友達

 結局、柊 愛理は一週間たっても登校してこなかった。

 飽きたのか、不謹慎だと思ったのか、学年が違うこともあって、先輩のことがクラスのゴシップの話題に上がることも少なくなり、明美達は、いつも通りの生活に戻りつつあった。


 ただ、全てが元通りではなかった。

 

 ホームルームで担任が、心の悩み相談の窓口に関する説明をするのを聞き流しながら、明美はどこか満たされないものを感じていた。

 

 動画投稿にも熱が入らない。

 満を持して撮影に臨んでも、どこか物足りないものしか撮れない。

 編集で何とかしようとするのだが、どうやってもクオリティの低いものにしかならず、寝る時間を削って頑張ったのに、結局全部削除してしまうなんて事が、何回かあった。


 そんな感じなので勉強も疎かになりがちで、課題が提出できない事が増えてきた。テストの点も以前は平均点は取れていたのに、ついこの間、平均点以下をとってしまった。

 当然、親や教師から小言を言われる。

 テストの点が親にバレた日、流石に説教をされた。

 学業がおろそかになるなら、動画用の機材やスマホを取り上げる、と言い出した親と本気で喧嘩になり、ここ数日、親との関係がギスギスしたものになっていた。


 何で、こうなってしまったのだろう。


 明美はシャープペンを手の中で転がしながら、教師が配ったプリントを見つめていた。

 

 私は何もしていない。

 ただ、良い物を作りたいと、熱中できるものに情熱を注ぎたいと、ただその一心で行動しているだけだ。

 

 なのに、満たされない。

 動画がバズれば、少しは違うのかもしれない。皆の称賛と、羨望の眼差しがあれば、この空虚な心の隙間が満たされる様な気がする。

 でもそれには、着々と再生数を減らしている自分のアカウントを流行らさないといけないという、大いなる矛盾をクリアする必要がある。


 一瞬、忌々しさが込み上げてきて、シャープペンを握りつぶしそうになった。明美の力では軋ませることしかできなかったが、いっそ折れて欲しかった。


 何なのだろう。周りのいちいち全てが、かんに障った。


 チャイムがなる。

 いつのまにかホームルームが終わり、明美は仏頂面で帰り支度を始める。本当は撮影のネタを仕入れたいが、このまま成績が下がれば、本気で機材を捨てられかねない。

 しばらくは大人しく帰って勉強するしかなかった。


「アッキー、帰りにアイス食べてこうよ!」


 由紀子が、明るい声で話しかけてきた。

 友人の、いつも通りの明るい笑顔が目に映った瞬間、明美の心の奥底で、何かが不気味に這いずる。

 ほんの一瞬だが、『コイツの顔を張り倒したい。』と言う考えが浮かんできて、手が何かしようとした。

 

 ……ありえない。ダメに決まってんじゃん。


 やっぱり、ちょっとおかしくなってるのかな……。

 そんな自分に嫌気がさしながらも、由紀子には甘えてしまう。

 仏頂面のまま、視線を逸らすと、


「ごめん、親が成績上げろってうるさくてさ。今日は帰って勉強する。」

 そう言うと、明美は鞄を持って立ち上がった。

 

 つれない……と言うより、友人を避ける様にして遠ざかる明美の背中を見ながら、由紀子の顔が曇る。

 

 ……ダメだ。今、明美を一人にしちゃいけない。


 由紀子の良心がそう囁いた。


「あ、待って、明美。なら、私も一緒に帰る!」

 慌ててそう言うと、構わず遠ざかろうとする明美を、由紀子は追いかけ始めた。


 ………………………………

 

 いつもなら声高に冗談を言い合いながら帰るはずの通学路を、二人は少し俯いて、とぼとぼと歩いていた。


 由紀子はどう声をかけるべきか悩んでいた。そもそも、明美の心情をうまく察してあげれていない。明美が何を悩み、なぜこんなにも苦しそうなのか、明確な答えがなかった。

 いくつか思い当たる節はある。でも、いつもの明美なら、ここまで深く悩んだりせず、行動で解決しているはずなのに……とも思う。

 明美の一番の友達だと言う自負がある分、由紀子は自分の不甲斐なさを感じていた。

 意を決すると由紀子は思い切って声をかける。


「アッキー……最近、元気ないよ?どうしたの?」


 明美がとても過敏になっているのは気づいていた。だから、慎重に声をかける。


「……別に……平気よ。」

 明美は低く答えた。

 

 これだけでも、由紀子にとってはショックだった。明美に、こんなに冷たくあしらわれのは初めてだった。

 思っている以上に深刻な事になっていると気付いた由紀子の目元が、微かに潤む。


 その様子をチラリと横目で見た明美は、しまったと思った。

 流石に、やりすぎた。由紀子に八つ当たりしても仕方ないし、彼女が本気で心配してくれているのはわかっていたはずなのに……。

 流石に頭が冷えて、軽くため息をつくと、


「ごめん……親と喧嘩中でさ。ちょっと気持ちの整理がつかないんだ。」


 と正直に話す。でも、そう言いながらも、この言い訳がどこか釈然としないのを、自分でも感じていた。

 さりとて、言語化できないこのモヤモヤを、由紀子にうまく伝えられる自信はない。

 結果的に嘘をついているのだが、それでもいい。その場しのぎでいいから、由紀子に負担をかけたくなかった。


「だから、あんまり心配ないで。ブルーな時期を過ぎたら、一緒に動画を……。」

 と言いかけて、明美は一瞬、吐き気を感じた。

 

 思わず口元を抑える。深夜に苦悩しながら編集している自分の姿や、この間の先輩達の嘲笑が頭の中をよぎり、思いの外、強い嫌悪感が心の中を吹き荒れる。

 

 ……口に出すべきじゃなかった。

 不快な気持ちが胸を締め付け、苛立ちが頭をもたげる。言い訳の効かない反応を由紀子に見せてしまったことで、明美の心は動揺した。


「アッキー……。」

 案の定、由紀子の顔がみるみる暗くなっていく。


 ダメ……由紀子を心配させてどうするの。抑えなきゃ。感情を出しちゃダメ。耐えなきゃ……。


 でも、明美が必死になるほど、心の揺れ幅が大きくなる。

 

 辛い気持ちを他者に見られたくないという羞恥。

 こんな気持ちにさせた相手への攻撃性。

 他者には理解できないだろうと言う孤独。

 

 それらがない混ぜになってイバラとなり、明美の心に不快な影を落とす。


「……アッキー、もしかして……先輩の事を気に病んでるの?」


 由紀子の言葉が聞こえた瞬間、明美の中の攻撃性が鋭くなる。

 

 誰があんな女、気にかけるものか。

 あんな……人の努力を嘲笑う様な連中……どうなろうと知った事か。


「……気に病むことなんて無いよ。タイミングが悪かっただけだし、アッキーは何も悪いこと、して無いでしょ?」


「わかってるよ。だから、大丈夫だって。」

 早くこの話を切り上げたかった。

 

 やめて。今はこの話題を振らないで。お願い。

 ……由紀子まで、嫌いになりたく無いの。


「ううん、アッキー、最近、何か変だよ?

 お願い。何か悩んでるなら私に話して?私たち、友達でしょ?」


 由紀子は思い切って明美に問いかける。

 何故か目の前にいるのに、明美がどんどん遠ざかっていく様な感覚に、由紀子は焦った。

 まるで、薄いヴェールがいつの間にか二人の間にかかり、それがどんどん折り重なって明美の姿を隠してしまう様だった。

 こちらから無理にでも近づかないと、明美が見えなくなってしまう。

 

 由紀子はぎゅっと手を胸の前で握り込むと、明美に詰め寄る。

 

「ねぇ、アッキー……ううん、明美。一度、私に全部話して。明美が思っていること、悩んでいること……私、ちゃんと受け止めたい。こんな辛そうな明美の姿……私、いやだよ。」


 由紀子がそっと明美の手を取る。

 暖かで滑らかな指先が、明美の手を包む。

 その手は、小さい頃からずっと、明美のすぐそばにあったものだった。


 明美は一瞬、言葉に詰まると、目頭が熱くなるのを感じた。

 そう……いつだって由紀子は自分の味方だった。根暗な子供だった頃から、ずっと私の味方をしてくれた。

 だからこの時、このまま由紀子に自分の感じているもの吐露すれば、もしかしたら、胸の支えは、全て消え去ったかもしれない。


 でも、そうはならなかった。


 由紀子は必死になり過ぎて、自分が言葉選びを怠っている事に気が付かなかった。

 

「明美、辛い時は休んでいいんだよ?しばらく動画活動をやめて、冷静になりなよ。病んでまで無理する必要なんて無いんだよ?」


「…………無理って……何?」

 何気ない……ほんの些細な単語が、明美の心に突き刺さった。明美にも、何故こんな些細な一言が苛立ったのか、説明ができなかった。

 でも、着実にざわついた心の奥底から、自分が今まで見た事すらなかった昏い感情が、ズルリと鎌首をもたげたのを感じた。


「ユッコ……あんたも、私がやってる事、無駄だと思うわけ……?」


「違う……違うよ、明美。そんなつもりで言ったんじゃ……。」


「自分のやりたいことを、一生懸命にやることの何が悪いの?

 見てくれてる人がいるじゃん。期待してくれてる人がいるじゃん。

 無理だとか、勉強がとか、そんな事にいちいち気にしてたら、私に期待してた人達が、皆離れていっちゃうじゃ無い。

 ユッコはわかってくれてると思ってたのに。」


 感情が勝手に走り出す。

 由紀子は変な事なんて一つも言っていない。むしろ、こんな言い方卑怯だし、自分のやり方が間違ってるのだって薄々気がついている。

 でも、感情の歯止めが効かない。他ならぬ由紀子だからこそ、一度堰を切って溢れ出した言葉が、たとえ相手を傷つけているのをわかっていても、止まらなかった。


「明美……。」

 

 由紀子の頬を涙が伝う。由紀子も、明美にどう答えていいかわからなかった。

 こんなの、明美らしく無い……そう言ってあげたかったが、そんな言葉が今の明美の耳に届くとは、到底思えなかった。

 一体、明美はどうしてしまったのだろう?疑問ばかりが浮かんで、言うべき言葉が二人の間に漂う前に消えてしまう。


「人の気も知らないで、軽々しく優しくしようとしないで。私はただ自分がやりたい事をやってるだけ。誰にも邪魔する権利なんてない。」


「待って明美、もっとちゃんと話を……。」


「うるさい!今は話しかけないで!」


 明美は由紀子の手を振り払うと駆け出した。

 もう、由紀子の顔を見ていることができなかった。

「理解してよ」と「放っておいて」の狭間で、自分のチグハグな感情の手綱を操る方法が、明美にはわからなかった。

 頬を伝う熱いものの正体もわからなぬまま、由紀子を傷つけたく無い一心で、明美はその場から逃げ出した。


 走り去る明美を、由紀子は追いかけることができなかった。

 自分にできることが何なのか、わからなくなってしまった。どんどん小さくなる明美の背中が、とても寂しそうに見えた。

 そして、黄昏に近づく時間の中で、明美の姿だけが、いっそう昏い闇を背負っている様に見えた。

 

 もう……私じゃ明美を助けられないのかもしれない。


 その気持ちが心をよぎった瞬間、由紀子はしゃがみ込んで顔を覆った。

 

 誰か……誰でもいい。あの子を助けてあげて……。

 私は友達を……明美を……失たくないの……。


 由紀子の姿もまた、薄暮の中に溶けて曖昧になる。

 闇のとばりが、そろそろと二人の少女の上に近づきつつあった。


 ――それを、遠くから眺めている影があった。

 昏い闇を背負うかの様に黄昏に立つその姿は、見るものが見れば、恐ろしい獣が闇に潜んで目を光らせているかの様に、見えたかもしれない。

 少女二人の姿をしっかりと目に焼き付けると、影は不意に踵を返す。そして、意を決したように、黄昏の向こう側に去っていった。

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