撓Ⅲ
――少し、痩せただろうか。
月明りに照らされた居間で待っていた養父の和夫さんの姿が、わたしを言い知れず不安にした。
虫の声も、以前に比べて随分とか細くなった気がする。
彼は勘のいいところがあった。
奥さんの房枝さんを通じて、わたしが相談したいと伝えたのを聞いて、きっとなにか察するところがあるのだろう。
眼鏡の奥から覗く瞳はいつもながら鋭かった。
それでも、ここ数ヶ月で急に翳りを見せたように思う。
わたしは膝の上に置いていた手の片方を畳みに垂れ、なにかを探した。イグサの隙間にある、なにか温かいものを。でもそんなものは、どこにもなかった。
「お役目に……戻ろうと思うの……」
彼は身震いひとつせず、ただぐってりと艶をなくした眼球が、じっとこちらを見つめているだけだった。
「燈子と、すみれは、なんと……?」
わたしが黙っていると、彼は諦めたように月の方を見やりながら、髭を撫でた。
それから、「そうか」とだけ言うと、そのまま項垂れるように動かなくなった。
どれだけ時間が経っただろうか。
どこからか漂う香と、庭の土の匂い、家屋に染みついた木の匂いとが混ざりあって、自分の輪郭が引き伸ばされ、曖昧になっていた。
彼が膝を打つ音で、現在に引き戻される。
「あいわかった」
わたしはなぜか、少し落胆している自分に気がつく。
でも、これでいいのだとも思った。
「まだ、皆には言わないで。一度、馴らしをしてから、決めたいの。……わたしにも、まだ務まるのか」
彼は、分かっていると言わんばかりにひとつ頷いただけだった。
ここにはもう、わたしが知っていたものは、何もないのかもしれない。
わたしは座布団から立ち上がる。
頭を下げ、去ろうとしたとき、彼が何かを呟いた気がした。
よく聞き取れなかった。
でも、「もっと、どうにかならなかったのか」
そう、言っているような気がした。
袖を通してなかった時間はそう長くなかったはずなのに、
わたしたちの代になる以前、村の
巫女への、言い訳も。
薄っすらと憶えている、母の姿。
あの頃は無邪気に、綺麗だと思った。
白絹の小袖は金銀の糸が煌びやかで、襟元や裾には、花や鳥の刺繡。
「花鳥風月というのよ」と、母が教えてくれた。
肩から羽織る
髪飾りの緑色の石が綺麗で、強請った記憶がある。あれはきっと緑花石だったのだと思う。
草履の鼻緒には鼈甲細工の帯留め。
まさしく、
でも、内紛を見てきたわたしたちには、全部嘘っぱちに見えた。
だから、簡素にした。
その代わり、特別上質なものに。
無地の
ただ、村で僅かに伝わる手挽き糸をつかった上質の絹と、清流にさらした麻布で丁寧に織られている。
地模様はごく淡く、織り込まれた浅い波と霞の模様が、光の加減でかすかに浮き上がる程度に。
首元と袂にだけ、
伝統的な
茜や蘇芳で時間をかけて染め上げられる。
装飾的な刺繍や房は排されたけれど、縫い糸はきちんと生地色に溶け込ませてある。
布端には粗布で丁寧にくるみを施し、長く着古しても型くずれしない。
まぁ、このあたりは全部、燈子の受け売りなのだけど。
(……燈子)
*
ここまで来る途中の道で、彼女に会った。というか、待ち伏せされていた。まだ青々とした、麦畑の前で。
お互いに気づいたそのままの距離で、ただじっと見つめあった。
燈子は、何度もなにかを口にしようとしては、言葉になる前に、畦道に零しているようだった。
「それが本当に、文乃ちゃんが望んでることなの……?」
それはどこか、少女時代に戻ったかのような。そんな声だった。
どこにも出せずに、心の奥の
「燈子には、自分の望みが見えるの……?」
小さく、息を呑んだように見えた。でもすぐに、きゅっと唇を結ぶと、挑むようにしてわたしを見た。
こういう時の燈子は、本当に月の精霊みたいだと思った。
南西に傾いた、上弦に僅かに足りない月に照らされる燈子は、綺麗だった。
「いまは、見えるわ」
その毅然として淀みのない声に、なぜだかほっとした。
さっきまでの少女は、もうどこか風に吹かれて消えてしまったようだった。
わたしは笑ってみた。
うん、笑える。
そのまま、楼閣へ向けて、改めて一歩を踏み出す。
すれ違いざま、燈子の声が耳に入る。
「……いまさら、虫のいい話よね」
それが、燈子自身のことを言ってるのだと分かった。
燈子がむかし、投げ売り同然に自分を擦り減らしていたわたしを止められなかったことを、密かに悔やんでいることを……わたしは知っていた。
そんなことを言わせてしまった。そう思うと、後ろ髪を引かれた。
わたしは、彼女を側面から、そっと抱擁した。
彼女は震えていた。
「……元通りになるだけよ」
彼女がわたしの袖に顔を埋める。
嗚呼、わたしはいま、月の涙をこの身に受けている。
彼女の髪が頬に触れる。
涙に濡れた袖から、ほんのりとラベンダーと石鹼の香りが立ちのぼった。
昼の畦道の乾いた匂いと、彼女の肌の温かさが混ざって、風に揺れる紫の穂の奥に、ひとつだけ灯った小さな火を抱きしめているようだった。
強くて、美しい、大切な、燈子の
「……文乃ちゃんは、私とはちがう」
その嗚咽交じりの声の裏にある感情は、誇りだろうか。諦念、だろうか。
きっと、言葉にすれば、死んでしまう震えたち。
光を浴びれば、崩れてしまう、儚いもの。
そういうものを、いま、わたしたちは共有している。
それだけで、もう十分。
わたしは最後に、彼女の目尻に、そっと唇をつけた。
海の匂いがした。
また、すみれに怒られてしまう。
そう思いながら、今度こそ、わたしは目的の場所に向かった。
*
「よー似合ってらわね」
着付を手伝ってくれたトキさんが、わたしを見て言う。
それは赦しだった。
禁じていた渇きに、ただ一滴の水を注ぐような。
罪ではなく、願いとして応えてもいいのだと。胸の奥がほどけていくような気がした。
それまで重かった足取りは、誰かに背を押されたように進んだ。
あの声に従えば、間違いではないと思いたかった。
それは彼と、トキさんの声。
村の皆がどう思うかは知れない。
それでも、ふたりが願ってくれるのならと。
そうすれば、少なくともふたりを裏切らずに済むのだと。
楼閣の軋む階段を上った先、男たちが座して待っていた。
彼らの前に立つと、一様に深々と座礼をする。
そこから先のことは、あまりよく覚えていない。
ここに来ると、いつもそうだった。
独特の匂いと空気に、僅かに眩暈がする。
身体が憶えている儀礼の手順を、無心でなぞる。
そして、いよいよトキさんがわたしの千早を脱がせる。
隅の椅子に、監視役として和夫さんが座っている。
なにも、変わらない。
視線の先、
そしてその少し脇に、「彼」もいた。
彼は、微笑んでいた。
いつも通りに。
胸の奥に、冷たい石を詰められたような気分がした。
喉の奥からせり上がる空気が、体中の水分を押し上げているみたいだった。
鳥肌が立ち、それまで温かかった白衣が急激に不快に感じる。
儀礼の補助をする役の
たぶん彼なりに、呼吸の浅くなっていたわたしを、落ち着かせようとしてくれたのだと思う。
――違う。
――この重さじゃ……ない。
気づくと、わたしは
すこしだけ、驚いた表情をしていた。
でもたぶん、わたしはそれ以上に動揺していた。
ゆっくりと周囲を見回す。
トキさん……和夫さん……男たち……
笑っている。いや、
わたしは、本当に性格が悪い。
でも、思い出せた。
彼の指先は、もっと迷うように、でも確かに、そっと支えてくれた。
矛盾を孕んで、それでも、だからこそ――誠実で、安心できる――そんな重みがあった。
口の中に、あの夜の血の味が甦る。
わたしが噛んだ、彼の肩の、血の味。
「……違う。あなたは、彼じゃない……!」
彼の表情がぐにゃりと歪む。そしてそのまま、ゆるい寒天のように、その場で溶けた。
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