第15話境界の果て

静寂の中、黒月は膝をついていた。両目を焼かれ、視界は闇に沈んだまま。だが、彼の手の中には仄かに光る“核”が残されていた。


それは、アイが最後に残したもの。


──彼女が「渡したい」と言った、“目”。


結晶のようなその核は、柔らかく、どこか温かかった。掌に収まるほど小さなそれが、心臓の鼓動のように脈動している。


「これが……お前の、最後の願いか」


彼女は人間になりたかった。そう願い、そう生きようとした。誰にも与えられなかった名前を持ち、選択を許されたあの時、確かに“人間”だった。


黒月は震える指で核を撫でる。その表面には微かな温度と、かすかな感情の残滓が感じられた。


「悪いな。……お前が見たかった世界を、代わりに俺が見る」


核を口に含んだ瞬間、体が硬直する。


熱い。


それはただの熱ではなかった。全身の神経が焼かれ、血管の奥に直接火を流し込まれたような激痛。眼窩から脳髄へ、真紅の奔流が突き抜ける。


「ぐ……ぁああああああっ!!」


叫びは反響し、虚空へと溶けていく。地面を掻き毟るようにして彼は身体を支え、意識を保ち続けた。


目の奥で、なにかが弾けた。


──闇に、色が差し込む。


始めは靄のような明滅。それが徐々に輪郭を持ち、色を帯び、形となる。だがそれは“見える”という感覚とは違った。


感情が色として視えた。

熱が波紋のように揺れていた。

嘘と真実が、まるで影と光のように分かれていた。


「……これは……」


彼の目が再び開かれる。だがその瞳は、かつてのものとは違っていた。虹彩は微かに光を宿し、焦点は“視覚”ではなく“世界の本質”を捉えていた。


「お前の目……いや、“お前”そのものだな、これ」


アイの核は、確かに黒月の中で生きていた。


彼はゆっくりと立ち上がる。瓦礫と血と静寂の中。もう彼を導くのは、“ただの視力”ではない。


──この世界の嘘と痛みを、見抜く力。


「アイ。お前が俺にくれた視界で……全部見届けてやる」


その声は誰にも届かない。だが、核は微かに脈打ち、彼の胸に安らかな熱を残した。


静かに、歩み出す。


新たな“眼”で、世界の真実を見つめるために。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

情報局上層フロア──


名代 美都は、報告書の束に目を通しながら無言で眼鏡のブリッジを押し上げた。手元のホログラフには現地観測データ、黒月の生体反応ログ、そして──アイの戦闘ログが断続的に走っていた。


「……完全な暴走、からの沈静化……ではない。これは“収束”だ」


横にいた分析官が息を飲む。


「核信号の減衰が一致しています。“模倣体”の構造として、あの個体……『アイ』は本体に強く依存していたはず。それが急激に分離されて──」


「──誰かに“殺された”、のよ」


名代の言葉に、室内の空気が凍る。数秒の沈黙の後、誰かが小さく「まさか」と呟いた。


だが名代は違った。


──まさか、ではない。


存日 黒月という存在を、彼女は最も近くで見てきた。あの男は、ただの武器でも、ただの駒でもない。


「彼がやったのなら……それは、任務遂行でも命令違反でもない。“誠実”の結果だわ」


静かにそう告げると、室内の幹部たちはさらに困惑を深めた。


「Zランク──Z-6。今や、ただの戦力では済まない存在になった。彼の行動は、庁全体の“倫理”そのものを問うものになるでしょう」


別の幹部が低く唸った。


「情報はどうする? 映像記録も音声記録も残っている。だが、これを公開すれば……」


「庁の信用は地に堕ちる」


名代ははっきりと告げる。


「一部修正のうえ、公開は“無作為な模倣体暴走”という体裁で押し通します。黒月の存在も、今後はZランクとして“コード管理”する」


「彼を“人間扱い”するなと?」


「……扱えません。人間以上の何かとして、扱うしかない」


会議室の空気が重たくなった。


名代は資料を閉じ、立ち上がる。


「私は彼の監視官です。責任は、最後まで取ります」


その背に向けて、誰も言葉をかけなかった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 隔離観察室。


マリアは白衣のまま、冷たいガラスの向こうに映る映像を無言で見つめていた。


そこには、かつて“研究対象”として接しながらも、次第に情を通わせた少女の最期が映っていた。


暴走。変異。苦悶。


そして、黒月の刃。


誰が悪いのでもなかった。だが、それでも涙が零れた。


「……ごめんね。私には、救えなかった」


唇を噛み、肩を震わせながら、それでも彼女は映像から目を逸らさなかった。


「あなたは確かに、最期まで“人間”だった。だからこそ……だからこそ、痛いの」


研究者として、そして保護者として──


彼女はもう、境界のどちら側にも立てなかった。


そっと、マリアは手を伸ばし、ガラス越しのアイへと触れる仕草をした。


「ありがとう。……そして、おやすみ」


その声は誰にも届かない。


だが、彼女の胸に宿った喪失と祈りは、静かに世界の片隅へと沈んでいった。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 やがて彼の姿が、庁の臨時収容所に到着した。


まだ朝霧の残る早朝。黒月の姿を最初に確認した隊員は、声も出せずに立ちすくんだ。


──その姿が、あまりにも異質だったからだ。


両目を閉じたまま歩く青年。だがその足取りに迷いはなく、片腕には少女の亡骸を抱き、もう一方の手には核が煌々と脈打っている。


「……ゾ、存日さん……?それ……」


声をかけた若いオペレーターの震える声。

黒月は、ただ首を小さく横に振った。


「こいつは……俺の大事な“仲間”だ。丁重に扱ってやってくれ」


その言葉に、周囲の緊張が一気に膨れ上がる。

名代も駆けつけてきた。彼女の目が、亡骸を見て揺れる。


「……あなたが、自分の意思で──?」


「……ああ。アイは、自分の足で“死”を選んだ」


誰もが言葉を失う。


その沈黙の中、黒月の脳裏には過去の映像がよぎっていた。


──あのとき、格納区画。

アイが小さく笑って言った。「黒月さんと行けるの、楽しみです」


──その前、庁の診察室で。マリアに頭を撫でられて、ほんのわずかに頬を緩めた少女。


──さらには、初めて出会ったスラムの廃墟。機械と人の狭間で怯えていた彼女に、黒月が差し出した手。


(あのとき、あいつは俺を信じた。

……だから、今度は俺が信じてやらなきゃ、いけねぇだろ)


「……アイは、最後に“目”をくれた。俺の中で、まだ生きてる」


黒月はそっと胸に手を当てた。


「それだけで十分だ。……あいつは、俺に未来を託した」


名代はゆっくりと頷いた。もはやそれが公的な判断を超えたものだとしても、誰も異を唱えなかった。


それは、“信頼”という名の新たな境界だった。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 夕暮れ前、庁内の医療棟。


簡易治療を終えた黒月は、包帯で覆われた顔のまま静かに歩いていた。目的地は一つ──マリアの部屋。


廊下の奥にある観察研究官専用の控え室。その扉の前で立ち止まり、ノックもせずに手をかける。


「……来ると思ってたわ」


中にいたマリアは、静かに席を立った。手には、アイの記録データが収められた端末。


「俺の中に、アイの核がある。……でも、それだけじゃない」


黒月はそっと目元に手をあてる。


「さっき、少し……“見た”んだ。アイの記憶を。過去を」


マリアが息をのむ。


「彼女は、ただ生きたかった。誰かに必要とされること。信じてもらうこと。それが、彼女のすべてだった」


黒月の声は低く、しかし確かに震えていた。


──視えたのは、無機質な部屋の中で怯える幼い少女。

──何度も分解され、再構築される感覚に襲われながら、ただ人の声を求めていた。

──唯一、微笑んだのは──“マリア”だった。


「マリアさん……お前は、あいつの“世界”だった」


マリアは膝から崩れ落ちるように椅子に座った。


「私には……助けられなかった。あの子の願いに、答えられなかった」


「違う。お前は、アイに“自分”を教えた。アイは最後に、あんたと俺を思って死んだ。だから──これでよかった」


黒月はゆっくりと目を閉じる。


視えた光景は、決して消えない。彼の中で、アイの視線は今も生きている。


「この目で、世界の嘘を全部暴く。その先に……もう一度、ちゃんと“人間”ってものを取り戻すために」


マリアは小さく頷いた。


その瞬間、ようやくアイの死が、現実となった。


黒月は深く息を吐き、静かに口を開いた。


「……マリアさん。あんたが“敵”じゃなかったって、確信したよ」


マリアはゆっくりと顔を上げる。


「俺が視た記憶の中で……唯一、アイに“人間”として接してたのは、あんただった。実験の記録の中にも、アイの人格形成にあんたの関与が深いって痕跡があった」


「……それは、偶然よ。私もすべてを知っていたわけじゃない。ただ……あの子が、“人間”になろうとしていたのは、きっと、私のせいでもある」


黒月は頷いた。


「だから、頼みがある」


彼はゆっくりと言葉を継いだ。


「アイを……ちゃんと埋葬してやりたい。俺一人じゃ無理だ。あんたに協力してほしい」


マリアはすぐに頷く。


「もちろん。……彼女が残した想いを、私たちが弔わなきゃ」


黒月は一瞬、目を伏せたのち、もう一つの言葉を口にする。


「それが終わったら……この国の“嘘”に向き合う。アイをあんな形にした元凶たちに、ケリをつけに行く」


「復讐、するつもりなのね」


「ああ。……ついてきてくれるか?」


マリアは沈黙したまま、少しだけ笑った。


「あなたのそばにいるわ。……最期まで、あの子の“生きた証”として」


部屋の空気は静かに沈み、二人は言葉もなく、ただ祈るように、椅子に身を預けた。  

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