白木邸の縁側は、山の斜面に沿ってゆるやかに傾く庭を見下ろしている。

 細く長いその縁には、朝方の霜がすでに陽にとけて、雨上がりの湿った木の匂いがほんのりと立ち上っていた。


 十一月。

 このあたりでは、紅葉ももう下り坂で、欅も楓も、すでにそのほとんどを手放していた。わたしは、落ち葉の上に腰を下ろすような心持ちで、薄く敷かれた座布団にそっと坐った。灰青の空はひくく、けれど、その下に広がる山並みはどこか晴れ晴れとした顔をしていた。


 お屋敷は、大正のはじめに建てられたらしい。

 ところどころにその頃の洋風趣味が混ざっていて、洋間には、祖父の代から伝わる蓄音機がまだ飾られている。ただし、床の間の掛け軸は夏のまま。房枝さんの趣味なのか、それとも、長年の混乱をそのまま受け入れてきた屋敷の癖なのか。


 壁には、白木和夫の父、祖父にあたる人物が残した書や古地図が飾られている。 琺瑯ほうろうの額縁に収められたそれは、村のかたちが今よりずっといびつだった頃のもの。はじめて見たとき、すみれが「あれ、逆さに飾ってるんじゃない?」と真顔で言って、燈子が吹き出したのを思い出す。


「まったく、あの人が倒れたくらいで、みんな大袈裟ね」


 房枝さんがやれやれといった調子でやってきた。それでも、その声はすこし、滲んで響いた。


「……思ったより、元気そうで安心しました」

 

 手渡されたほうじ茶の湯呑みの熱が、手の平にじんわりと染みる。

 自分が緊張していたことに気づく。

 

 屋敷の主であり、わたしたちの養父である、白木和夫。

 そんな彼が、昨日倒れた。

 

 蔵の裏で倒れていたのを、房枝さんが見つけた。

 みながそれを聞きつけ、村の青年団――と言っても平均年齢は四十五歳くらいだけれど――役場の人、近所の古参達が一斉に駆け付けた。

 白木邸の広間には客座布団が散らされ、ちょっとした騒ぎになっていた。

 

 結果的に大事はなかったらしく、房枝さんは、ちょっと倒れてしまっただけ、と。

 転倒時に後頭部を軽く打ったということだったけど、検査の結果は異状なし。

 その後、容態が安定したと分かると、今朝にはみな引き上げた。


 ざわめきの残り香が、まだ屋敷の中のそこかしこに漂っていた。

 床の上に置き忘れられた来客用の湯呑みや、傘立ての濡れた傘。

 

 当の和夫さんはというと、大丈夫だと言い張る彼を房枝さんが宥めて、いまは奥で横になっている。

 

「これね、あなたたちのために取っておいたの。芋羊羹……ほら、あなたたち、これ好きだったでしょう?」


 房枝さんがそう言いながら、手にした漆器の盆をこちらへと傾けた。

 盆には、鮮やかな一匹の、赤い鯉。

 わたしはつい、見入ってしまった。


 鯉――そういえば、彼が『おかしな噺』という物語を書く際に影響を受けたのも、たしか鯉にまつわる奇譚だった。


 わたしは、羊羹の角をひとつかじる。

 土の匂いがまだうっすらと残っている。

 でも、それがいい。


 すみれは、崩れた足袋をはき直してくるといったきり、なかなか出てこない。

 いまだに、客間の畳に足を置くときは、少し緊張してしまうのだろう。

 燈子はもうこちらに来て、さっきまで隣に腰を下ろしていたけれど、今日は猫のように静かだった。


 雲の形をぼんやり眺めていると、すみれがと足音を立てて戻ってきた。

 両手には、何か包みを抱えている。

 

「あれ、燈子は?」

「さっきまでいたのよ。……ちょっと、書庫に寄るって」

「じゃあきっと……長いわね……」

 

 そう言って、すみれは手にしていた栗饅頭をひとつ、わたしに差し出すと、自分の包みを開ける。

 むかしから、彼女は甘いものに目がない。

 膝に抱えている残りは、燈子の分なのか、それとも――


 わたしたちは、三人とも、あの年の冬の終わりに、ここへ引き取られた。

 和夫さんが、わたしたちを迎え入れてから、もう三十年が経つ。

 縁側の景色は、少しずつ変わっていった。

 けれど、陽の傾きだけは、ずっと変わらず、わたしたちの影を長く引き伸ばし続けている。


 あの頃から、変わったものも、変わらなかったものも、ある。



 

 


 ジョウビタキの乾いた声が、庭に響いた。

 ヒッ、ヒッ、と繰り返す音は、雨上がりの空に小さな傷を刻むように、ささくれた胸の奥にひっかかった。

 

 縁側の前の南天の枝には、赤い実が鈴のように揺れていた。

 風が吹けば、手招きするかのように。


 〝彼〟が去ったことに、和夫さんは随分とショックを受けていたようだった。

 村の皆はと言えば、

 同じように驚くひと、やっぱりというひと、どちらでもいいというひと……様々。

 

 いつの間にか食い込んでいた爪の痛みに、手の平を見る。

 新月間近の月のように、紅く、跡がついていた。

 


 

 ――わたしは、彼のことが、ゆるせなかった。



 

 気づいたときには、彼は、同じカタチをした別人になっていた。

 その男は言った。彼は、行ってしまったのだと。

 

 それが比喩なのか、なにか間違った、彼風にいえば、「おかしな噺」の類のことなのかは、分からなかった。

 でもとにかく、わたしが好きだった〝彼〟は、……もう、どこにもいない。

 それだけは、……確かだった。

 


 夜になると、夜気の冷たさが身に沁みた。

 彼の温もりが、恋しかった。悔しいくらいに。

 寝返りを打つと、シーツの冷たさで目が覚めた。

 

 彼がいなくなってすぐの頃、毎夜、燈子やすみれ、若菜たちが交代で来てくれた。

 あの時、誰も傍にいてくれなかったらと思うと、いまでも少し怖い。

 特に、燈子には随分と甘えてしまった。

 すみれには、ちょっと申し訳ない。


 時折、不安定になることはあったけれど、どこまでも穏やかで優しかった彼。

 いつも、怖いくらいに無防備で、それが、わたしには本当に救いだった。

 不安定になるといっても、怒鳴ったり、物を投げたりする人ではなかった。

 むしろ、そんな彼を適度に甘えさせることが、わたしをほどよく満たしてくれた。


 彼はただしく弱く、ただしく強かった。

 少なくとも、わたしにとっては、……そう。

 そのことを、彼自身が過小評価していた。

 

 わたしに罪があるとすれば、表面上励ましながらも、彼をそのままにしたこと。

 わたしは、そんな彼をいたのかもしれない。

 

 だってそうすれば、彼はずっとわたしの側にいてくれる。

 そんな風に、思っていたのかもしれない。

 ……そう、信じたかっただけかもしれない。


 それを思うと、身がすくむ。

 最初、隣を歩いていたはずが、すこしずつ、歪になっていったのではないか、と。



 

 彼が不安定な時、彼はわたしをよく褒めた。

 でも、わたしはある夜、彼に抗議した。

 そんなに褒められすぎると、ちょっと息苦しい……

 理想化されるのは、もうお腹いっぱいなの……、と。

 

 たぶん、夜じゃないと言えなかったこと。

 

 彼はベッドの上で正座して、申し訳なさそうに謝った。

 わたしは、やるせなくなって、代わりに髪を撫でてもらった。

 彼の指が肩に触れると、肩甲骨の内側がざわついた。

 すこしだけ、涙が出そうになった。そんなつもりじゃなかったのに。


 わかっていた。

 わたしが、理想などとは程遠いことを、彼はちゃんと理解していることを。

 それを受け入れてくれたから、〝いま〟があったはずなのに。

 

 たぶん、罪悪感というものは、なかなか消えないのだと思う。

 罪も、汚れも……完全に癒えることはない。

 信じきれなかったのは、わたしも、同じ。




 でも、思い出すと、ふと笑いそうになる話もある。

 

 彼は「好意」に弱かった。

 彼の恋愛遍歴を聴けば、だいたい2パターン。

 お相手の方のイノシシみたいな好意に撥ねられるか、奥ゆかしい者同士でシロツメクサを摘んでいたら、気づいたらベッドの中だった……そんなふうに、ふいに始まっていたらしい。

 そんな話って、あるのかしら。


 ともかく、彼はそんな日々の中で、相手の強さや濃度とバランスを取るような立ち方をしてきた。相手が強すぎれば引くし、弱ければ一歩踏み込む。中くらいなら、そこそこに返す。彼のそれは、たぶん駆け引きなんかじゃなく、ただ……相手にとって心地よい〝温度〟になろうとしただけだったのだと思う。

 

 きっとそうやって、彼は彼自身を虚ろにしていったのだと……そう思った。そして、その樹のうろのような虚ろが、わたしが収まるのには、ちょうど良かった。わたしはそこに、胎児のようにカラダをたたんで、その奥へと融けていった。



 


 

 ……もう、やめよう。

 いまはまだ、やっぱり……彼のことを考えるのは――



 

 


 わたしの視線は、いつしか目の前の池に吸い寄せられていた。


 

 ――池、か。

 

 

 彼は、水に纏わるメタファーを好んで用いた。

 わたしとはじめて会った時の印象を、雨に濡れた少女のようだった、と謂い、

 ものを書くことは、自分という意識の水底に潜るようなものだと、よく言っていた。

 そこでだけ、本当に息ができるのだ、と。


 そんな彼は、わたしを、〝言葉そのもの〟だとも言った。

 同じように、言葉に縋って生きてきたわたしにとって、それは、かけがえのないことだった。

 

 そして彼が去る間際には、言葉にならないものの〝よすが〟だとも。

 ……すごく……嬉しかったのに……。


 ……だめ……

 また思い出してる……。

 


 …………。


 

 ……でも、もしかしたら、この水の底に、彼は居たりしないだろうか?


 わたしはフラフラと夢遊病患者のように、その池の淵へと歩み寄っていた。

 腰を下ろして覗き込む。

 わたしの顔が、映っていた。

 

 すこし……やつれて見えた。

 こんなところ……彼に見られたくない。


 ううん……そもそも彼のせいでこんな――



 

 ――ゆらり。


 


 水の下に、なにかの、影が見えた。

 髭を揺らして浮上するなにかが。

 


 

 ――鯉。



 

 それは、一匹の白い鯉だった。


 こんどは、本物。


 中国は登竜門における出世・成功のイメージはいわずもがな。

 日本でも鯉のぼりだったり、長寿や安泰、縁起の良いイメージがある。

 あるいは……神の使い。


 でも、意地汚いイメージもある。

 雑食性で、エサは与えれば与えただけ、食べる。

 胃がないから、食道が満たされない限りは満腹感を得られないのだという。



 

「とっても渇いてるのね……あなた……」



 

 まるで、赤子のよう。

 ブラ紐が、引き攣るような感覚があった。

 

 オスかメスかは分からなかったけど、なんとなく、オスだと思った。

 はしばらくじっと、わたしと見つめ合った後、パクパクと物欲しそうに口を開け、わたしを誘った。

 その必死な姿が、なんだか可愛くて、憐れで、哀しくて――わたしは知らず、右の人差し指を伸ばしていた。

 

 ――ぱくっ。


 大きな口を開けたかと思うと、彼はわたしの指に吸いついた。

 ぬるりとした感触に包まれ、一定のリズムで引っ張るように吸われる。

 

 なぜだろう……小さく、ため息が漏れた。

 指先が、じわりと熱を帯び始め、身体カラダの芯がどんよりと重くなった。

 

 それからだんだんと、意識が、水底に沈んでいくように、ぼんやりとしてきた。

 

 

 ――。

 

 

 気がつくと、箱の中にいた。

 

 箱……ううん、ちがう。

 夏の日差しに揺らぐ、アパートの一室。

 そこに、彼がいた。


 懐かしい頸筋。

 すこし、汗をかいていた。エアコンの効きが悪いのかもしれない。

 ネイビーのポロシャツを着て、ぼんやりと時計の針を見上げていた。


 やがて、呼び鈴がなり、彼が立ち上がる。

 わたしをすり抜けるようにして、玄関に向かった。

 扉を開けると、そこには、若菜と……〝わたし〟が立っていた。


 記憶にない、光景だった。

 若菜とふたりで彼が以前住んでいたアパートに来たことはない。

 三人の声は、水底にいるかのように膜がかかっていて、何を話しているかはわからなかった。


 彼が料理し、わたしと若菜が部屋の中を物色していた。

 書棚から本を手に取り、眺めるふりをして、わたしの視線は、彼の背中。

 若菜も一緒なのに、何考えてるんだろう、は。


 やがて、料理が運ばれてくる。

 

 ――ブーロ・エ・パルミジャーノ。

 

 それは、わたしが初めて彼と肌を重ねた夜、わたしに作ってくれた一皿。

 バターをほのかに焦がし、でも焦がし過ぎず、……はしばみ色にするのがコツなのだと、彼はよく言っていた。

 あの時、彼が亡き奥様の紗季さんの話をしたとき、その懐かしくも愛おしそうな表情に、わたしの胸の内がどんな風だったか、彼は知らないだろう。


 〝わたし〟も、若菜も夢中で食べていた。

 ――そりゃあ、美味しいでしょう。


 でもやがて、様子がおかしくなった。

 彼が立ち上がろうとして、よろめく。

 そして四つん這いのまま、なにかをブツブツ話しているかと思ったら、若菜の顔色が変わった。

 わたしでも、見たこともないような、蒼白。

 

 彼が 〝わたし〟を見る。 

 〝わたし〟が後ずさる。


 ――若菜の絶叫。

 

 今度は若菜が、 〝わたし〟に詰め寄る。




 ……なんなの、これ……?

 わたしは……なにを……見せられているの……?




 〝わたし〟のひどく狼狽うろたえた表情を見た若菜が、魂ごと吐き出すように嘔吐して、部屋から飛び出した。

 

 わけが、わからなかった。

 でも、きっと彼が、若菜に酷いことをしたのだろう。


 ……いえ、彼と……わたしが……?


 

 

 ――最低。

 



 そのとき、わかった。

 彼を見下ろしている〝わたし〟の口も、その通りに、動いていた。


 そうなんだ。

 彼がわたしを裏切ったのは、いまだけじゃなかったんだ。


 遠い、わたしの知らないどこか彼方でも、彼は……。


 

 

 でも、きっとわたしも、共犯者で……

 


 

 だから、……なんでしょう?

 彼が去った部屋で、〝わたし〟がひとり、泣いてるのは。

 



 耳鳴りがした。

 滝のような、音が聴こえる。

 その音は……段々と近づいてきて……


 ほら……

 いまにも……わたしを呑み込む……



 

 

 ――。

 

 

 

 

 気がついたとき、まさに池に身を投げようとしていたわたしの肩を掴んでいたのは、節の目立った、和夫さんの手だった。

 振り返ると、彼の肩越しに、心配そうな燈子と、すみれも見えた。





 その日は、少し中で休ませてもらった後、しばらくして帰った。

 燈子とすみれが、傍にいると言ってくれたのを、わたしは断った。


 遠慮も、あった。

 でも、それ以上に……わたしは――






 

 最近、ようやく音楽が聴けるようになってきた。


 ショパンのノクターン。

 といっても、第二番ではなくて、二十番のほう。

 第二番は、彼との記憶と結びつきすぎていて、耐え難かった。

 円盤だったら、きっと割っていた。

 データで、よかった。

 


 そうやって、わたしは、その哀しげな旋律を肌に纏い、今夜もベッドで身を丸くする。


 あしたと、ため。


 硝子のカタチを かえながら。

 

 

 






 ――ねぇ、こんな風で、いいのかしら……?


 







 フロンティア・了





















 ※作中で触れた鯉にまつわる奇譚は、南ノ三奈乃様『奇譚草子』の中の一編『鯉』です。

  世界観がすばらしく、ご興味のある方は是非ご一読ください。

 

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