4月8日15時 依頼更新
翌日、結局私は話を逸らし続けることに失敗し、「代谷ナギ」の脅しに屈していた。
昨日、ダミーの依頼「幽霊の正体とその心残りの特定」は無事に雲散霧消した。そこまでは良かったのだが、しかし、その裏からは真の依頼「『代谷神社』のご神体『代谷ナギの遺髪』の処分」が姿を現した。
あの時ついた嘘が、あの時生じた油断が、一晩経った今でも悔やまれる。図書館を巡る失策と物証についての失言の代償として、これから私は無理難題に挑むこととなってしまった。
札幌市図書・情報館で霊体の限界を学んだ彼女は、あの直後から反省と改善を試みたらしい。昨晩の彼女は、霊体でもできる嫌がらせを複数パターン用意していた。私は昨日の屈辱を決して忘れはしないだろう。あの筆舌に尽くしがたい――。
といった具合に昨日の女の所業に顔を歪めつつ、肌寒い曇天の下、川辺を見ながら新川を南に進む。
当の幽霊はというと、私の遥か後方で桜並木を観察している。いまだ蕾のひとつもついていない桜を見て何が面白いのかは分からないが、まあ、離れてくれるのなら精神衛生上ありがたいので何でもよかろう。私は後ろの幽霊から目を逸らし、滔々と流れる新川に視線を向けた。
つい数日前までは枯草一色だった土手に、新緑がぽつぽつと顔を出しているのが目に入る。フキノトウだ。もう、すっかり春なのだと主張するその小さな緑に励まされ、顔を上げる。過ぎたことは仕方ない。前を向いて歩いていこう。
そういえば、そろそろ曲がらねば目的地に辿り着けない。私はフキノトウに別れを告げて、新川を西へ離れた。
そのまま数分歩くと、閑静な住宅街の中にいきなり鳥居が現れた。その中を覗くと、小さな境内に建った小さな社殿と社務所、それから手水舎があった。手水舎はセンサー式で、「近づくと水が出ます」と書かれた板が貼ってある。屋根のあれがセンサーで、この筒から水が出るのだろうか。と、試しに近づいてみたが、何も起こらなかった。機器が壊れているのか、私の存在感が希薄なのかは分からない。
手水を諦めて社殿の方を向くと、その隣の大きな木に視線が吸われた。ずいぶん立派な木だ。建物よりもむしろこの樹の方が目立つ。
そんな小さな神社が、件の「代谷神社」だった。
「代谷敬治」によって開かれ、「代谷ナギ」の殺害によって「洛流神社」を併呑し、そして今もそれを隠し続けている神社である。しかも、その証拠である「代谷ナギ」の遺髪をご神体として祀り続ける異常性をも孕んでいる。率直に言って、あまりお近づきになりたくない。
ちなみに、ここがどのようにイリーガルな由緒を持っているのかについては、今朝から「代谷ナギ」にヒアリングして確認済みだ。2時間にも及ぶ直撃インタビューの成果を、ダイジェストでお送りしよう。
「代谷ナギ」は明治28年4月21日の早朝、当時神社の近くに建てられていた住家で身支度を終え、朝のお供えに出ようとしたところで、複数人に襲撃されたという。髪を切り取られた後、あの新川河口へと誘拐され、そこでさっくり殺害されたそうだ。遺体は今もあの葦の原の下に埋められているらしい。
髪だけ先に切り取られてからわざわざ遠くに運ばれて殺されたのだが、それは血や死が穢れとして忌み嫌われたことが理由ではないかと彼女は考察していた。その辺の宗教感覚は私には分からなかったが、彼女自身もあまり納得はしていないようだった。
事件当日は寒の戻りが激しく、「けっとの襟巻」と「角巻」を装備していたが、襲撃の際に「角巻」は剥ぎ取られた。「けっとの襟巻」は首にしっかり巻いていたので取られなかったが、髪まで巻き込んでいたために後頭部辺りで刃を入れられ、今のレイヤーを入れたような髪型になったらしい。
彼女はその後幽霊となって下手人をストーキングした。すると、どうやらその襲撃を手引きしたのが父「代谷敬治」らしいことが分かった。私の予想通り、「代谷ナギ」の髪を祀ることで「洛流神社」から氏子を引っ張り、当時引っ越したばかりで傾きかけていた「代谷神社」を立て直すのが目的だったそうだ。「代谷敬治」は政争に負けて郷里を追い出され、流れ着いた先の札幌でも同じようなことをして郊外へ締め出されていたらしい。
「代谷ナギ」は「代谷敬治」の宗教への執着に嫌気がさしており、それから逃れるために、本当に「洛流神社」の神と化していた。ただ、そのことは「代谷敬治」にはまだ明かしていなかったという。完全に地固めを終えてから父の支配を脱する予定だったらしい。しかし、自分の行動は既に把握されていたのだ、と殺されて初めて分かったそうだ。
自分が人前に化けて出ると、ますます「代谷神社」の霊威が高まってしまう。それでは「代谷敬治」の思い通りだ。全く以て気にくわない。そう考えた彼女は、新川を下ってあの「オタネ浜」の沖に身を隠すようになった。「オタネ浜」は一時期海水浴場となって賑わっていたらしいが、その時はさらに沖まで出ていたらしい。誰にも見えない霊体であることはこのころには分かっていたが、念のためにということだった。なお、気合を入れれば任意の動物に姿を見せられるとのこと。
そうして漂って長い時間が過ぎた頃、もはや誰もいなくなった浜辺に一人のうらぶれた人間が来たのを見かけた。そいつがこちらに向かって食前の祈りをささげてくるものだから、これだけ経ってまだ風化していないのかと驚いた。そして、それを確かめるべく近づいてみたら逃げられたので、後を追った。それが私だったとのことだ。
ちなみに、なんで幽霊になったのかは分からないらしい。「殺されたんなら恨めしいんじゃないのか」と訊いてはみたが、彼女は首をひねるばかりだった。そんなことで幽霊になれるなら、この世は幽霊に溢れているだろう、と彼女は述べた。
以上でダイジェストは終わりだ。
こういった歴史のあるヤバ神社から、私はご神体を取り除かなくてはならない。しかも、運の悪いことに今年は2025年だ。前回の「百二十年祭」――「帰年祭」が2015年だったので、8月になれば社は開かれ、遺髪の入った木箱は一般公開される。
前回よりもカメラの性能やスマートフォンの性能・普及率は随分高い。以前の解像度の低い新聞の写真では読み取ることのできなかったあの箱の文字も、今年は分かるかもしれない。あの文字の中に、もし「代谷ナギ」を示すものがあった場合、幽霊が見えずとも真相に辿り着くことは容易だろう。
なにせ、それを示す資料はすべて図書館にある。その資料群はここ数日で丸ごと発掘済みだ。昨日あの女が言った通り、図書館がある限り「代谷神社」の真実は隠せないのかもしれない。
もし最悪の形で事が露呈してしまえば、あの女の祟りが私に降り注がないとも限らない。だから私は、2025年8月2日までに「代谷ナギ」の遺髪を処分しなくてはならない。
私は遵法意識の高い無職なので、犯罪に手を染めたくない。かといって、「『代谷神社』のご神体『代谷ナギの遺髪』の処分」という依頼を達成するために考えられる手段は、その信条に配慮してくれなさそうだ。
話せばわかる神社である可能性も考えないでもなかったが、異常性の垣間見える神社に正面から交渉しに行けるだけの度胸は私にはなかった。
今日ここに来たのは、社殿に押し入るためでも、交渉するためでもない。ただの様子見だ。一度も現地に訪れないままでは、方針は立てられない。
それと、遺髪の現存確認も兼ねている。幸い、「代谷ナギ」は物体を透過できるタイプの幽霊なので、先程社殿に忍び込んでもらった。結果は黒とのこと。10年前の新聞に載っていた写真と同じく、あの細長い箱は鏡の隣に安置されていたらしい。……残念だ。無くなっていれば、それで話は終わりだったんだが。
境内の隅で今後の自分の身の振り方を考えていると、参詣客がひとり訪れた。鳥居をくぐるなりこちらにちらりと視線を送り、そして逸らす。……まあ、不審か。そうだよな、見慣れない人間が平日昼間に神社の端に佇んでいたら、警戒のひとつもするだろう。どれ、なにかそれっぽいことでも……、と視線を巡らせる。
すると、社務所に並んだおみくじやお守りが目に入った。売り場――いや、「売り場」とは言わないんだったか――とにかく窓口には人がおらず、「御用の方はベルを押してください」と書き置かれている。厄除けでも買おうかな。でも、この神社こそが私に取り憑く厄介者を作り出したんだよな……。
そんなことを考えながら、縁起の悪い縁起物を眺める。視線をさらに滑らせると、この神社の公式SNSアカウントの宣伝が書かれた紙に行き当たった。センサー式の手水舎といい、現代的な運用を取り入れる神社なのかもしれない。
スマートフォンでそのアカウントの様子を見に行くと、それなりに頻繁に更新しているようだ。年中行事の様子やこのあたりの季節の移ろいを写真付きの一言と共にアップロードしている。ずいぶん熱心な広報だ。フォロワー数を見ると2,000を超えていた。これが多いのか、それとも少ないのかは分からない。
……これ、
いや、使えない。私は思い付きを即座に却下した。
「代谷ナギ」にしたように、過去の所業を突き付けて脅しをかけてしまおうと思ったのだが、それは無理だ。
インターネットは匿名性の高い空間だ。SNSもその例に漏れない。しかし、いくら匿名性が高いと言っても、限度がある。直接脅迫なんてしたら、管理元への開示請求からの即お縄が目に見えている。それでは他の不法行為と大して変わらない。私は極力リスクを負いたくないのだ。
絶対にやりたくない。やりたくないが……、でも、悪霊に脅されているしなぁ。
私は迷いを抱えたまま、帰りの鳥居をくぐった。結局、お守りは買わなかった。
帰り道、浮遊する女の背を追いかけながら、130年前に殺人事件が起きたのはどのあたりだろうかと視線を巡らせる。今朝聞いた話だと、明治28年の神社の所在地は今と結構違っているらしいから……、と「代谷ナギ」の述懐を振り返っていて気付く。
私はあの女の隠しごとを、「洛流神社」設立にまつわる詐欺か、あるいは大穴で、父が殺人犯であることのどちらかだと思っていた。実際に自白を引き出せたところを見るに、どちらかが彼女の弱みとして機能していたのは間違いない。実際、彼女自身も「あの出来事を誰にも知られたくない」と言っていた。
しかし、今朝彼女は、「神社の霊威付けの材料となるのを避けるため、自身が幽霊として存在していることを隠したい」と述べた。それは私の予想のどちらとも合致しない。それなら、私が黙っているだけで目的は達される。「代谷神社」に遺された遺髪から「代谷ナギ」が殺されたことに辿り着く人間はいても、「代谷ナギ」が幽霊になっていることに気づく人間はいない。
……この女、この期に及んで何か隠してやしないだろうか。
「あの、あなたはどうして『あの出来事を誰にも知られたくない』のですか。あの遺髪からでは、あなたが幽霊としてこの世に残っていることに辿り着ける人はいませんよ」
枯れた桜並木の下を漂う幽霊に、そのまま疑問を投げつける。
女はこちらを振り向き、眉を顰めた。
「仮にあの遺髪から『代谷ナギ』の過去が明らかになったとして、『代谷神社』の株が上がることはありえません。なら、放っておいてもよくないですか」
働きたくない一心で言葉を続ける。女はその言葉が進むにつれて口を引き結び、俯いていった。
見覚えのある仕草だ。昨日、自白を迫った時もこんな感じだった。なんだかまた居た堪れなく――。
いや、この居た堪れなさには他にも覚えがある。
あれは、4月6日の札幌市中央図書館の「こどもの森」。破いた本を隠そうとして失敗し、公開説教を食らっている子供を見たときのものだ。この女の表情は、あの時のお叱りに堪える子供のものとそっくりなのだ。
「もしかして、怒られるのが嫌なんですか」
「札幌の女学生」(※22-1)によると、この女は表面上優等生だった。飯田ハツ氏に言わせれば、「彼女が怒られているところはついぞ見たことがありませんでした」ということだ。これは結果的にそうなったのではなく、むしろ、これこそが彼女の行動原理だったのではないだろうか。
遊んでばかりだと先生から怒られるから、目くらましのために「落留会」を作った。
巫女の稽古をさぼると親から怒られるから、それをごまかすために「洛流神社」を作った。
そして、詐欺を働いたことが広まれば世間から怒られるから、私に証拠を隠滅させようとしているのではないか。
改めて、渋面を地に向けたままの女を見る。その姿は、まさしく帰りの会で沙汰を待つクソガキに相違なかった。
マンションで、図書館で、街で、様々に表情を変え、くるくると動き回っていた幽霊。その姿と、資料から読み取った優秀で異常な嘘吐きの肖像が、ようやく一致する。この女、自らの欲するところに忠実なガキのまま大きくなったのか。
私は眉間を揉み解し、そして長く息を吐いた。この女のみならず、様々なところに向けた思いが去来するが、それは形にならないまま霧消していく。
気を取り直して、なおも俯く彼女へと向き直る。
「いや、私は怒りませんし、他の人も今更怒らないでしょう。130年経ってるんです。時効もいいとこですよ」
しかも、この女は神社設立の一件が原因となって殺されている。法的な裁きではないが、詐欺・公文書偽造への罰としてはお釣りがくるどころの騒ぎではない。とはいえ余計な一言すぎるので、流石にこの言葉は飲み込んだ。
巫女装束の幽霊はパッと顔を上げ、そして、いかにもきまりが悪そうに笑った。
「だから、あの遺髪は放っておきます。いいですね」
女はきまり悪げな笑みを浮かべたまま、首を横に振った。
それとこれとは話が違うらしい。まあ、怒られはしなくとも、自分の犯した罪の象徴がいつまでも残っていたら気分が悪いか。でも、そのために新たな罪が生まれようとしていることに気づいてほしい。そして、その罪を犯すのはお前ではなく、私だ。
未だに色を失ったままの桜の枝越しに、札幌の空を見上げる。いつ雨が降ってもおかしくないような厚い雲が、我々の頭上を曖昧に覆っていた。
この悪霊の行いを咎められるほど私はできた人間ではない。何せ社会の輪から自ら外れた無職である。お説教などできよう筈もない。
……あのご神体、勝手に蒸発してくれないかなぁ。
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