撓Ⅳ
楼閣を飛び出すと、冬の夜風の冷たさが頬を切った。
冷たい。
でもその冷たさこそが、いまの自分を繋ぎ止めている。
それがわかって、ようやく、息ができた。
草履が土を、草を踏む音が、風の音が、心臓の荒い音と混ざって吹き荒れる。
大声で叫びたくなった。
でも実際のわたしは、声もなく、そのまま夢中で、月の裏側まで走るような勢いで走った。
――ひどいひと。
そんな風に、彼への呪詛を心で吐きながら、ただひたすらに。
そうして家まで辿り着いて、玄関に鍵をかけると、わたしはそのまま、その場で扉を背にへたり込んだ。
乱暴に髪を解くと、滝のように肩に流れ落ちる。
髪からはもう、冬の夜の匂いがした。
二の腕に爪を立てるように、自分の身体を抱きすくめながら、ブルブルと震えた。
歯の根が合わないのなんて、いつぶりだろう。荒く吐き出す息に、ようやく自分の体温を感じる。そして、震える腕の中で、わたしは生きていると思えた。
そう。
やっぱりわたしは、もう、彼以外の誰かに、触れられたくない。
それが残酷なほどに、わたしという存在に刻まれていたのがわかった。
――憎い。
わたしには、分かってしまった。
かつて、彼に取り残された人たちの気持ちが。
以前、彼から無理に昔の話を聞き出して、分かったことがある。
彼に愛されたのは、純真な女の子ばかりだった。
わたしには到底信じられないような、物語の中でしか知らないような、初心な女性たち。
そして彼は、そんな彼女らを、純真なままにした。
普通ならすぐに乱暴に引き抜かれて、散らされる花に、土を寄せ、水をやり、大切に愛したことが、聞いていて分かった。
そして、彼がそんな女性たちと袂を別った〝罪〟の記憶を聴かされたとき、共感しながらも、どこかで思っていた。
それはきっと、彼が夢見がちで、内省的に過ぎるせいなんだと。
彼が、必要以上に重く捉え、自分を責めているだけなんだって。
恋なんて、人間なんてそんなもの。
自分に合う靴をあれこれ試して、試行錯誤して、傷つきも傷つけもして、生きていく。
それが普通。生きていくためには、鈍ることも必要。
でも彼はそれに反抗して、認めずに生きてきた。
彼からすれば、それはきっと、飢餓の国に生きる人間が、飽食の国を眺めるような感覚だったのだろう。
ある人には「当たり前」として消費されていく恋が、彼にとっては眩しく、同時に吐き気を催すような光景だった。
それはきっと、彼の成育歴に強く影響を受けている。
だから、自分がどれだけ真剣に、相手を愛するかばかり、考えて生きてきた。
そんな彼に共感して、それこそ眩しく感じる自分を感じると同時に、馬鹿なんじゃないかと思っている自分もいた。
罪の意識に、自ら赤い雷を身に刻むなんて、どうかしていると。けれど、どうかしているからこそ、彼なのだ、とも。
わたしのそんな気配を察したのか、ある夜、彼は言った。
『貴女は魅力的だから、きっと傷つく権利を与えられてしまったんですね。神様に愛されてしまった。美しく、残酷なことに』
我ながら無神経な言い草だと自嘲する彼に、わたしは、なんて返すべきか分からなかった。
でも、ちがう。
傷つく権利というなら、多分彼も、授かってしまった。
彼は、ただしく痛みを感じ取っていたのだと思う。
自分が、相手に与えた痛みの大きさを。
その悲痛な声や……表情から。
誰かを愛せてはじめて、自分には価値がある。
それが、彼が生き延びるために選んだ、生き方だった。
その意味で、その愛は彼自身のためのものでもあったのだろう。
彼は言っていた。かつての自分は、相手を自分に依存させようと仕向けていたのだと。
懺悔するような顔で。
それは歪んだ自己愛の変奏と言えるのかもしれない。
でも同時に、彼にとっての倫理であり、誠実でもあった。
だからこそ、一度愛すると決めた女性を自分の都合で捨てることは、自己否定そのものだったのだと思う。
そんな彼を裁くことなんて、わたしにはできない。
それに彼は、そこで気づいた。相手を鏡にすることの罪や、歪みを。
だから、彼は葛藤し続ける。矛盾を抱え続ける。
共に、歩むために。
重く、熱く、軽やかに、涼やかに。
その間で揺らぎつづけようとする。
たぶん、わたしにとっては、それが愛だった。
毎日やさしく包まれて、甘やかされて、甘やかさせてもくれて。
気まぐれにも、天邪鬼にも、我慢強くつきあってくれる。
それが当たり前になっていく。
でも、あるとき急に、それを根こそぎ奪われたら……?
そんな自分の惨めさを想像しただけで、背筋が冷えた。
そして、きっと、つい思ってしまうのかもしれない。
そんな痛みをもたらした元凶がいるのなら……
――しねばいいのに。
そう、誰かが思ったとしても、わたしには、責められない。
その言葉は、当時の彼にとって、悪意や憎悪などではなく、祈りに聴こえたのだという。
彼女はそのとき、震えながら、微笑んですらいた。
哀切に満ち、縋るような響きを伴って、彼の記憶に刻みつけられているのだと。
でも、今回その喪失をもたらしたのは、ほかならぬ彼自身。
理由はわからない。でも、彼が、彼を奪った。
それは確かなこと。
なら、わたしは、誰を呪えばいいの……?
……彼?
そうね、確かにわたしはもう既に呪っているのかもしれない。彼のことを。
でも同時に、わたしは、彼じゃないとイヤ。
その気持ちは、たぶん、呪いだけじゃない。
耳鳴りがして顔を上げる。
暗く冷えた玄関で、わたしが息をする音だけが響いている。
それはわたしに、あの雷雨の日のことを思い出させた。
わたしは不安になると、つい彼に確かめる癖があった。
あの、雷雨の夜もそう。
一緒に、喋る鯖の身をつついた日もそう。
――わたしで、いいの?
そんな風に問うと、彼は、いつも微笑んで言ってくれた。
わたしがいい。わたし以外、考えられないと。
わたしだって、同じ気持ちだった。
でも……
一度でもそれをちゃんと伝えたことがあった……?
伝えているつもりだった。
態度で、まなざしで、指先で、全身で。
……一度だけ、言葉でも。
それは、鮫のように、互いを喰らいあうように愛し合った日の夜。
わたしは、わたしの渇きを嗅ぎ取った彼を繋ぎとめるために、必死だった。
――わたしはもう、あなたでないとダメ。
――体に、心に、あなたのカタチが刻まれてしまっている。
きっと、言い訳に聴こえたのだろう。
あるいは、お為ごかしか、母性に見えたのかもしれない。
わたしが彼のために、そう
確かに、そういう気持ちがなかったわけじゃない。
だってそれは、わたしがわたしを守るための殻だから。
……伝わってなかったんだ。
そのときはもう、彼の頭は、わたしを安心させることで一杯で。
わたしの声は、きっと心の奥にまで届いてなかった。
彼は、変わらず、代替品の気持ちのままだったんだ。
わたしを受け止めることに心血を注いで、わたしの期待に応えることに精一杯で。
わたしが渇きを癒すための、代替品。
そうすることで、ようやくわたしの傍にいられる。
……彼にとっては、きっとそうだった。
どうして、わたしは、もっと言わなかったんだろう。
あんな風に追い詰められる前から、もっと自然に。
伝わってると思っていたから……?
言葉にすると、言葉に縛られる気がしたから……?
それもあるのかもしれない。
でもそれ以上に、言葉にするのが、怖かった。
あなたがいい。あなたじゃなきゃダメだなんて。
そんなこと、言葉にして、徴にしてしまうわけに、いかなかった。
――こわい。
そんな風に寄りかかってしまったら、失くした時に、どう立ち直ればいいの?
崖際に追い詰められたような気持ちになる。
それに、そうしたら彼は、もっと自分を削ることになるんじゃない?
そう、思った。
でも、彼にはそれこそが必要だった……?
……きっとわたしは、拭ってあげることができなかったんだ。
自分は代用品だって、誰かを支えられる自分にしか価値がないって、そんな彼の呪いを。
自分の存在、言葉……すべてはただの苦さの埋め草に過ぎないんだって……。
傷を負ったわたしが、そろそろと手を伸ばした、都合のいい、慰みなのかもしれないって。
彼の母が、彼を、慰みとしたのと、同じに。
それは、搾取、なのかもしれない。
彼は、男たちと、わたしによって、二重に
もちろん彼は、きっとそんな風には思わない。
わたしの痛みに、自分はつけ込んだ――そんな風にすら、考えるかもしれない。
でも、彼はちゃんとわたしを見てくれた。そんな彼が、わたしは……本当に、だいすきだった。
彼はいつだって、受け皿として生きてきた。
色んな人の、哀しみや、渇きや、焦がれ。
そういうものをすごく敏感に、そのまま受け止めてしまう。
でも、彼には分かってなかった。
多くの人にとっては、そんなのは恐怖よ。
自分の弱さや、負の感情を、覗かれるなんて。
でも、彼はそういうふうに歪められてしまった。
だから、穏やかで優しいだけの日々では、存在が霞んでしまう。
痛みの中でしか、息の仕方を知らなかった。
抉られた深い亀裂の奥の渇きを満たすには、同じ深さの、誰かの溝を埋めるしかなかった。
そういう呪いを負っていた。
だから、紗季さんでは本当はダメだった。
彼女はきっと、彼を受け入れることはできても、差し出す痛みを持っていなかったから。
でも、彼は彼女を喪い、そしてわたしという新しい痛みに触れてしまった。混沌が訪れた。
軽やかに愛せる人を、彼はときどき憎んでいた。
それを聞くたび、苦しくも、愛おしかった。
彼の愛は、重く、痛みにまみれて、でも真実だった。
それをわたしは、求めてしまった――。
軽やかな恋の物語をみたときの彼は、俯いたまま笑っていた。
わたしはその横顔を見て、胸の奥がひりついた。
彼は、わたしが抱えていた傷の深さを埋めるのに、自分では足りないと、そう感じていたみたいだった。
そのこと自体が、彼を深く抉った。
もちろん、痛みに比較級はない。
でも、彼にはそう感じられた。
それだけが――彼にとっての現実。
わたしは、誰かに〝届かれる〟のが怖かった。
わたしは、ずっと誰かに踏み込まれて壊されてきた。
だから、わたしは誰にも踏み込ませないようにした。
わたしを気に入ってくれる人に、ありがとうと笑い、
わたしを深く知ろうとする人を、そっと遠ざけた。
それでも、彼は――
わたしの境界を越えようとはせずに、ただ寄り添い続けてくれた。
……ううん。
一度は彼も、踏み越えた。
だから、わたしも、拒絶した。
そこで終わるはずだった。
でも若菜が、わたしにそれを許さなかった。
ちゃんと、手を伸ばせって。
そう、叱ってくれた。
自分だって、彼のことが、好きだったのに。
……いいえ、だからこそ、ね。
気づけば、わたしは全身汗でびっしょりになっていた。
こんなにも自分のことを考えたことなんて、いままであっただろうか。
根暗な彼の癖が、
肌に張り付いた襦袢が、冷たい。
わたしは急いで装束を脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。
服を楼閣に置いてきてしまった。
ドライヤーで髪を乾かしながら、そんなことをふと思い出す。
明日、取りに行かないといけない。
……面倒だな。でもあれは、お気に入りだしな。
皆にも、きちんと謝らないと。
体が温まったせいだろうか、急に現実的な思考に引き戻される。
――ストール。
あれだけは、ちゃんと回収しないと。
ガウンを着て、寝室でラップトップを広げる。
(……あれ?)
彼から引き継いでいた、小説投稿サイトのアカウント。
そこに、知らない作品がアップされていた。
わたしが知らないなら、それをした人物は、ひとりしかいない。
恐る恐る、掲載されている作品を開く。
怖かった。それでも、自分の指を止められなかった。
ひとしきり読み通して、わたしは、顔を覆う。
僅かな間、わたしは、息を忘れていた。
そこには、わたしに向けた言葉が、星屑のように散りばめられていた。
もちろんはっきりとは書かれていない。
でも、伝わった。
わたしだけに分かる符牒で、彼は伝えようとしているのが、分かった。
『僕は貴女を忘れていない』
そんな想いが、滲んでいた。
わたしはそっと、ラップトップを閉じた。
見ていられなかった。
だって、どんな風に受け取ればいいか分からなかった。
勢い、アカウントを消してしまおうかとすら、思った。
でも……できなかった。
温かさと、同じかそれ以上の恐怖が、胸の中で煙のように
その煙が目に染みて、つい、涙が零れた。
それからなぜか、鼻の奥で、ラベンダーの香りがした。
「……どういうつもりよ」
それはたぶん、半分は呪いで、半分は祈りの言葉だった。
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