第35話 凄腕キャリアウーマンは根回しがうまい!?

 一方――


 夜の裏路地は、都市の喧騒から切り離された、まるで異空間のようだった。

 細く、湿ったアスファルトの上を、園田はまるで空気の一部になったかのように音もなく歩いていた。


 標的は、あの週刊誌の記者。

 絢瀬が出した目配せ――あれは、"こいつを尾けろ"という明確な命令だった。

 その意図を園田は語られずとも理解していた。


 記者は裏通りを何度か折れ曲がった末、ひと気のない路地の奥で立ち止まった。

 薄暗い街灯の下、そこに立っていたのは、一度見たら忘れようのない顔。


 鷹見レイ。――火影の女狐。


「ご苦労様」


 その涼やかな声に、記者は苦笑交じりに頭を下げ、胸ポケットからSDカードを取り出そうとした。


「そのデータ、返しなさいよ」


 園田はさっと出ていき、そう言いながら、鷹見と記者の間に割ってはいった。

 鷹見は一瞬、目を見開いたが、すぐに満足げに微笑んだ。


「……素晴らしいですね。気配をここまで殺し、なおかつ私たちの動きに気づく。

 その判断の速さ、戦闘向きですよ。やはり、私の事務所に移りませんか?」


 その口調は勧誘というより、既に迎え入れる前提のような自信すら漂わせていた。


 園田は鋭い舌打ちを返した。


「そういうの、もう聞き飽きたの。さっさとそのデータ返しなさいって言ってるの」


 鷹見は小さく笑って、首をすくめた。


「残念ですが、そのデータ、既にこの記者さんとの契約に基づいて私たちのものになっているんです。法的にも、ね」


 園田の視線がすっと記者へと移動した。

 その目には、氷のような怒りが宿っていた。


「……どういうこと?」


 記者は額に汗をにじませながら、申し訳なさそうに手を合わせた。


「ごめん、すまないね。

 でも……このお嬢さんは、これからのVTuber界の卒業や転生の動向、その裏事情をすべて把握してるって話なんだ」


 園田の目が細まった。


「私たちが手間ひまかけて掴んだ証拠を、売ったってこと?」


 記者はうなずいた。

 視線は足元に落とされたままだ。


「……俺も記者としてさ、家族養わなきゃならないんだ。

 ビッグな情報が必要なんだよ。どうしても」


 その言葉に、園田は目を閉じ、短く息を吐いた。


 園田は無言で記者を冷ややかに見つめていた。

 その目は凪いだ湖面のように静かで、それでいて深い怒りをたたえていた。


 ゆっくりと、彼女は右手をポケットへ差し入れた。

 そして、そこから取り出したのは、黒光りする小さな金属の爪――。

 特殊な毒が仕込まれた、園田愛用の制裁用ツールだった。

 指先にぴたりと装着し、ひとつ呼吸を整えた。


「……裏切り者には、それなりの報いが必要よね」


 そうつぶやいた瞬間、園田は風を裂いて右腕を突き出した。

 その爪が、迷いなく記者の喉元を狙って突き進む――


「やめておきなさいっ」


 割って入ったのは、鷹見レイだった。

 すっと記者の前に身を滑り込ませ、手刀のような動きで園田の腕を横へ払いのけた。

 金属音が軽く鳴った。


 記者はその一瞬の隙に、足元の砂利を蹴り上げて立ち上がり、裏路地の奥へと一目散に走っていった。


 ふたりの女は、逃げ去る記者には目もくれず、その場で睨み合った。

 互いに一歩も動かず、呼吸すら潜めるように、気配をぶつけ合った。


「……そのデータ」

 園田が口を開いた。

「あの絵師の悪行、まさか握りつぶすつもり?」


 鷹見は首を横に振り、微笑んだ。


「そんなことはいたしませんよ。

 ただ――今このまま世の中に出してしまっては、アクアさんの再起に甚大な悪影響が及びますからね」


「は?」


「このデータは利用します。

 絵師を黙らせる交渉材料として。

 業界の主要なクライアントにも注意喚起をしたうえで、段階的に公開します。

 炎上ではなく、冷却した状態で火を通すんです」


 園田は、明らかに不満そうに鼻を鳴らした。


「……気に食わないわね」


 鷹見は笑みを崩さず、静かに言った。


「罪は、その行為を犯した者が償うもの。

 他の人間が理不尽に巻き込まれるべきではない。

 ……あなたも、そうは思いませんか?」


 その言葉に、園田は口を閉じた。


「……ああもう、レスバもきついわ」


 心のなかで舌を巻いた。

 まともに戦っても、情報戦でもこの女は手強い。

 だが、勝つことが目的ではなかった。


「――それでも、私は自分の役目を果たした」


 視線だけを僅かに背後に向けた。

 気配の一片も感じさせず、黒い影が路地に滑り込んできた。


 その男は――絢瀬。

 暗殺組織の社長であり、最も優れた暗殺者。


 その瞬間、裏路地の空気が張り詰めた糸のように変わった。

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