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 ほんの少し、彼が息を呑むのを感じた。



「家族を?」

「あたしの家庭、終わっててさ。母親はあたしと弟が小さい頃に男作って出ていったし、父親は子どもに暴力を振るう奴だった。だからあたしにとっての家族っていうのは、弟だけだったよ」

「弟が?」

「弟に矛先が向きそうになったら、あたしは自分を差し出してきた。父親はあたしをおもちゃにしていたけど、それだけじゃなくて弟にも暴力を振るってたんだ。どうしても護りきれなくなって、弟が殴られたりしているところを、ただ見てるしかできない時もあったんだ。身体が痛くて動かなかった時とかね」



 光景がフラッシュバックする。

 過去の記憶だけでなく、その時に感じた無力感までもが湧き上がってきそうになって、あたしはシーツに顔を埋めた。



「あたしは高校生の頃、とうとうその日々に耐えきれなくなったの。気づいたら弟だけ置いて、家から逃げ出してた。あれから連絡も取ってないし、学校もそのまま辞めて、地元にも帰ってない。ニュースとか見るたびに、怖くて仕方ないんだ。父親は死んでもいいけど、弟が死んでたらどうしよう……って思う。でも怖くて確かめられない。生きていたとしても、きっとあの子は、あたしを恨んでる。面と向かってそう言われたら、きっとあたしは耐えられない。弟を見捨てたのはあたしなのに、虫のいい話だよね」




 この仕事を始める時「そうでないのに、そうであるように振る舞うことが大事だ」と教えられた。

 今のあたしがそれをできているかと問われれば、最低の大根役者というか、もはや演じること自体を完全に放棄していた。ここにいるのは、紛れもなく、本物のあたしだ。嘘八百を並べていたなら、こんなふうに涙など滲んだりはしない。そのことはあたし本人だけじゃなくて、今も物言わぬ彼だってとっくに理解しているはずだった。



「――弟が本当に恨んでいるのは、きみじゃなくて、親父のほうじゃない?」



 やがて彼は静かにそう呟いた。


 たとえこの言葉が一時の慰めでしかなかったとしても、勝手に吐き出して勝手に弱りきっているあたしには、普段以上に沁み入ってきた。

 自分のことを置き去りにした姉を、弟はただ恨んでしかいないと思っていた。

 あたしの前に果てしなく続いているのは、そのことに対する贖罪の一本道でしかないと思っていたけれど、彼があたしに提示したのは、途中から枝分かれする、今とは違って仄明るい道だった。



「そう、なのかな」

「身を挺して自分を護ってくれてた姉がいなくなったのって、結局は親父の暴力のせいだろ。このクソ親父さえいなければ……って思ってたんじゃないかな。自分の盾になってくれてた姉ちゃんが、やがて耐えきれなくなって逃げ出すのは、ある意味当然だって考えてると思う」



 あたしはきっと、こうやって次にいつ会うかも分からない相手に本心を明かしてしまったことすらも、夜のせいにしようとしていた。朝が来てしまう前に、鉛みたいに重く沈んだ心を少しでも軽くしたかった。家を捨てて出てきたあたしに友人らしい友人はいないし、心を開いてしまったことでそれを裏切りに使われてしまうのが怖かった。



 でも、ずっと誰かに、こう言ってほしかったのだと思う。



 あなただけが悪くはない――と。



 あたしは黙って彼の胸を借りて、しばらくの間、さめざめと泣いた。嘘泣き以外で涙が出たのは随分と久しぶりだ。いつもの虚しさはなくて、涙を流すほどに、すっかり汚れきった心が少しずつ浄化されるような感覚を味わった。


 彼は何も言わず、あたしの頭を抱いてくれた。これじゃどっちが客なのか分からない……と、あたしは涙を拭いて顔を上げる。彼は笑ったり怒ったりした顔ではないが、目元にはまるで子どもをあやす親みたいな慈愛の色を感じた。



「ごめん、ありがとう。なんか少し――救われた気がする」

「いつか会えるといいね。弟さんに」



 いつからか、来るか分からない未来に期待するだけ無駄だ――と思うようになっていた。けれど彼はそんなあたしに、未来への希望を与える。


 いつか再会できたなら、置いてけぼりにしてしまったことを謝りたい。

 独り言ですら口にできなかったあたしの本心を、彼は僅かな時間のあいだにすべて把握しているらしい。彼になら、なにも隠さなくてよいのかもしれない。


 そんな不思議な安心感のようなものが、あたしのことを少しだけお喋りにさせた。



「あたし、今日はいつもと違う意味で、朝が来てほしくないよ」

「どういう意味で?」

「明けてほしくないなと思うくらい、気分のいい夜だから」



 どんなに自分の気分が悪くても、相手に気持ちよく帰ってもらうことがあたしの仕事だ。

 でも今は逆に、気持ちよくさせられている。あたしが彼にお金を払ったほうがいいのでは……と思ってしまうほどだ。まあ、払えと言うのならそれもやぶさかではない心境だけれど。

 財布の中に紙幣が何枚あったか思い返しそうになったとき、彼がぼそりと呟いた。



「偶然だけど、おれにも、夜に紛れて捨てたい記憶があるんだ」



 そうそう、そういうのを求めていたんだよ。することはもう終わったわけだし、あとはしっとりとしたピロートークのひとつでも繰り広げてみますか……というか、あたしだけ一方的に喋ってばかりだったし、彼の話も聴いてあげたくなった。

 彼ほどうまく聴き役に徹せられるかどうかは未知数だが、今のあたしならば、敷きたてのアスファルトくらいフラットな気持ちで聴いてあげられそうだ。



 イミテーションではない微笑みを浮かべながら、あたしはやさしく訊ねた。



「どんな記憶?」

「親父の死体をスーツケースに詰めて、夜の海に沈めたこと」




/end/

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