやつ」
どこか懐かしい匂いがした。
塩と一緒に保管し、村に運び入れる。
人々は昆布を「神の葉」と呼んでいた。
いつの間にか、ただの食べ物が祈りの道具になっていく。
かつ丼歴七十二年。
香辛料は最後まで難題だった。
胡椒を探し、森を彷徨い、どの植物も違うことに何度も落胆した。
「……やっぱり、ここらに自然には生えないのかなあ」
それでも諦めず、野山を巡り歩いた。
ある日。
湿った茂みで、独特の刺激臭を放つ蔓を見つけた。
小さな黒い実がいくつも実っていた。
乾かして潰すと、ぴりりと鋭い辛みが舌に刺さる。
胡椒ではない。
でも、代わりにはなる。
村に戻り、少量を調理に使わせてみた。
味は荒いが、どこか懐かしさを思わせる刺激があった。
「……これでいいか」
完璧じゃなくても、十分だ。
とわ子が欲しいのは記憶の味の輪郭だけ。
とわ子は静かに息を吐いた。
塩がある。
旨味がある。
香りがある。
次は――衣だ。
稲と豚と調味料が揃った。
残る工程は、揚げること。
そして、あの記憶に残る食感と味を再現すること。
焚き火の光が、夜の広場に揺れていた。
とわ子は目を細めて火を見つめた。
何度も心の中で繰り返す。
――もうすぐ、きっと辿り着ける。
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