第16話 空白の器

火葬炉の中に、炎が走る。

無音の空間に、ただ空気が揺らぐ音だけが残された。


黒月は黙って立っていた。

腕には包帯。背には傷。

だが、その瞼の裏には、まだ少女の記憶が鮮明に残っている。


隣に立つマリアもまた、口を噤んだまま視線を逸らさない。


「……これで、本当に終わったのね」


マリアの声は風に溶けそうなほど小さかった。


黒月は答えなかった。ただ、火の奥で静かに燃えゆく小さな人影に、最後の眼差しを向けていた。


(アイ……お前がくれた“目”で、これからを見届ける)


焼却室の奥、管理者が無言で控えていた。

黒月は彼に目を向け、一礼する。


「遺灰は、俺が引き取る」


「……了解しました」


手続きを終え、黒月とマリアは並んで炉を後にする。

誰も口を開かない。

この静けさだけが、死者に与えられた唯一の敬意だった。


階段を下りながら、黒月が不意に口を開いた。


「火葬なんて、アイは想像してなかったかもな」


「でも……最後に人として扱われた。ちゃんと、“人間の最期”を迎えられた。それだけで十分よ」


黒月は頷いた。


「次は、あいつが残したものを整理しなきゃな」


「核の分析?」


「いや──あいつの記憶。……俺の中にまだ、残ってる」


マリアが立ち止まり、黒月を見上げる。


「視えるの?」


「断片的に、だけどな」


黒月は眉をしかめ、こめかみに手を当てる。


「たぶん、“あいつが見た世界”を通して、何かが見えてくる。──実験に関する情報も、少しだけ感じた」


「……その感覚、大事にして。アイが託した鍵かもしれない」


マリアの目が、まっすぐ黒月を射抜く。

彼もまた、その視線から逃げなかった。


「マリア。……お前は、最後まで味方でいてくれるか?」


「もちろんよ」


その答えに、黒月はようやくわずかな笑みを見せた。


「なら、一緒にやろう。全部……終わらせるために」


黒月は一瞬だけ迷うように立ち止まり、左手で顔の包帯に指をかけた。


ゆっくりと、静かにそれを外していく。


露わになった瞳には、以前と異なる光が宿っていた。蒼く深く──そして、どこか透明な輝きを放っていた。


「もう、視えるんだ。……あいつのくれた“視界”が、はっきりと」


マリアは目を見開いたが、何も言わなかった。

その瞳に宿る決意と哀しみの強さが、何よりの答えだった。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

会議室ではなく、地下の封鎖領域──通称「零号階」。

外部接続を遮断されたこの階層で、限られた五人だけがアクセスできる端末がひとつ、静かに起動していた。


名代 美都はそのうちの一人だった。


淡く光るモニタには、極秘扱いの映像と記録ファイルが並んでいる。

『被験体A-I:最終状態』『Z-6覚醒時反応』『模倣核連鎖挙動』。


「……やはり、すべて繋がっていたのね」


端末の前に立つ名代は、声を落とした。


上層部はすでに一部の映像と資料を回収済みで、実験に関する主記録の抹消を命じていた。だが、完全消去はされていない。


「……“なかったこと”にはできない。けれど、表には出せない」


この端末に保存されたデータ群──それらは“保存”される。ただし、閲覧・解析権限を持つのは、日本庁の上位五名のみに限定されている。


画面のひとつには、黒月とアイの過去の記録が断片的に映っていた。


スラム街。壊れた鉄柵の裏、黒月がまだ十代半ばだった頃の映像。彼の隣には、幼い少女──アイ。


「……彼らが関わっていたとは、ね」


名代は眉間に皺を寄せた。


当時、スラムで発生した怪獣襲撃事件。その混乱のさなかで行方不明になった少女が、後の“被験体A-I”だったという情報は、上層部の中でもごく一部にしか知られていない。


「存日 黒月は、直接研究に関わってはいない。彼は……ただ、彼女と同じ場所で生きていた。失っただけ」


その喪失が、今になって再び彼の目の前に現れ、牙を剥いたのだ。


「アイは偶然ではなく、“狙って”回収されたのね。スラムは、実験体調達の場……まさか、そんなことまで」


記録の一つが強制的に暗転する。

“閲覧権限外”の表示が浮かぶ。


名代は無言で画面を閉じた。


「……どうか、あなたが敵に回りませんように」


祈るような声は、冷たい蛍光灯の光に溶けていった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 葬儀場からの帰り道。


車両の中、黒月は葬儀場から庁への帰路にあった。

黒月は後部座席に腰を沈めたまま、車窓の外をぼんやりと眺めていた。


街の光が流れ、遠くで警戒音が鳴る。だが、それらは彼の耳に届いていない。

彼の意識は、今もなお身体の奥深くへと向かっていた。


──カツン……カツン……


規則的な靴音が、視界の中で反響する。

現実ではない、あの“記憶”の続き。


〈……黒月くん。ここは、私の中〉


柔らかな声が響く。


〈ここで君に伝えたかったものがあるの〉


アイの姿がそこにあった。研究服ではなく、かつてスラムで着ていたワンピース。

笑ったようで、泣いたような表情で、彼女は手を差し伸べてくる。


〈あなたにしか託せなかった。私の“核”は──ただの力じゃない〉


風景が崩れ、次の瞬間には、黒月は暗闇に立っていた。


無数の記憶が、彼の中を通り抜けていく。

アイが“被験体”として覚醒させられた日。

拘束具に縛られ、感情のままに泣き叫んだ日。


孤独、恐怖、そして、あきらめ。


その奥に、小さな手が震えながらも差し出されていた記憶。


〈……あの時、私、怖くて逃げたの。黒月さんを置いて〉


〈あの夜、怪獣が来て、私……隠れて、でも──見てしまったの。あなたが、守ろうとしてくれたのに、私は……〉


胸を締め付けるような痛みが、記憶の中のアイの表情と共に迫ってくる。

彼女はただ泣いていた。誰にも救われず、誰も信じられず、それでも……


〈それでも、もう一度だけ……会えてよかった〉


そして最後に微笑む。


〈あなたの目になりたかった〉


映像が途切れ、黒月は静かに目を開いた。


彼の体内では、静かに熱が回る。


アイの核──それは単なる戦力ではなかった。

それは彼女の想いそのものだった。生きたいという願い、人としてありたいという祈り、そして、彼の隣にいたいという小さな希望。


そのすべてが、今、彼の中に宿っている。


車窓には、次の任務地──かつての研究拠点が近づいている。


彼の両目は、新たな視界を受け入れるように微かに光を放った。


(この記憶の先に、“何”があるか……俺は、確かめる)


彼は手を拳に変えた。


核の力が、ゆっくりと体内に馴染んでいく。

その胎動が、静かに──だが確実に、始まっていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 マリアは黒月と別れた後、一人で庁内の資料室に足を運んだ。

夜の帳が庁舎を包み、周囲のざわめきが遠のいていく中、彼女はひとつの鍵付きキャビネットを開く。


そこには、過去にアイと交わした報告書や記録ファイルが並んでいた。


(……全部、ここにある)


けれど、それらの文字列のどれも、彼女の胸を満たすものではなかった。


マリアは椅子に腰を下ろし、一枚の古い紙を取り出す。アイがかつて、まだ実験体として番号で呼ばれていた頃──


その端には、ひらがなで稚拙に書かれた「アイ」という文字があった。


「名前を……くれって言って、そう呼んでたのよ。懐かしいわね」


彼女の声は震えていた。


あの子は、ただ人間でありたかった。それだけの願いに、庁も研究も、誰も応えられなかった。


「私に、何ができたのかしら」


その問いは、虚空に溶けるだけだった。


マリアは、アイを“研究対象”として扱いながらも、いつしか心を寄せていた。

その危うさを知りながら、同時に、自分が彼女の“人間らしさ”を支えていた最後の存在だったことも、理解していた。


(ごめんね……でも、あなたの想いは、ちゃんと黒月さんが受け取ってくれた)


ゆっくりと、古びた紙を封筒に入れる。


「だから私は、もう逃げない」


彼女の瞳に、決意の光が宿る。


それは研究者ではなく、一人の人間として──アイという少女を見送った者の、静かな覚悟だった。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

庁での手続きを終えたその夜、黒月は一人、街へ出た。


かつての記憶が匂いと共に蘇る。

スラムの空気はもうない。整備され、舗装され、灯りの明るさが増した通りには、新しい顔と新しい匂いが溢れていた。


だが、彼の中には、いまだかつての夜が生きていた。


(……こんなにも変わってしまったのか)


片手をポケットに入れながら歩く。思い出すのはアイと共にいたあの頃の夜。星が見えず、遠くの咆哮だけが響いていた、恐怖と孤独だけの時間。


屋台の一つが目に留まり、黒月は立ち止まる。鉄鍋の中で音を立てる炒め物の匂いが、腹を鳴らせた。


「ひとつ、くれ」


小さな皿を片手に、路地裏の階段に腰を下ろす。

焼き飯を口に運びながら、目を閉じた。


視界の裏に、まだ“彼女の目”がある。

アイの視界。感情。記憶。

それらは完全に自分のものではないが、完全に他人のものでもない。


「……なあ、アイ」


声に出してみる。答えは返ってこない。

だが、温度のような気配が、背中に寄り添う。


(このまま庁に閉じこもってたら、あいつが見たがってた世界は何も見られない)


夜の街を再び歩き出す。

人気のない裏通りに入ると、鉄と油の匂いが漂ってきた。

作業場か、工房か。だが、今は近づかない。


(何かが呼んでいる。けど、それはまだ今じゃない)


ライトの明滅する横断歩道を越え、人気のない河川敷へと足を運ぶ。

そこは昔、スラムの子供たちが集まり、拾った金属で剣ごっこをしていた場所だ。


「俺たち、よくここで遊んでたよな……」


黒月はその場にしゃがみ込み、地面を撫でた。


風が吹いた。何かを運んでくるような、静かな風だった。


「次に行くべき場所は、きっと見つかる」


その夜、黒月は街の底を歩きながら、自分の足で世界を踏みしめた。

過去と未来の間で。新たな何かを迎える準備を、静かに進めていた。


次に出会う者──それが“武器”となるか、“絆”となるか。

いずれにせよ、それはまだほんの少し、先の出来事だった。

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