5:世界で一番綺麗な光景

 道の周辺に立ち並ぶ家々を星灯りが照らす中、二人分の影が田舎道に落ちている。

 墨色一色に覆われた世界は寝静まっていて、まだ活動を始める気配はない。


「もうちょっとだよ」


 舗装されていない道を古めかしいデザインのカンテラで照らしながら、ノアは声をかける。


 日の出前の世界を歩くこと十五分。ノアとエルトゥスは海へと向かっていた。フラッタは海に面している部分が多く、二十分程度歩けば、ノアの家があるミシサジ地区からでも到着できるのだ。

 フラッタ市の端に位置するミシサジ地区は、道路に設置されている街灯数がかなり少ない。日が沈むと田畑や用水路に誤って落ちてしまうほど辺りが暗くなるため、夜間出歩くには携帯式の灯りが必要不可欠だ。


「ノア……本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。ばっちり隠れてるから」


 身を縮めて歩くエルトゥスに対し、ノアは自信たっぷりに答える。


 「がいこつであるエルトゥスを連れて外出したい」。そう願ったノアは自宅にある服をあれこれ引っ張り出した。理由はもちろん、がいこつの体を隠すため。

 胴体はそれほど難しくなかった。生前フェンネルが着用していたフード付きコートを着せるだけでよかったからだ。

 コートから覗く手足も、イオが使っていた手袋とショートブーツで問題なく――どちらも大きすぎたため、手首を紐で縛ったり冬用靴下を重ね履きしたりしてサイズ調整する必要はあったが――隠すことができた。


 ただ、一つだけ難所があった。「顔」である。


 エルトゥスの視野はヒトと同じ、、、、、であり、骨の顔を隠そうとすると視界がごく限られてしまうのだ。

 これではマフラーやフードで誤魔化すことができない。ノアとエルトゥスは散々考えを巡らせ、最終的に、件の地下室にあった収集品を使うことにした。

 それが、今エルトゥスが身に着けているもの――『鳥の頭を模した嘴付きの仮面マスク』だ。

 この仮面マスクとフードを併用することでエルトゥスの頭部は完全に覆われ、なおかつ視界も確保することができる。薄暗く人気ひとけの少ない明け方に出かけるには十分な仕上がり具合だと言えるだろう。


「確かに、顔は隠れてるかもしれないけど……」


 不安げに返事をしたエルトゥスは、嘴の部分を撫でながら尋ねる。


「不審者じゃない? 僕」

「まあ……怪しいか怪しくないかで言うと、怪しいけど」

「えっ」

「でも、ボクと一緒だから大丈夫だよ」


 驚きの声を上げたエルトゥスにノアは言う。

 この辺りでボクに関わろうとする人はいないから、と。


 「田舎の大半は閉鎖的かつ排他的である」――。幼い頃に現在の家へと越してきたノアは、そう考えていた。

 事実、フラッタの中でも田舎のミシサジ地区は、閉鎖的で排他的な地域だった。

 そして、アングレカ家はミシサジに暮らす者にとって完全な余所者だった。越してきて農業をするならともかく、フェンネルの職業は貿易商で、田舎にありがちな「挨拶がてら交換する農作物」もない。


 それでも、フェンネルとイオは努力を欠かさなかった。常日頃から挨拶を心がけ、区の集まりにも積極的に顔を出し、米や野菜を貰えば菓子折りを持って礼に赴いた。

 その努力が実ったのだろう。「余所者」という立場こそ変わらなかったものの、アングレカ家は冷遇されることなく暮らせる程度の友好関係を築くことができた。


 ただ――ミシサジに馴染もうとせず、先祖代々土地を守って暮らしてきた自分たちに頭を下げようとしないノアに関しては、少し事情が違う。

 「フラッタの天才児」として知名度の高いノアを排除することはないが、事故で一人残されたノアの力になることもない。

 フェンネルとイオの葬儀以来、彼らはノアと接していない。ただの一度たりとも。


「ノア……ご近所さんと仲良くないの?」

「仲良くないし、仲良くしたいとも思わない」


 ノアがきっぱりと言う。


「自然に囲まれるのは好きだけど、田舎の排他的な空気は大嫌いなんだ。皆はボクのことを『子どものくせに捻くれてる』って言うけど、ボクからすれば『いい大人のくせに捻くれてる』のはそっちだと思うんだよね。……あ、見えてきたよ」


 何か言おうとしたエルトゥスを遮って、ノアはカンテラを掲げた。

 緩やかに曲がった道の先にはフラッタ中央部へと通じる幅広の舗装された道路があり、設置間隔が若干狭まった街灯の向こうには水平線が広がっている。


「こっちだよ」


 もう海は見えているのに一体どこに行くつもりなのだろう。そう言いたげに辺りを見回すエルトゥスを促しながら舗装された道路を渡り、奥側に設けられた歩道を歩く。

 街の中心部方向に一分ほど進んだノアは、歩道左脇に現れた階段をカンテラで照らした。


「ここを下りて。あ、暗いから気を付けてね」


 足元を照らしつつ、エルトゥスと階段を下りる。コンクリート階段の横幅は狭く、二人並ぶと少し窮屈だ。


 二メートルほど下った先にあるのは、小さな広場のような空間だった。レンガ調の舗装がなされた半円形状のそこには街灯がなく、円周を覆うように木製の防護柵が備え付けられている。

 防護柵の向こう側では黒い波が寄せては返し、その上空では鈍色の雲がゆっくりとした速度で流れていた。


「ここ、ボクの好きな場所なんだ。人も来ないしね」


 ライトグレーの地面をカンテラで照らし、柵の前まで歩きながら、ノアは目を細める。暁闇の中で彩度と明度を落とした瞳は遠くを見つめていた。


「静かで気持ちの良い場所だね」


 ノアの右横に並んだエルトゥスが言い、同じように海の向こうを眺める。


「心が落ち着く気がするよ」


「でしょ? お気に入りの場所だからエルにも見せたくて」

「ありがとう。……でも、どうしてわざわざ明け方に来たの? 目立つのを避けたいなら、ごはんを食べた直後でもよかったんじゃ……?」

「理由はすぐ分かるよ」


 微笑んだノアはカンテラの灯りを落とすと足元に置いた。

 道路沿いに設置された街灯の灯りも二人がいる場所までは届かず、辺りは暗闇に包まれる。


「どうして灯りを落としたの?」

「見せたいものがあるんだ。もうすぐだから、空と海の境目を見てて。仮面マスクも一旦外していいよ」

「うん……分かった」


 見せたいものとは何だろう。船でも通るのだろうか。

 ノアが言う「見せたいもの」が分からないエルトゥスは首を傾げたが、ノアの指示通り仮面マスクを外し、念のためにフードを深く被った。

 沈黙が落ちた空間の中、寄せては返す穏やかな波の音だけが心地良く響いていく。


「……あっ」


 一体どれくらいの間、空と海の彼方を眺めていたのだろう。

 ノアに促されるがまま水平線を眺めていたエルトゥスは、思わず声を上げた。鈍色の雲が漂うだけだった墨色の空が、僅かに明らみ始めたのだ。

 水平線付近の空は紫がかった青へと色味を変えていき、黒に塗り潰された世界は瞬く間に明るくなっていく。上空を流れる鈍色の雲も輪郭が照らされ、厚みや形状がはっきり分かるようになっていた。


「わあ……!」


 眼前に広がる光景に――自らを照らす眩い光に、隣から聞こえる声が喜びに弾む。

 水平線の縁を燃やすように彩る朱色の帯と、赤紫の光に輪郭を照らされた厚い雲、刻一刻と映りゆく空の色を一部反映させながら静かに揺れる水面。

 近くて遠い海の向こうでは、エルトゥスにとって初めての朝日がゆっくりと昇り始めていた。


「これを見せたかったんだ」


 水平線の上へと姿を現した太陽を見つめたまま、ノアが呟く。


「夜明けを見るのは初めてでしょ?」

「うん。……すごく綺麗だった」


 骨のおもてを照らす眩い光に、エルトゥスは感嘆の息を吐いた。――実際には真似事だが、自然とそうしたい気持ちになっていた。


「もしかしたら、世界で一番綺麗な光景かもしれないね」

「その判断は早すぎるんじゃない?」

「ううん、そんなことないよ」


 首を少し傾げて、エルトゥスは笑う。


「きっと、そんなことないと思う」

「そうかなあ。……ま、この世界を知っていけば一番も更新されていくでしょ」


 肩を竦めたノアは「そろそろ帰ろうか」と告げ、置いていたカンテラを手にした。

 日が昇った世界は急激に明るくなり、すれ違う相手の顔も判別できる状態になっている。農家の人々はそろそろ仕事を始めるだろうから、あまり遅くなると途中で鉢合わせするかもしれない。

 もちろん、会ったところで詮索させるつもりはないが、「気に入らない」という理由だけで他人を排除しようとする輩の目にエルトゥスを触れさせたくはなかった。


「ねえ、ノア。ちょっと待って」

「ん?」

「僕に名字を付けてくれない?」


 正体を隠す仮面マスクを抱え、明るくなった海を眺めたままのエルトゥスが唐突に申し出る。


「名字って……なんで?」

「世界で一番綺麗な光景の思い出を形で残したいんだ。名字なんて僕には不要なものだけど……模造骸骨レプリカ・スケレトスなら勝手に名乗っても怒られないでしょう?」

「まあ……確かにね」

「それに、知識量の多いノアが付けてくれたら素敵な名字になりそうだからね。よかったら考えてもらえないかなって……」


 理由を説明したエルトゥスはノアに視線を移した。眼球を持たない眼窩はノアをまっすぐ見つめている。


「……それなら考えてもいいけど」


 仕方ないなあと言いたげな視線を向け、ノアは了承する。下心なしで頼み事をされることなど滅多にないから、信頼のもとに「お願い」をされると面映ゆくて堪らない。


「そうだなあ、夜明けに関係する名字なら……」


 日が昇った海に視線を向け、考えを巡らせる。

 長く掛かるかと思われた命名は、海が三度満ち引きを繰り返す間に終了した。


「……アサラ、っていうのはどう?」

「アサラ?」

「本で読んだことがあるんだけど、東のとある国では夜が明けることを『アサラ』って呼ぶらしいよ」

「アサラかあ……」

「名字に使用されてるとは書いてなかったし、誰かと被って後々揉めることはないと思う。……どう?」

「エルトゥス・アサラ。……うん、いいね。さっき見た夜明けみたいに綺麗な響きだし」

「そっか。――じゃあ、これからエルは『エルトゥス・アサラ』だね」

「うん」


 嬉しそうに答えて、エルトゥスは微笑む。

 目深に被ったフードと首の合間、眩い陽の光に曝された白い骨がきらりと輝いて、ノアの目にはとても美しく映った。

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