焔Ⅰ


 朝。ひやりとした空気を頬に感じて、薄く瞼を開ける。

 この時期、わたしはあえて空調をゆるめる。

 朝の清廉な空気が好きだし、温かいとぐずぐずしてしまうから。

 

 霜がまだ地を這うように残るころ、掛け布団を丁寧に畳む。

 白湯をひと口すする。


 冷たい水で洗面を済ませ、髪を結い上げる。

 朝の輪郭が身体に重なり、ようやく目覚め始める。

 鏡の向こうに映る自分の顔に、軽く手のひらを添えてみる。

 今日も、ちゃんと、わたしだ。


 朝食には野菜のポタージュと、黒パンを焼いて。

 スープを温めているあいだに、豆を挽く。

 ゆっくりと、手回しのミルを回す音が、まだ眠たげな家の空気を震わせる。

 苦味は、少し強めに。ハンドドリップで加減して。

 お湯を注ぐと、粉がふわりと膨らむ。豆がほんの少し、ことばを発するように。

 この時間も、好き。

 

 テーブルには、昨日剪ったばかりのローズマリーが、ガラスの瓶に挿してある。

 かすかな香りが、コーヒーと混じりあう。

 うん、今日も、上手に淹れられた。

 

 音楽はかけない。窓の外の鳥の声と、柱時計の律動。それで十分だから。

 掃除をしながら、ふと鼻歌を口ずさんでいた自分に気づく。

 なぜか少し、目の奥がつんとして、笑う。

 窓を開けると、山の風が吹き抜け、寒さとともに草の匂いを運んでくる。


 庭に出る。

 昨夜の霜が、木々の葉の縁に銀をまぶしたように残っている。

 軍手をはめ、剪定鋏をもつ。そのままにしていた、紫陽花の枯れ枝を落とそう。

 乾いた音を立てて切れた。


 やがて、手を止めて天を仰ぐ。

 自宅の屋上に据えた小さな天文台――その白いドームが、薄い青空にすんと融けていた。


 見上げるたび、思う。

 彼が去ったあとも、空は続いているのだと。


 隣の畑の縁を、枯れ草色の猫が歩いていた。

 家の前を掃いていると、近所の子どもに「こんにちは」と声をかけられる。

 ――いつもの、日常。

 

 

 

 室内は、ほんのりとした甘い香りに満たされている。

 バターとアーモンドパウダーをすり混ぜた生地を、わたしは小さく丸めては、並べていく。

 ひとつひとつ、大切に。

 

 大きさがそろっているのは、習い性というより、わたしの気質。

 きっと、もっと不揃いなくらいが、かわいげがあるのかも、しれないけれど。

 

 オーブンの扉を閉め、温度と時間を再確認してから、ほんの少し息をつく。

 焼き始めると、鉄の熱と粉の匂いがゆっくりと室内に広がっていく。

 それがやがて、バターの甘さに取って代わられる。

 縁がうっすらと、琥珀色になるくらいが、ちょうどいい。

 

 焼き上がった球形の焼き菓子は、熱の余韻が残るうちに粉糖を。

 そういえば、そろそろ初雪が降るかもしれない。

 

 網の上で少しだけ休ませ、指の先でちょうどよい温もりを測る。

 おいしく食べて、もらえますように。


 ――わたしの、ブールドネージュ。



 *


 

 焼き菓子を手土産に、午前中のうちに燈子の家に足を運ぶ。

 呼び鈴は鳴らさない。

 木の扉をノックすると、すぐに気配で察したように彼女が迎え入れてくれた。


 今日は彼女のアトリエに続く洋間に通された。

 家の反対の方には枯山水の庭園がある。

 白砂に丁寧な砂紋が引かれ、石と苔、そして静かな風の音が、彼女の奥に仕舞われた、もうひとつの世界を垣間見せるようだった。

 それはそれでブールドネージュに合いそうな気もしたけれど、今日はこっち。

 縁側に面した部屋の一角に北欧風の低いソファと、黒塗りの文机のようなテーブルが置かれている。


 燈子は手慣れた所作で雪玉を大谷石の皿に移す。

 乳白の小皿に三つずつ、粉糖がこぼれぬように丁寧に。


「そういえば、スペインのポルボロンっていうお菓子に似てるのよね、これ」

 

 燈子が、指先に粉糖をつけながら言う。

 

「そっちは、幸せになれる言葉を三回唱えて、崩さずに食べられたら幸せになれるんですって。定番なのは、そのまま、ポルボロン」


 ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン……

 

「むずかしくない……?というか……唱えながら食べるの? 喉につまらせそう」

「そう、しかもポルボロンって、なんか発音しづらいし」


 わたしは、無言でひとつつまみ、つい鼻で笑った。


「じゃあ、こっちは日本版ね。〝しあわせ、しあわせ、しあわせ〟」


 燈子はというと、じぃっと真剣に白いふわふわに視線を送っていたかと思うと――

 

「〝ノンカロリー、ノンカロリー、ノンカロリー〟」


 わたしは口に入れそうになっていたのを止めた。危うく机の上を粉塗れにするところだ。


「やめてよ。笑わせないで」

「……見た目は雪みたいでも、カロリーは勝手に溶けてくれないものね……しつこさは似てるけど……」


 切なげな表情でそんな風に語る燈子に、わたしは笑いが止まらなかった。

 彼女の隣でブールドネージュを食べられるひとは、きっともう、それだけで幸せ。

 わたしたちは粉糖まみれの指先を見比べ、もう一度、小さく笑った。

 ――うん、しあわせ。


 燈子が、彼の失踪に関して小さな引っかかり……罪悪感のようなものを覚えているのは、わかっていた。

 彼が去る直前、彼女は、日々の生活に迷いを見せていた彼を叱咤激励したらしい。ちゃんと、わたしのことを見てあげて、と。

 ……物理で。

 

 もちろん、わたしも燈子も、彼が燈子に感謝こそすれ、恨んだりしていないことは分かっていた。

 でも、彼は責任感が強い。

 そういうことは、理屈ではないから。


 もちろん、彼女は言わない。ひとりでただ、抱えている。

 だから、わたしも、なにも言わない。

 

 ブールドネージュは、しるし。

 ちゃんと、見てるよ。それだけは、伝えたいから。


「最近、彼の残したもの、整理し始めたの」


 燈子の人差し指が、小さく引き攣ったのが見えた。


「あの人、寒さに弱かったじゃない? 寒いのが好きっていう割にね。夜はいつも、リビングで膝掛けを抱えて本ばっかり読んでた……その膝掛け、まだあるの。洗って箪笥に入れてるけど、いつか、自分で使うかなって思って」


 捨てることは、できない。それは、未練とか、そういうことじゃなく――

 

「……ときどき、彼を夢に見るの。ひとり、森の奥で、火に薪をべ続けてる……そんな夢」

「……彼っぽい」

「……うん。暑苦しくって。……本当、やめてほしい」


 そうしてまた、ふっと笑った。

 そう、思い出していい。そうやって、少しずつ馴染んでいく。当たり前に。

 

「……冬が来るのね」

「……うん。ちゃんと、また来る」


 庭石の上に、ひとひら、椿の花弁が落ちていた。


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