第30話 裏世界はそんなに甘くない!?

「は? 入るわけないでしょ」


 あんこが真っ先に声を上げた。

 鷹見レイのにこやかな表情に、まるで冷水をぶちまけるような拒絶の一言。

 隣でみこも頷いた。


「にぇ、あの……私たち、企業にお世話になってるし……そんな裏切りみたいなこと、できないにぇ……」


 園田も、いつの間にか持っていたイカの串を口から外しながら、しれっと言った。


「わたしも……パスで」


 夜街は黙ったまま、鷹見レイの瞳をまっすぐに見つめていた。


 それでも、鷹見レイは一切動じず、むしろ嬉しそうに目を細めた。


「拒絶、当然ですね。でも、まぁ……少しだけ、お耳を拝借して聞いてくださいな。

 ちなみに──ギャラの取り分、今はどれくらいですか?」


 その一言に、あんこの眉が僅かに動いた。

 みこは一瞬、返答に迷うような表情をした。


「今より倍、いや三倍以上になるように調整も可能です。

 もちろん、配信収益だけでなく、グッズの売上配分も……こちらでは80%を配信者にお渡ししています」


「あ、80……!?」


 あんこが思わず声を上げ、みこもごくりと唾を飲み込んだ。

 金額のイメージが頭の中で爆発した。

 新しい衣装、自費で作れる……推しぬいのサイズも増やせる……冷蔵庫も買い換えられる……!


「あっぶね、危ないにぇ……ちょっとグラついたにぇ……」


 みこは頭を振って気持ちを整えようとするが、すでに瞳がお金の山を映していた。


 そんな空気の中、ひとり、夜街だけは腕を組んだまま変わらず座っていた。

 長い睫毛の奥で、その目は氷のように冷たい光をたたえていた。


「……やめときな」


 その声に、全員がハッとした。

 夜街は、鷹見レイから視線を外さずに続けた。


「そういうことしたやつ……つまり、独立とか引き抜きとか。どれだけ上手くやってるように見えても、多かれ少なかれ、"消される"んだよ」


 場が一瞬、静まり返った。


「消される……?」


 あんこが言いかけたその言葉に、夜街は小さく頷いた。


「この業界、表じゃ笑って手を振ってるけど、裏じゃ足を引っ張り合ってるのが現実。

 独立組が業界から干されるのなんて、よくある話。

 クビになっただけじゃ済まないこともある。」


 その気迫に、残りの三人は震え上がったが、しかし、鷹見レイは、その言葉にも動じず、優雅に笑っていた。


「ええ、その通りですね。

 でも──それでも、消されずに生き残ってる人間もいる。

 私のクライアントたちは、むしろ前より自由に、前より大きく羽ばたいてます」


 レイの声は、あくまで柔らかかった。

 だが、その言葉の裏には確かな自信があった。


 鷹見レイは、静かな笑みを浮かべながら、懐からもう一枚、名刺を取り出してテーブルの中央へ滑らせた。


「最近、あなたたちの同僚で辞めた方──これから、私たちのもとから独立して、そして大成功を収める方が現れます」


 その言葉に、あんこたちの肩がピクリと動いた。

 居酒屋の空気が、再び張りつめた。


「え……?」


 みこが、おずおずとその言葉を反芻するように呟いた。


「その方の活躍を、どうか見守っていてください。

 そして、もし──ほんの少しでも、私たちの提案が頭をよぎるようなことがあれば、その時は、ぜひお電話ください」


 鷹見レイは、名刺を指先でトン、と軽く叩いた。


「私たちは、いつでも門を開いています。

 ええ、"優秀なあなたたち"のような人材にこそ、ふさわしい未来を」


 そして、そのまま背を向けて、あんこたちの返事も待たず、すっと個室を出ていった。


 扉が静かに閉まる。その音だけが、妙に重たく響いた。


 誰も、すぐには口を開けなかった。


 数秒の沈黙のあと、園田が不意に呟いた。


「……まさか」


「……え、まさかって?」


 あんこが訊ね返した。


「あの卒業ライブの同時接続数ナンバーワンの──」


「──"アクア"じゃないよね?」


 夜街の低い声に、全員がハッと息を呑んだ。


 目が合った。

 あんこ、みこ、園田、夜街──四人とも、ありえない、と否定したいのに、その名が心に刺さった。


 南海アクア。


 かつてニジライブに所属していた、伝説級のV。


 卒業配信では全プラットフォームでの同時接続数記録を塗り替え、業界全体に激震を走らせた。


「……アクア先輩、独立するって言ってたっけ?」


「いや……卒業のときは、"ちょっと休む"ってだけだったにぇ……」


「でも、タイミング的に……」


 ──まさか、本当に、あの人が。


 あんこたちの心に、言葉にしがたいざわつきが生まれていた。

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