10:後悔と変化

 ノアが目を覚ましたとき、夜の帳は既に下りていた。

 暗闇の中で確認した時刻は午前二時半。こんな状態では絶対眠れないだろうと思っていたのに、横になって啜り泣いているうちに寝入ってしまったようだ。


(最悪だ……)


 初めて出会ったときといいさっきといい、どうしてこうも子どもっぽいのだろう。

 小さく呻いたノアは最悪の気分で上体を起こした。


 エルトゥスはノアのことを正しく理解していなかった。それは確かだ。

 しかし、勘違いしたのはノアを大切に想っていたからこそであり、一方的に怒りをぶつけるような内容ではなかったはずだ。

 それなのに、「自分のことを分かってもらえなかった」と駄々をこねる幼子のような対応をしてしまった。そう思うと恥ずかしいやら情けないやらで頭を抱えたくなる。


 このまま朝になるまでじっとしていたい。それが正直な感想だった。

 だが、ほとんど眠る必要のないエルトゥスは今も「ノアを傷付けてしまった」と考えているかもしれない。一人で落ち込んでいるかもしれないのだ。

 にもかかわらず、酷い対応をした自分がベッドの中でじっとしているというのはあまりにも身勝手だろう。


(エルに……謝らなきゃ)


 意を決したノアは一階に下り、顔を洗ってからリビングに移動した。ドアをそっと開け、遠慮がちに室内を覗き込む。


「……あれ?」


 だが――エルトゥスは、いなかった。

 夜はいつもリビングで読書しているのにめずらしい。今日は自室として与えた客間で睡眠を取っているのだろうか。


 客間に向かうと、ドアが半開きになっていた。明かりは点いておらず、静まり返っている。

 エルトゥスの睡眠はそれほど長くないだろうし、起きてくるまでリビングで待っていよう。

 そう考えたノアは客間のドアを閉めようとして、あることに気付いた。


(――ベッドにいない?)


 向かって左の壁際に設置されたベッドには、人が――模造骸骨レプリカ・スケレトスが横たわっている厚みがなかった。暗いせいで見間違えたのかと思ったが、改めて確認しても、やはり厚みはない。


「……エル?」


 遠慮がちに、それでもやや大きめの声で呼びかけたノアが灯りを点ける。

 エルトゥスは、ベッドにいなかった。

 そして、客間のどこにも姿が見えない。

 とても嫌な予感がした。


「――エル!」


 エルトゥスを呼びながら、ノアはアングレカ邸内を見回った。普段使われていない部屋や風呂場だけでなく、フェンネルやイオの部屋も確認する。

 だが、エルトゥスはどこにもいない。

 コレクションルームにも地下室にも、エルトゥスの姿はなかった。


(――「ボクのことが嫌になったら」)


 いつでも好きなところに行って構わないと、ノアは言った。「嫌じゃないなら傍にいて」とも。

 では、エルトゥスが姿を消したことは何を意味するのか。

 事態を把握したノアは、ふらふらとした足取りでリビングに戻った。目的は「ある物」を確認するため。

 そして――ノアが不貞寝するまで確かにあった「ある物」は、ノアが導き出した結論を肯定するかのように消えていた。


「ボクを怒らせたから、自分じゃ役に立てないと思って……?」


 エルトゥスが姿を消した理由として考えられるのは二つ。

 「役に立てない自分には価値がないと考えたから」。

 もしくは――「厄介な性格のノアに嫌気が差したから」。


 エルトゥスからすれば、自分が一生懸命考えたことを「何も分かってない」と一方的に否定され、喜ばせたかったノアを怒らせてしまったのだ。

 心優しいエルトゥスが「ノアの気持ちを理解できなかった自分には傍にいる権利なんてない」と――「この先ノアと共に生きていくのは難しい」と考えたとしても、まったく不思議はない。


「どう、しよう……」


 自分のせいでエルトゥスがいなくなってしまった。

 事態の大きさに体が震え、頭が真っ白になる。

 エルトゥスと話がしたい。一方的に怒ったことを謝罪して、もう一度暮らしてほしいと伝えたい。


 だが、もしもエルトゥスに「もうノアとは暮らせない」と言われてしまったら?


 そう考えただけで身が竦んでしまう。周りから疎まれ、自らも人付き合いを疎んでいたノアは友人が少なく、仲直りはおろか喧嘩をしたことすら数えるほどしかないのだ。エルトゥスに突き放されることは何よりも恐ろしかった。

 仲直りが上手くいくかどうか分からない。だが、まずはエルトゥスがどこに行ったか分からなければどうしようもない。


 ノアは考えを巡らせた。


 「ある物」――鳥の頭を模した嘴付きの仮面マスクがなくなっている以上、人目に触れる場所に向かうつもりなのだろう。

 だとすれば、行き先はフラッタ駅かもしれない。

 エルトゥスは身寄りがないから、誰かに頼るとすれば、相手は恐らく政府だろう。

 そして、ノアがいるこの家以外で迎えの者と合流するなら、フラッタ駅で落ち合うのが最も合理的だ。


(追いかけなきゃ……)


 ノアは玄関に向かおうとした。

 だが、リビングを出たところで足が止まってしまった。


 ――今追いかければ、きっと間に合う。

 間に合うだろうけれど、そのあとどうすればいいか分からない。何をするにしても恐怖が先立ってしまう。

 しばらくその場に立ち尽くしていたノアは、やがてリビングに戻った。

 向かった先は、リビングの端――プッシュ式の電話機がある一角。


 耳にあてた受話器の中でコール音が鳴る。

 単調な音が十五回ほど繰り返され、申し訳なくなったノアが切ろうとしたとき、受話器の向こうから「もしもし」と、やや不明瞭な声がした。


「ハヅキ……」

「坊ちゃん?」


 不明瞭だった声が、急にくっきりと浮かび上がる。


「どうなさったのです」

「エルが……いなくなった」


 幼い頃から聞いてきた彼の声を聞いた途端、張り詰めていた何かが緩んだ。まだ何も話していないのに目が潤んで熱を持つ。


「ボクが一方的に怒ったから……」

「坊ちゃん、落ち着いて。まずは状況を説明してください」


 受話器越しに聞こえるハヅキの声はいつになく静かな響きを持っていて。

 ノアは鼻を啜り、エルトゥスとの間に起こった出来事を話した。


「なるほど。フラッタ駅に向かったかもしれないのですね」

「確証はないけど、アングレカ邸うち以外で合流するならそこが一番分かりやすくて合理的だと思う。エルは人間より疲労を感じにくいみたいだから歩けるだろうし……」

「分かりました。では駅を確認しましょう」

「……まだいるかな」

「恐らくは。――坊ちゃんの考えが正しいと仮定した場合、現段階で政府の職員が駅に到着するのは難しいでしょう。何せ、トラビカからンノーまで五時間以上かかりますからね」


 ハヅキは落ち着いた声で答える。

 政府がエルトゥスの要請後すぐに対応したとしても、列車の運行はどうにもならない。もしかしたらンノー行きの特急列車には乗れるかもしれないが、ンノーで足止めをくらうはずだ。

 それを踏まえると、迎えの者がフラッタに到着するのは、ンノー発の始発から一時間半後。夜が明けてからということになる。


「もちろん、政府の要請を受けたンノー分所の研究員が迎えにくる可能性もありますが……政府としても信頼できる者に任せたいでしょうからね。模造骸骨レプリカ・スケレトスの存在が明らかになっていない今、職員が到着するまでフラッタ駅付近の目立たない場所で待機するよう指示するのではないでしょうか」

「……そうだね」


 筋が通った仮説に納得していると、ハヅキが言った。


「では、早速確認してまいります。坊ちゃんは待機してください」

「え、いいよ。ボクが行く」


 ハヅキに電話したのは、行動するために必要な力を与えてもらいたかったから。

 情けない言い方をすると「信頼しているハヅキに背中を押してもらいたかったから」だ。

 それはきっと、ハヅキも理解しているだろう。

 だが。


「いえ、私が向かいます」


 ハヅキは、ノアの外出を、よしとしなかった。


「いくら田舎町とはいえ、夜中の外出には賛同できません。――年齢を理由にするのは好きではありませんが、たとえどれだけ低い確率だとしても、坊ちゃん未成年を危険な目に遭わせたくないのです。分かっていただけますね」

「…………」

「それに、私であれば車を運転できます。坊ちゃんが向かうより遥かに効率的。そうでしょう?」

「……うん」


 ハヅキの言い分はもっともだ。

 ノアは素直な返事をし、尋ねた。


「だけど……ハヅキ、今日も仕事でしょ? いくら車で行くっていっても結構時間かかっちゃうよ」

「確かに仕事はあります。――しかし、こんな時間に電話をかけてきた方の台詞ではありませんね」


 ハヅキがきっぱりと言う。

 これ以上ないくらいの正論に押し黙る。

 と、受話器の向こうから楽しげな笑い声が響いた。ハヅキにはめずらしい、快活な笑い方だった。


「迷惑だと言っているわけではありません。坊ちゃんも随分変わったものだと思っただけです」

「変わった? ……ボクが?」

「ええ」


 驚きを滲ませたノアに、ハヅキは優しい声で肯定する。


「以前の坊ちゃんなら、こうやって電話をかけることはなかったでしょう。それは私に遠慮しているからであり、同時に、私を頼るという行為を恥じていたからでもあったと推測します」


 ハヅキの推測は的確で、頬が熱くなる。

 それでも、自分のことを見てくれていたからこその推測だと思うと嬉しかった。


「そんな坊ちゃんに対して『子どもらしくない』と言う人間は少なくありませんでしたが、私が坊ちゃんに『変わってほしい』と思ったことは一度もありませんでした。それどころか、上辺や数字の羅列しか見ようとしない社会に合わせて変わる必要はないとも思っていました」

「ハヅキ……」


 そんなふうに思ってくれていたなんて知らなかった。

 驚くノアに、ハヅキは自らの想いを伝え続ける。


「ですが――エルに出会って、坊ちゃんは変わった。家族以外の人間には頑なに頼ろうとしなかった坊ちゃんが他人に頼ってもいいのだと考えるようになり、己の弱さだと捉えていた部分を多少なりとも他人に見せられるようになった。その変化を善悪で判断することなど誰にもできませんが、私個人としては、好ましい変化だと思っています。――ですから、坊ちゃん」


 頼っていただいた分の働きはしますよ。

 そう言って、ハヅキは微笑んだ。もちろん顔は見えなかったが、ふっと笑う気配を感じたのだ。


「……ありがとう」

「その言葉はエルが見つかったときまで取っておいてください」


 気恥ずかしいような、それでいて泣き出したいような気持ちで礼を言うと、ハヅキらしい律儀な言葉が返ってきた。

 それから少し間を開けたハヅキは、優しい声の中に毅然とした響きを混じらせて言った。


「ただ、坊ちゃん。これだけは忘れないでください。――エルが何を考え、どのような結論を出そうと彼の自由です。坊ちゃんであろうと国であろうと彼を従えることはできません」

「うん……。ちゃんと分かってるから、大丈夫」

「結構。確認してまいりますので、坊ちゃんは温かい飲み物と共に自宅待機を。三十分から一時間後を目安にそちらに向かいます」

「分かった。……頼んだよ、ハヅキ」

「お任せください。それでは」


 仕事モードの声が聞こえた直後、電話は切れた。ハヅキのことだから五分と経たないうちに支度を整えて車を出すのだろう。


 ミルクティーを入れたノアはソファーの定位置に腰かけ、冷えた手をカップで温める。

 砂糖多めのそれは震えそうになる体を優しく宥めたが、住み慣れたリビングの広さを感じさせないだけの力は持ち合わせていなかった。

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