第8話 牙と不死
肉は――少し早いようにも思えた。
だが、とわ子は焚き火の前で腕を組んだまま、じっと考え込んだ。
確かに、白飯だけなら、このまま水田を拡げていけば足りる。
けれど、かつ丼は米だけでは完成しない。
柔らかな肉、脂の香り、衣の歯ざわり。
その全てが揃わなければ、あの味には届かない。
何より、家畜がいれば食料に余裕も生まれる。
村人たちの栄養も安定する。
品種改良には年単位、場合によっては世代単位の時間がかかるだろう。
であれば――
「早いほうがいいね」
野生化した猪豚を、いまから飼う。
それしかない。
集落の周辺には、時折、黒褐色の巨大な猪豚が現れた。
文明滅亡後、養豚場から逃げ出した家畜が森へ紛れ込み、さらに数千年の間に野生種と交わってきたのだろう。
その体は、古い猪よりも分厚く、毛並みは荒く艶を失い、肩の瘤は獣らしく盛り上がっていた。
長い牙は土を掘り返すために発達し、顎の力はかつての家畜より強くなっている。
「……自然に戻ったってことかな」
とわ子は、猪豚が川を渡るのを遠くから眺めた。
あれは人類が育てた家畜の名残であり、もう人間の手を離れた野生の生き物でもある。
「ま、食べられないわけじゃないはず」
気にしないことにする。
他に代わりはいない。
とわ子は村人を集め、いつものように絵と身振りで罠を教えた。
まずは罠穴を掘り、誘導柵を作り、道を封じて追い込む。
集落から半日ほど歩いた谷に、木を組んで頑丈な囲いを用意した。
罠を仕掛け、数日を待つ。
そしてある夜。
谷に地鳴りのような音が響いた。
とわ子が駆けつけたとき、囲いの中では一頭の巨大な猪豚が、荒い息を吐きながら体当たりを繰り返していた。
眼はぎらぎらと怒りに燃えている。
囲いの柱が軋む音がした。
「……おとなしくしてもらうよ」
とわ子は囲いに入ると、正面から猪豚に近づいた。
牙が突き出され、盛り上がった肩が突き上げられる。
一度は胸に深く刺さり、骨が砕けたが、再生するまで数秒だった。
二度目の突進を、両手で受け止めた。
骨が砕け、腕が変な方向に折れたが、気にも留めない。
肉が裂けて血が流れても、そのまま力任せに押し返した。
不死の肉体をいいことに何度も組み合い、やがて猪豚の動きが鈍る。
最後は首を抑え、地面に伏せさせるように体を固定した。
濁った茶色の目が、しばらく宙をさまよってから閉じた。
息が落ち着いていく。
「よし……一匹、確保っと」
とわ子は、少し乱れた呼吸を整えながら立ち上がった。
これを飼い馴らすには、まだ何年もかかるだろう。
けれど、最初の一歩は踏み出した。
たぶん、これもきっと遠い先で報われる。
夜の谷に、捕えられた猪豚の低い寝息が響いていた。
かつ丼のための次の工程が、ここから始まる。
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