第5話 おねしょ、治します?

 夏休みも中盤になると基礎勉強の効果が出てきたのか、勉強がだんだんわかるようになってきた。これは2学期になったらママ驚くぞ。もしかしたらお兄ちゃんより賢くなれるかもしれないな。そう思ったら俄然やる気が出てきた。


 8月のその日もいつものように待ち合わせ先の図書館に向かった。

今日はハルが先に来ているはずだ。お互いのスケジュールは前日に確認している。

図書館は塾から歩いて10分ほどのところにある。

 この夏、改修工事が完了し、立派になった市の図書館は、2階は児童書、3階は一般書・専門書、4階は雑誌・映像ライブラリーの図書館エリア、その階に自習室はないものの閲覧席が増えた。

 それとは別に学生がグループ学習できるよう広い机が設置された、ワークグループエリアが5階に設けられてあった。

 塾の自習室では出来ない密談が出来るというので、あたしたちは塾の自習室と図書館を交互に使い分けていくようになっていき、あたしたちは都度空いている席やワークグループエリアを探して勉強をしていた。


 塾から図書館は遠くないものの、日差しの強さと暑さはたまらない。

あたしは図書館に入ると帽子を脱ぎ、持っていたハンドタオルで汗をぬぐった。

汗をかいているからか冷房の風が少し寒く感じる。ワークグループエリアのある5階へ行き、ハルを探す。みんな暑さで外に出ないのだろうか利用者は今日も少ない。

姿が見えない。あれ変だな?ここにはいないのかな。

 図書館エリアの3階に戻りもう一度よく探すと、離れたソファで1人うなだれているハルがいた。

「どうしたの、具合でも悪い?」

図書館内は涼しいとはいえ外はとても暑い。体調を崩したのだろうか。

「千秋、見られた。わたしもう終わりだわ」


 あたしが図書館に到着する前の事だ、ハルは図書館の本棚から数冊の本をとり、空いている席を探してよそ見をしながら歩いていたら人とぶつかってしまった。そしてそのとき持っていた本を落としてしまい、相手の人に全部拾ってもらったそうだ。

「そのくらいいいじゃない、親切な人で良かったね」

あたしが言うと、ハルはこの本なのとその時拾ってもらった本を指さした。


・おねしょを治そう

・夜尿治療最前線

・さよならおねしょ

・夜尿症 -最新診療-


 全部おねしょに関する本だった。悩みがあるの?と言われたそうだ。

「わたし、まだ治っていない子だと思われたに違いないわ」

あたしたちはまだおねしょが治っていない子じゃないかと思ったけど黙っていた。

これならたしかにおねしょで悩んでいる人と思われもしょうがないだろう。でも、仮にそれを見ず知らずの人に聞いてくるのってデリカシー無さ過ぎじゃなかろうか。

ハルが言うには、拾ってくれた人は小児科志望の医学部生らしく、それで気になったらしい。なるほど、そういう人ならそれは気になるかもしれないな。

「なのでとっさに弟なのって嘘ついちゃった」

 その弟は小学4年生にもなってもまだ毎日おねしょをするため、姉である自分が何とかできないかと考え、図書館でおねしょに関する本で調べていると言ってごまかしたらしい。

 4年生で毎日だって。そんな嘘がとっさにつけるということは、もしかして4年生の頃まで毎日おねしょしていたのだろうか。

 ハルはそれまでの”弟の”おねしょの出来事を話したらしい。そしてそれならと他に役に立ちそうな本も教えて貰えた。だけど症状を聞いても診断することは出来ないから、早めの小児科を受診してするようにねとのことだった。


 小児科かぁ。でもなんで急にそんな本を読もうと思ったの?と尋ねた。

親同士のストレス発散会、二人のお泊り会の事を考えると、早く治さないといけないから頑張ろうと思ったそうだ。

「子供だからという言葉に甘えていたことがわかる。だから少しでも調べて早く治そうと思うの」

それにもうじき中学生になるのよと付け加えた。

 こういうのは自然にしか治るものだと思っていたけど、そうじゃないのかな。そうだあたしだっていつまでたってもこのままじゃいられない。たしかに自分が中学生になってもおねしょしていると思うと暗い気分になってきた。ママに話してみよう。小児科か、でも小さい子ならまだしもおねしょの相談というのが気が引ける。


 貸して。あたしは本の中から「おねしょを治そう」という題名の本を手に取って本を開いた。男の子と女の子が物干しに干されているおねしょの布団の脇で恥ずかしそうにしてる絵が描かれそこには「おねしょと夜尿症の違いを知ろう」と書かれていた。漠然とおねしょは私たちが使う言葉で、夜尿症はお医者さんが使う医学用語と思っていた。違うのか。


 5歳以上を対象とし、夜尿が月に1、2回以上、それが3か月以上続く場合を夜尿症と言うと書かれていた。

「5歳!そんなに小さい子?」意識していなかった分、驚きは大きかった。

小学生はまだ子供だから夜尿症は13歳くらいからでいいんじゃないかなとあたしは思った。

 年齢と夜尿症の割合のグラフが書かれている。あたしたちの年齢だと全体の約3~4%らしい。あたしたちのクラスは27人、6年生は全部で55人いる。

 ここに2人いるということは、ええと、3.7% だ。ということは、この割合通りなら、うちの学校で6年生でおねしょをしている子はあたしたち2人以外いないということ?ハルはこの大変な事態に気が付いているのだろうか。


 ざっと読み進めていくと「青年期・大人の夜尿症」のページになった。

中高生でも数%の割合で夜尿があると言われており、そのまま治療を行わずにいると成人しても夜尿が続くケースが多い。統計が無いため、成人で夜尿症患者がどれくらいいるかは不明であると書かれていた。

 あたしはだんだん怖くなってきた。中学生、高校生、大人になった自分を想像する。みんなは恋だ進路だ就職だと悩んでいるとき、あたしはずっとおねしょのことで悩んでいる。そんなの嫌だ。なんとなくいつか治るだろうと思っていたのが、そんなことないような気がしてきた。

 あたし、一生おねしょが治らなかったらどうしよう。不安で頭がいっぱいになる。

おねしょを治すことを真剣に考えよう。そうしよう。この本を借りてママにも読んでもらおうと思った。そんな本の中に児童書が一冊混ざっていた。


・ほけんしつのぱんつ


 なにこれ?低学年向けの本だ。

それはね、とハルが言う。この図書館にも置いてあったと言い、自分の支えになっているという本だと言った。

 それは小学1年生の女の子が授業中にお漏らしをしてしまい、

それが原因で学校にいけなくなったが、周囲の人たちの協力で心の傷を癒していく話しだという。以前学校の図書室で見かけて心を打たれたらしい。

 ずいぶん昔に絶版になった本だから古書店で探して見つけ自分も持っているという事も教えてくれた。

 あたし最近似たような話を聞いたような気がするなぁと思ったが、何も言わなかった。


***


 夕方になりハルと別れ家に帰る。

ママに図書館で借りてきたおねしょの本をを渡し、小児科の事を話してみた。一度受診してみてもいいんじゃないかと思っていると話した。

「そうね」といってママは本を手に取った。読んでくれるそうだ。

 ママに読んで貰うばかりではいられない。あたしも読んできちんと中身を理解しないと。


『なぜ夜尿が起こるのか。膀胱が小さいため夜間の尿を溜めておくことが出来ないから起こる。しかしたとえ溜める量が少なくとも目が覚めトイレに行くことが出来るのであれば、それは夜尿症ではない』

 このあたりだろうかと、あたしは自分の下腹部を触ってみた。確かに起きてトイレに行けばそれはおねしょじゃないな。あたしは起きることが出来ないでいるのだろうか。


『対策としては水分を控えること、就寝前はトイレに行くこと、体を冷やさない様に』とのことだった。

 冷えかぁ。ここはあまり意識したことが無かった。よし体を冷やさない対策を練ろう。


 読み進めていくと、母親向けコラムとして、おねしょ布団の洗い方が書かれていた。うちではおねしょシーツを使っているが、そこに至るまでおむつは履きたくないといい、そのたびに布団を濡らした。洗濯はいつもママがやってくれた。洗濯方法、臭いの取り方、乾かし方、全部重労働だった。昔のあたしはどれだけ迷惑をかけていたんだろうと思うと、ママには感謝しかなかった。


 本の最後には小児科を受診しておねしょが治った子供たちのことが書かれていた。

9歳男子、7歳女子。

「12歳、12歳女子は?」探したけれど12歳女子は無かった。この本にはおねしょを克服した同世代はいないようだ。

 家族の協力、本人が治そうとする強い頑張りの結果おねしょを卒業したと書かれてあった。

 みんなあたしより年下でおねしょが治っている。いいな。うらやましかった。ひとりで悩むのは止めよう。きっといい結果にならない。相談できる人がいる。みんなで悩もう。そう思えるだけで自分は恵まれていると感じた。


***


 小児科はまず女性の先生が診てくれること、泌尿器系で夜尿症と謳っているところを調べた。数日後、該当する病院があったため受診することとなった。あとでどうだったか教えてねと言うハルが言う。

 病院の待合室にはいると壁には風邪予防や、予防接種の案内のポスターが貼られてあるとともにパンフレットが置いてあった。ポスター類とは異なり、夜尿症についてというパンフレットもあった。

 あたしは一枚とってめくってみた。そこには図書館で借りた本で読んだ内容と同じくおねしょと夜尿症の違いについて簡潔に書かれていた。

 かかりつけ医でもない初診の病院であるため、ママは問診票に記入をしている。

パンフレットを読んでいると名前を呼ばれたので診察室に向かう。診察室に入ると先生はもちろん看護師さんも全部初対面の人だった。修学旅行の時、リエ先生に話を切り出したときよりも緊張する。


 先生からは生活リズムと食生活について聞かれ、その後は問診票を読んだ先生から現在の夜尿の頻度はどのくらいか、日中にトイレに行く回数はどのくらいかを尋ねられた。

 恥ずかしい、あたしのおねしょ歴が報告される。ほぼ毎日していたときの記憶が蘇ってきた。そんな私の様子をみた先生が優しく諭す。

「坂井さん、恥ずかしいと思うけどまず自分は夜尿症という病気であるという自覚をもってくださいね。そして病気を治すんだという強い意志を持って欲しいの」

 先生もね小学校に入学してもまだおねしょをしていたの。だからあなた達の気持ちわかるのよと言ってくれた。

 ここにいるのはあたしの事笑う人じゃない、味方なんだと思えて心の緊張が少しほぐれた。


 夜尿症って入院したり手術したり、患部に痛みがあるわけではない、しかもそのうち治るだろうということからどうしても受け身になってしまうところがあるの。でもそうじゃ無いから。自分で治そうという意志を持って行動すれば必ず治るものだからね、と先生は言ってくれた。

 あたしの場合、まずは生活習慣を見直す方向で様子を見ようと言うことになった。

よかった、もし苦すぎる薬を毎日飲むことになったり、入院して手術ということになったらどうしようと考えていたのだ。


 水分は朝昼は通常通りでもいいが、夜は8時以降は控えるように。どうしてもと言う場合は少しだけ取るように。

 さらに食事は塩分控えめにすること、塩辛いものになるとそれだけ水を取らないといけなくなってしますので。

自分の生活を振り返ると、水分を取らないと体に良く無いと思っていたので、さすがに寝る直前は飲まないけど夜も水分をとっていた。こんなに時間を空けるのか。

 それと早寝早起きの習慣もつけるように。

うーん、これはできるだろうか、自信ないなぁ。

 寝る前にはちゃんとトイレに行くことを強く言われた。

たまに出ないからといって行かないこともあったけど、今日からはちゃんと行くことにしよう。


 それとその日のおねしょの日記をつけて欲しいとも言われた。

おねしょの日記ってなんだろう、おねしょした時に見た夢のこととか書くのかな?

もうこの子はとママに呆れられた。

今日はおねしょをしたか、しなかったか。した場合、パジャマだけではなくシーツや布団まで濡らすものだったかという記録のことだった。経過を観測する大事なこととはいえ、忘れたい朝のおねしょを記録として残さないといけないのかと思うと、あたしはもう憂鬱になってきた。

次回の受診予約をして最初の受診は終了した。


帰り道、あたしは気になっていることを聞いた。

「ねぇ、あたしって恥ずかしい子?」

なに突然とママが切り返す。だって6年生にもなっておねしょが治らなくて小児科に行くことになったし、と言うと、

「千秋はそそっかしいし、考えなしに行動するし、すぐ調子に乗って失敗ばっかりするから恥ずかしいと言えば恥ずかしわね」

それはちょっと傷つく。

「でもおねしょして恥ずかしいかもしれないけど、おねしょが治らない子が自分の娘で恥ずかしいと思ったことはないわ」

と言ってくれた。よかった安心した。大丈夫ママは味方でいてくれると改めて実感した。

「千秋、おねしょするの恥ずかしいと思ってたの?あっけらかんとしているから全然気にしていないと思っていたわ」

ママ、そっちの方があたし傷つくよ。


***


 後日、図書館で病院どうだった?とハルから聞かれたので、お医者さんとのやり取りをこと細かく話した。

 生活習慣の見直しの話はうなずきながら聞いてくれていたけど、これまでと現在の様子について聞かれて問診だからきちんと話したと言うとハルの顔が青ざめ始めた。

「どうしよう、わたしも話さないといけないんだわ」

診察の途中、先生もじつねはと教えてくれたからそんなに心配しなくてもと話すと、

ハルはそんなの私たちを安心させるための方便だという。

「お医者さんだよ。いつまでも治らなかったなんてあるわけないじゃない」

あたしは先生の話を素直に聞いていたんだけど、ハルは変なところがドライだった。

別日に行ったハルは検査と指導に加えてカウンセリングを受けたそうだ。夜遅くまで勉強している時間を、朝早く勉強するように見直すよう指導があったらしい。


 おねしょ改善は生活習慣の基本を見直すことから始まった。ところが案外簡単なことと思ったけど、やってみると意外と難しい。自分でこのくらいで十分だろうと考えていたけど、お医者さんからの指導に従ってみると全く足りなかった。

 特に水を飲む量をきちんと考えることだ。たしかに夜は少なめにしていたけど時間まではそんなに考えていなかった。でも、ハルも頑張っているんだろうなと思うと自分も頑張れる気がした。


***


 ハルは勉強のペースを少し落としていた。まぁあの成績なら少しくらい落としていても全然影響無いのだが。

 図書館のグループワークエリアに勉強として、例のおねしょの本に加えて次々と本を持ち込み読みふけっていることが多くなった。ほけんしつのぱんつのような児童文学、子育て本から始まり、小児科学、泌尿器科学、婦人科、臨床心理学の本まで読み始め、その広さは多岐にわたった。

 あたしはハルのこと知っているつもりだったけど、この子が何かスイッチが入るとこんな感じになる様子は全然知らなかった。

 読んでわかるのと聞いたけど、全部わかるというわけではないけどと答えた。

けれど今はこの手の話に興味が出てきたので、様々な分野の本を読んでおきたいそうだ。先日小児科の先生と話した際にいろいろと教えてもらったらしい。

「わたしね、自分を悩ませてきたあのこと、苦しめてきたこのこと、恥ずかしさから避けてきていた。でも、今更かもしれないけど、きちんと向きあってみないといけないんじゃないかって。自分の事なのに全然知らないでいる。もっと早く知っておけばと思う事たくさんあったわ」

そう言ってずっと本を読んでいる。


 ハルと話しているとはおねしょという単語を極端に使わないことに気が付く。そりゃ人前で話すことではないし、どちらかと言うとはばかられる単語だろう。でもそれは、おもらしはるかと囃し立てられたことや、恥ずかしい子と言われたことを思い出すからなのだろう。使わないことでどこか見ないようにしていた。けど、それが自分から向き合うようになったのは大革命がハルの中で起きているという事だ。


 本を読んでいるさなか「わたしが勉強してきたこと生かせないかな」とつぶやいた。医者になりたいのと聞いてみると、そこまではまだ思っていないけどと言って読んでいた本を机の上においた。今までの勉強は人から自分を良く見てもらうためだった。でも、それは勉強することが目的になっていて、どこにも行き先が無い勉強はダメだと思うとも言った。


 あたしは近い将来の事を聞いてみた。「やっぱり中学生になったら離れ離れになっちゃうのかな」

「なんで?卒業したら引っ越すの?」図書館という事も忘れてハルは声を出す。いけないと言って口を押さえた。

「あたしじゃない、ハルの方だよ」

だって私立中学受験するんでしょ。合格したら私立に行くんじゃないの。

行かないよと断言した。遠いから朝早い電車に乗らないといけない。帰りは部活もあるだろうし遅い時間になってしまう。それに電車で寝たらどうなるかわからないしと続けた。遠い人は寮生活ってあるけど、それだって。

 たしかにおねしょを抱えて寮生活は難しそうだ。それに電車で寝ているだけならいいけど、してしまったら一大事だ。

「そっか、よかった。安心した」単純に別々の学校にならずにすむとわかって安心した。

それに千秋がいない学校にいってもつまらないしとハルは言った。だけど塾の特待生制度の都合でどうしても私立中学は受けないといけないとのことだった。県内の中学の他に、都内の難関私立中学を受けるという。別にそこまでしなくてもいいんじゃないというと、ハルはそうじゃないのと言った。


 わたし戦わなければいけないの。ハルの口から物騒な言葉が出た。

「父方のおばあちゃんの家にね、わたしより二つ上の子がいるんだけど、都内の私立中学に通っているの。この間その子がわたしに言ったの、もう6年生にもなるのにおねしょだなんて恥ずかしいと思わないのって」

ハルは続ける。

「わたしのせいでお父さんとお母さん、親戚の中じゃずっと小さくなっていないといけないの。だから早く治して、さらにその子より上の学校に合格して、お父さんとお母さんがもうそんな事言われない様にしてあげないといけない。わたしたちいつまでも、いつまでも嫌味を言われ続けられて、それに耐えないといけないなんてうんざりよ」

ハルが本を読みふけっている理由はここにもあった。

「ね、治そうよ千秋。一緒に頑張ろう」そういうハルの言葉にあたしは頷いた。


 どんどん自分の道に進んでいくハルは、ついこの間まで小さい妹みたいと感じるところがあったのにいつのまにか自分より先に進んでいた。

 あたしは置いて行かれているんじゃないかとさえ思ったが、ハルはもともとすごいやつだったじゃない。学校で1番勉強できる子じゃないか。

何を勘違いしていたんだろう。それにあたしのこと置いていくわけない、待っていてくれるよ。勝手に決めつけて悲観するな、千秋。

 けど、いつまでも待たせたままにするわけにはいかない。あたしは自分で千秋の道を見つけるんだ。


***


「そういえば残っていた夏休みの宿題どうなった?」

「読書感想文のこと?もう書いたわよ」

早い。ハルはいつの間に書き終わったんだろう。

普通の本を読んでいる様子が全然なかったのにいったい何の本について感想文を書いたのだろう。

『よくわかる 家庭の医学 オールカラー』について書いたと答えた。

確かにここしばらく図書館では医学に関する本ばかり読んでいたからな。

そんな本で大丈夫なのだろうか。一応、学校の宿題だぞ。

「なにも100点取る必要なんてないわ。及第点以上取れればいいのよ」そう言い、

最低でもなぜその本を読むことになったかのきっかけは?その本のあらすじは?その本の面白かったところは?その本を読む前と後で自分はどう変わったか?があれば十分じゃないかしらと読書感想文を書く上で必要となるポイントを上げた。


「ふーん、じゃあ」とそのポイントについて聞いた。

「きっかけは?」

「この間大雨が降った時、千秋の家から帰れなくなったことがきっかけで、

災害時に急病や怪我人が発生した際、自分は何が出来るかを考えたことがきっかけよ」

「あらすじは?」

「家族の中で起こった病気や怪我に対し、本を案内する立場に置かれている主婦が

それにどう対処するか、病院と薬とどう接するか応急処置はという形式で書かれた本ね」

「面白かったところは?」

自分が知っていると思っていたことが、実は現在の医学では古いものだと知ったこと。知らないことがたくさんあり、役立つ本だけではなく、知的好奇心を満たせたこと。応急処置では具体的な対処方法が学べたことかな」

「本を読んでどう変わったの?」

「さっき話したとおり、こうだと思っていた病気や怪我に対する考えが変わったこと、それから家にある救急箱を確認し、いざ病気や怪我にあったときに対応できるかどうか。実際にやってみて応急処置で対処方法ができるようになったこと。あとは、常備薬が切れていないかの見直しを行ったことかしらね」

説明されてもあたしは全然ピンと来なかった。


じゃああたしはこの間借りた「おねしょを治そう」で書き直そうかなと冗談を言うと、「ふーん、期待しているね」と顔を上げたハルはニヤリと笑った。メガネがキラリと輝いた気がした。

「きっかけはなにかしら?」

「えっと、その」

「本のあらすじは?」

「いや、あのだから」

「面白かったところは?」

「ええと」

「読む前と後で千秋は何が変わったのかしら?夏休み中にわたしを置いて卒業しちゃうなんて悲しいわ」

意地悪なハルはとことん意地悪だった。


その後、このハルの読書感想文は大変良く書けているが、どう評価していいものかと

先生たちを大いに悩ませたと噂で聞いた。


***


 生活習慣を見直しは難しい。夏はどうしても水分が必要となる。

最初はのどが渇いて我慢できない、一回くらい大丈夫だよと言っては自分を何度も甘やかした。五回に一回は甘やかした代償を払った。このことではママはあまり怒らないけど、お医者さんからの注意を守らないときは怒った。


 2学期が始まると、だんだんと朝の調子が良くなってきている。

生活習慣を見直し規則正しく生活しているためだ。その影響が少しずつ出始めている。始めた当初は全然変わらなくて、もしかして全然だめなのかななんて思っていたんだけど、徐々に効果が出てきたようだ。


 その朝はトイレに行く夢を見て目が覚めた。まずい、そんな夢を見た日の朝は決まっている。下着が濡れている感触がする。布団の中でため息をつき、いいや、もう少しこのままで居ようと思ったところで強烈な尿意がした。

 出たばっかりなのにまた出るの?としかたなしに起き上がると、布団が濡れていないことに気が付いた。また尿意、急がないと、とトイレに向かって走り用を足した。

見ると濡れているのは下着だけ。パジャマは湿った様子はあるものの、濡れてはいない。濡れた下着をまた履くのは嫌なのでそのまま脱ぎ、トイレから出てお風呂場に行くと洗面所で身支度をしているお兄ちゃんがいた。部活の朝練があるから今日も早い登校だ。

 こそこそしているあたしの様子を見て、なんだ今日もかと言う。

あたしはくやしかったので、でもシーツ濡らさなかったよ、本当だからねと言い返した。ふーんそうなのかと言ってあたしを見た後、「じゃ少しは効果出てきているんじゃないか、よかったじゃないか」と言いながらあたしの頭をガシッとつかみ、撫でるというよりぐりぐりとかき回した。

痛い!痛い!ばか、やめろ。

 洗面所から出ていくお兄ちゃんの背中に向かって「ばーか」と言い放ってからふと思った。もしかしてお兄ちゃんなりに褒めてくれたのだろうか。思い返してみると、やっちゃったときは何も言ってこないけど、しなかったときはいつもこんな風だ。

 お風呂場で体を洗い流してから台所にいるママに「ごめん、下着だけ汚しちゃった。洗って洗濯機にパジャマと一緒に入れたから」と報告する。シーツはと聞かれたが、汚していないことを伝えると、少しは効果出てきているんじゃないと、お兄ちゃんと同じことを言った。


 夏休み前、ハルがおねしょしていないことを話してきたときはそんなに喜ぶことかと思ったけど、ごめん、本当だね、これはあたしも大喜びの出来事だ。でもそのあとしばらくして塾で会ったハルが、朝から話しかけてはいけないような、この世の終わりみたいな雰囲気を出していたことがあったことを思い出して、笑ってはいけないことなのにどうしても我慢が出来ず笑いが出てしまった。自分じゃ気が付いていないみたいだけど、あの子顔に出過ぎなんだよ。


***


 2学期も半ばになるとハルは忙しさを増してた。

自分の勉強、生徒代表として学校行事に参加、それだけじゃなく今まで無かった受験と体の事についての勉強だった。みんなはいつも通りのクールで落ち着いた大人びた遊佐さんだと思っているかもしれないが、疲れているのが顔と体に出ているのがあたしにはわかった。大丈夫だろうか。ねぇ、無理してない?と何度も聞くが、いつも大丈夫だよ、私が決めたことだからと言われてしまう。こういう時のハルは本当に頑固だ。絶対動いてくれない。


 あたしの勉強のほうは夏休みに塾で受けた振り返りがとても功を奏したのか勉強がわかるようになってきた。わかるようになると授業も面白いものだ。小学生生活ももうほとんど残っていないけど。

 ある日のテストでかなりいい点数が取れた。

早速見せに行くとママに褒められた。あたしの学生生活、テストの点で褒められる日が来るとは思わなかった。

 晩ごはんのとき、千秋、最近成績が上がっているのとママが切り出す。

あたしはこれはそのうちお兄ちゃんを追い越すかもよと言うと、そんなあたしの態度に「千秋はすぐに調子にのるからな、そんなこと言ってるとどこかで失敗するぞ」とお兄ちゃんが釘を刺した。だけど、今のあたしには何も聞こえなかった。そんなことないもんねと、あたしの人生が輝くのを楽しんでした。


 お風呂上り冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、コップに注ぎ1杯飲んだ。けれど物足りなかったのでもう1杯飲んだ。千秋飲み過ぎよとママが言ったが、朝の様子を思い返し、もうしないから大丈夫だよと思った。そうあたしはずっとしていない記録を更新中だった。最近では下着すら濡らすこともない。

 そうだ、もう治ったのだ。その晩もしなかった。次の晩もだ。もうおねしょは卒業したのだ。もう大丈夫だよといってあたしはおねしょシーツを今までお世話になったねと言って片づけた。


***


 ハル、どうしたの泣いているの?

「千秋、わたしどうしよう」見ればベッドには大きな世界地図が描かれている。

「中学生になっても治らなかったらどうしよう」と言ってハルはまた泣いた。

しょうがないな、ほらちゃんとトイレでしないからだよと言って、あたしはそこに置かれている便座に腰かけた。

「千秋、そこトイレじゃないよ」と言うが、何言っているのこれはトイレだよと、そのまま体の力を抜くとおしっこが出ていく感じがした。

「千秋、だめだよ、だめだったら」


 秋になりはじめ、その日は朝は少し寒かった。

それなのに明け方、とても寝苦しいほどの暑苦しさで起きた。今日は例年より少し寒いって天気予報はいってたのに。布団の中が熱い。違う、布団が熱いんじゃないお尻のあたりが熱いんだ。それはまるでお風呂に浸っているような感じだ。この感覚、覚えがある、うそ、そんな、まさか。

 べっとりと肌に張り付く不快な感触で目が覚めた。

慌てて布団のなかに手を入れ、お尻の下の位置にある布団を触る。手のひら全体に濡れたものに触れた感触が伝わってきた。体を起こし、掛け布団をめくると思い出したくない匂いとともに、漏れたおしっこが下着とパジャマから溢れ出ており、腰を浮かし少し後ろに下がるとシーツにおしっこで大きな世界地図が描かれているのが見えた。

 そのまま立ち上がるとぽたぽたと布団に落ち新しい跡が出来た。

あたしはまたおねしょをしてしまったことが理解できず、おしっこまみれとなって肌に張り付いた下着とパジャマ姿のまま上着の裾を強く握りしめその場に呆然と立ち尽くし、震えながら「どうしよう、どうしよう」とうわ言のようにつぶやきを繰り返した。

 そのうちくやしさから声にならないうめき声が出た。そしてなさけなさから涙が流れてきた。涙と感情は抑えきれず、その場にうずくまって声を殺して泣いた。


 徐々に落ち着きを取り戻すと、パジャマと下着を脱ぎ、布団からシーツを外す。

もう大丈夫だといって今まで使っていたおねしょシーツは外してしまっていたんだ。

おかげで敷き布団までおしっこが浸み込んでいる。大惨事だ。

 パジャマの背中まで濡れていることに気が付いた。脱ぐと裸だ。まるで小さい子のようだ。おねしょをして裸になったのは小学1年生以来のことだった。

 部屋から汚れ物を持って、階段をそろりそろりと降りお風呂場へ向かう。

こんな情けない姿、家族でもパパやお兄ちゃんには見せられない。台所の様子をこっそり覗くと、朝ごはんを用意しているママの姿が見えた。

 なんて言おう。あれだけもうおねしょはしないから大丈夫だなんて大見え切っていたのに。

「千秋、そこにいるの?早くご飯食べないと遅刻するわよ」

ママはあたしの気配に気が付いて呼びかけた。

「どうしたの千秋」

「ごめんなさい」あたしはそういっておねしょの報告をした。

おねしょのことで泣いて謝ったのも小学1年生以来だった。


***


 次第に声にならなくなった。また涙がどんどん零れ落ちる。あたしは何をやっていたんだろう。自分で決めたことなのに、自分から治そう、そうやって始めたことなのに。

 こんなものだ、このくらいでいいんだと、これで大丈夫だよと、お医者さんからの指導があるにもかかわらず、勝手な思いこみと、勝手な行動をして、その結果がこれだ。全然真剣に取り組んでいなかった結果だ。

 ハルは?あの子は大丈夫、きっと真面目に取り組んでいる。

いや、そうじゃない。あの子はきちんと自分を律することが出来る子だ。

 それに比べてあたしはどうだろう。心のどこかでそのうち何とかなるよという思いでもあったのだろうか。自惚れ、驕り、自信過剰、思い上がり、全部今のあたしに当てはまる言葉だ。

 ハルのママから言われた言葉を思い出す。自分でこうしようと決めたこと、それに自分で責任を取る。あのお泊り会であったことを忘れていた。

 それを忘れるだなんて、親友を裏切ったに等しかった。救ってみせるなんてよくあんな大口を叩けたものだ。そんな自分が情けなかった。消えてしまいたい衝動にかられた。


 ママは、あーと声を出してあたしを見た。そしてため息をついて、久しぶりにやっちゃったねと言った。怒られなかった。パパとお兄ちゃんには内緒にしてあげるからとも言ってくれた。それはとてもありがたかった。また調子に乗るからだと言われずに済む。たとえそんな気はなかったとしても、今、人からそう言われたら心が折れてしまうかもしれない。


 寝る前にお水飲んだ?と聞かれたので、あたしは正直にペットボトル1本を開けて飲みアイスも食べたと答えた。

 まったくお医者さんの言いつけを守らないからよとあたしの頭を撫でて慰めてくれた。申し訳なさでいっぱいになった。またバカなことを!と怒られた方がましだった。

「ごめんなさい」あたしはもう一度謝った。


 ママが後片づけしておくから早く学校に行く準備をしなさい、遅刻するわよと言ってくれたが、あたしは首を横に振った。

 これは自分の慢心が招いた大失敗なので、後片付けも自分でやらないとまた同じことを繰り返すと思う。

「ママ、ごめんついでに学校に2時間目から登校しますって連絡して」そう言ってあたしは急いでお風呂に行った。

 急いでシャワーで体を洗い流す。泣いててもしょうがない自分の失敗だ、自分できちんと後始末をしないと。

 図書館から借りた本の中におねしょ布団の洗い方が書かれていた。それを思い出す。たしか修学旅行の時に買ったおむつがまだ残っていたはずだ。部屋に戻り着替えると箪笥の奥にしまい込んでいた紙おむつを取り出した。

 おむつで布団に残ったおしっこを吸い取り、布団カバーを外す。それぞれの汚れ物を洗濯ネットに分けていれて洗濯機を動かした。

 台所からぬるま湯持ってきて、布団の濡れた箇所にかける。そしてまたおむつで吸い取り、またぬるま湯をかける。それを何度か繰り返しているうちに匂いがなくなってきた。これで大丈夫かな。全体の水分を取り除き、あとは日当たりのいい場所に布団を干せば大丈夫。

布団を干すのは千秋にはまだ無理だからとママが干してくれた。


 時計を見ると完全に学校は遅刻だ。

冷たくなってしまった朝ごはんを温めなおし、急いで食べる。

 歯を磨き、鏡で身だしなみを確認していると目が少し赤くなっていることに気が付いた。

 家を出て外から家の洗濯ものの様子を見る。

空は晴天ではあるが、夏の暑さはもう無く、冬に向かおうとしている秋の冷たい空気だ。2階のベランダに濡れた敷き布団が干されれているところを見たのは久しぶりだった。この家の子は今日おねしょをしましたと、家の前を通る人たちにそう教えているかのようだった。

「これからはお医者さんのいう事をきちんと守ります。だからお願いします。だれもあたしのおねしょに気が付かないでいてください」

両手を顔の前で合わせ空に向かってお祈りした。

急がないと2時間目にも間に合わなくなる。学校へ向かって走った。


***


 2時間目が始まる直前に学校についた。

教室に入ると、お前ら本当に仲がいいなと言われた。

 何のことと聞くと、ハルが1時間目の途中で気分が悪いと言って、保健室に行ったそうだ。二人合わせたように体調不良だなんてな、と笑われた。

「だからあれほど無理するなって言ったのに」

あたしはすぐ保健室に様子を見に行きたかったが、先生が来た。もう授業開始だった。


 2時間目が終わるとすぐ保健室に向かった。様子が気になって授業には全然集中できなかった。

 1階にある保健室に向かって3階の教室から急ぎ足。階段は一段飛ばしで降りる。

それを見ていた他の学年の先生から「危ないぞ、それに廊下を走るな」と注意された。「ごめんなさい!走ってません、早歩きです」そう言って保健室に急いだ。


「失礼します」保健室に入ると養護の先生が一人。聞いてみると奥のベッドで寝ているそうだ。見るとカーテンが閉まっているベッドが一つがある。

「入るよ、大丈夫?」

ベッドで横になっているハルは顔が赤い。額に手を当てると熱い、熱が出たようだ。

気分が悪いって言ってたそうだけど、これはリエ先生に言って早退した方がよさそうだ。

 声をかけるとハルは目を覚ました。ぼーっとしている。あたしが来たことわかるだろうか。

「起きれる?今日はもう帰ろう。無理しちゃだめだよ」

上半身を起こす。呼吸が速くて荒い。辛そうだ。

「手につかまって、大丈夫だから、立てそう?頑張って」

そういってベッドから立ち上がるハルに肩を貸し、体を支えると体重がのしかかる。歩くのもおぼつかなさそうだ。

「先生に言って連絡してもらうから、今日はもう帰ろう、ね」


「…千秋」ハルはか細い声であたしに伝えた。

「…わたし…お手洗いに」

「少し我慢して、いま連れて行ってあげるから」

「……できない…」

「まって!もう少し!もう少しだから!」


そう言った時だ。それまでゆっくり動いていた足が止まった。ハルの足元に目をやると、おしっこが足を伝わり靴下と上履きを濡らしながら流れ出ているのが見えた。

足元の水たまりは大きくなり、みるみるうちに床にひろがっていく。

 ハルがあたしにしがみつく。体が震えていた。あたしはハルの手を強く握った。

「全部熱のせいだから、大丈夫何も心配しなくていいから」

慌てず、騒がず、ゆっくりと言い聞かせるように伝えた。あたしは落ち着いて養護の先生呼ぶ、先生は様子を見て「大変」と言ってすぐタオルを準備してくれた。


 一旦椅子に座らせよう。すがるような目であたしを見るハルに「着替えとってくるから。待ってて。必ず戻るから」そう言うと頷いてくれた。ここは養護の先生にお願いしよう。あたしは保健室を飛び出し職員室に走る。今度は早歩きじゃない。

 3時間目の授業開始の鐘が鳴る。職員室の扉が開き、リエ先生が出てきたところだった。

「こら坂井、廊下を走っちゃだめだと何回」

「先生!」注意を遮ってハルの容体を伝え、連絡して迎えに来てもらうようお願いした。先生は「分かった」と言って職員室に戻った。


 そのあとは教室。階段を駆け上がる。3階にある6年2組の教室が遠く感じる。

教室に入ると「自習だってよ」と大声で言った。やった自習だと喜ぶみんなを無視して、鞄が置いてある教室後ろのロッカーに向かう。

 ロッカー近くの席の真希ちゃんが「春香大丈夫そうなの?」と聞いてきたので

「今日は早退するって、だから鞄取りに来た」と答えると、春香のロッカーそこだよと教えてくれた。サンキュと軽く返事をしてハルの鞄を手に取る。

昨日体操着を持って帰るの忘れていたからと、自分のロッカーにある体操着を取り出した。ちょっと汚れているかもしれないが我慢してもらおう。手に取り保健室に舞い戻る。今度は二段抜かしで階段を駆け下りた。


 保健室へ戻るとリエ先生が来ていた。連絡してくれたのですぐに迎えに来てくれるそうだ。

 ハルは汚したスカートと下着、靴下と上履きを脱ぎ、大きめのタオルで下半身を隠し、上履きの代わりに学校のスリッパを履いていた。足元には汚れ物が入っているビニール袋が置かれている。右手でハンカチを握りしめながら両手で両膝を掴むような姿勢で椅子に腰かけていた。今にも泣きだしそうなのを我慢しているのがわかる。

 あたしは駆け寄り、ごめん遅くなったと言って、座っている高さの目線に合わせるようしゃがみ込み、

「今日はもう帰ろう、ハルのママ、迎えに来てくれるって」と伝えた。

ハルは頷いた。さっきよりも顔が赤い気がする。熱が上がっただけじゃなく恥ずかしさもあるようだ。一筋の涙が頬を伝った。あたしはそれを指でそっと拭ってあげた。

 ごめん、着替えはこれで我慢して。ちょっと大きいかもしれないけど、教室から持ってきたあたしの体操着を渡し、誰も見ていないからと言って履くように伝え、防波堤になるようにあたしはハルの前に立った。


 養護の先生が冷やしたタオルをを持ってきてくれ、熱くなっている顔に何度もあててくれていた。これで少し熱が和らぎ楽になるだろう。

 よしあたしはこっちだ。床もさっきまでハルが寝ていたベッドもまだ片づけられていなかった。トイレから新しいトイレットペーパー1本拝借してきた。大雑把にちぎって水たまりの上に投げ水分をふき取る。今度は掃除用具からモップとバケツを取り出すと、バケツに水を汲みモップを浸し床を拭く。今度はモップを強く絞り何度も拭く。よしこれで大丈夫だ。

 ベッドを整えようとして異変に気が付いた。シーツに小さな濡れ跡がある。しまった!こっちもなのか。まったく、あのおねしょ娘は!と今朝の自分を棚に上げ、後片づけに取り掛かった。

 シーツカバーを外す。ここは保健室だからあるはずだと、先生に聞いて重曹の場所を教えてもらった。重曹をかけてベッドから尿分を取る。その間、ポッドでぬるま湯を準備し、ベッドの濡れているところにお湯をかけトイレットペーパーでふき取る。それを何度も繰り返す。大丈夫だ染みにはならなさそう。

 後片づけというより、証拠隠滅を行っている感じだった。ここでは何も起こらなかった。保健室で寝ていたハルは熱が出たので早退した。それ以外の事は何も起きなかったんだ。

 あたしがベッドを整えている間にハルのママが学校に迎えに来たらしく、リエ先生が連れて行ってくれていたようだ。

 なんでこんなになるまで一人で無理するんだよ。今日はあたしもハルもボロボロだった。もしかして、今朝あたしがひどいおねしょをしてしまったからハルにも伝染してしまったんじゃないだろうか。そうじゃないことは分かっていても、ハルに申し訳ない気がした。


 坂井がやってくれたのか。床掃除と保健室のベットの片付けをみてリエ先生は言った。ありがとう、洗濯と掃除上手なのねと養護の先生は褒めてくれた。

 あたしプロなんですよと言うと、リエ先生も養護の先生もなんのことだという顔をした。

 リエ先生と一緒に6年2組の教室に向かう途中で、先生が話し始めた。

「こういうの嫌がったりしないんだな。たとえ友人同士でも嫌がってもそれは仕方がないと思うぞ。それに人の事なのに一生懸命になれる。さらに坂井は誰のところにも飛び込んで親身になれる。そういうのってあんがい人に関わる職業なんかに向いているかもな」

素直に嬉しかった。

 テストの点がよかった、授業中の先生からの質問に答えられた、体育の授業で上手くできたから誉められた。それとは全然違う嬉しさがあり、胸の奥が熱くなる高揚感があった。なんだろう、先生の『向いているかもな』の一言、心の奥底まで浸み込むのがわかった。

 あたしそのものが褒められた気がした、家に帰ってもリエ先生からの言葉が忘れられない気がした。一生忘れられない言葉になりそうだった。


***


 学校が終わり今日は塾でも一人だった。

あたしは塾の帰りに図書館に寄り、例の『おねしょを治そう』をまた借りた。こんどは読むだけではなくて必要なところをメモしよう。お医者さんから言われたことももう一度振り返ろう。

 ふとおねしょをして泣いて謝った小学1年生の頃を思い出した。そうだあれはクリスマスイブの朝だったんだ。朝からおねしょをしてママに迷惑をかけた。あたしは「ママを困らせる悪い子なんだ」そういって布団に潜り中で泣いていたんだっけ。

 謝らなくていいんだよ、千秋は何も悪い事していないんだから。そう言ったのはママとパパとお兄ちゃんだっけ。あんなに優しくされた出来事だったのに、あんなに家族があたしのおねしょを受け止めてくれていたのに、そんなことも忘れていたんだ。どこでこんなに擦れてしまっていたんだろう。なんてバカなんだろう千秋は。

 お風呂上り、水を飲もうとしたが、今朝の自分のだらしなさからの大失敗をまた思い出し、ほんの少しだけにした。これからはちゃんと気を付けよう。今日と言う日は自分に戒めの日となった。


 翌日、ハルは学校を休んだ。流石にあの調子では一日で元通りなんて無理だ。

リエ先生に休んだことで遅れる学校行事の準備の事を聞いた。先生が手伝うから大丈夫とのことだったけど、なんとなくハルの性格を考えると断ってきそうな気がするな。学校に来たら説得して、いや無理にでも手伝うことを認めさせよう。

 学校から帰ると昼間ハルのママが来ていたことを教えてくれた。貸したジャージを洗濯して返しに来てくれたそうだ。それとこれは千秋にだってとお礼を持ってきたという。包み紙にナカトスィーツのマーク。開けると中には秋限定モンブランが入っていた。

「春香ちゃん風邪なんですって?」

「うん」

お礼で頂いたモンブランを食べながらそう口にする。

「どうして千秋のジャージ貸したの?」

「服汚しちゃったから」

「それだけ?」

「そう、それだけ」

何があったかママにも言わなかった。言わなくていいんだ。

「春香ちゃんのママ言っていたわよ、春香と友達でいてくれてありがとうって」

そう言うとママの分も食べていいからと、モンブランをもう一つあたしの前に置いた。

 しかしハルの行動に腹がってきた。勉強も受験も学校の仕事もこれではどれも中途半端になって失敗するのが目に見えている。もっと人を頼ってもいいのになんで頼ってくれないんだろう。そんなにあたしじゃ頼りないのかな。


***


「千秋、ありがとう。ごめんなさい、迷惑かけてしまって」

次の日教室に入ってきたハルは鞄も置かずにあたしのところに来た。

ちょっと出よう。そのまま屋上行きの階段踊り場に連れ出した。


「ありがとう。千秋が助けてくれたんでしょう。もし千秋が居なかったらいったいどうなっていたか」

ハルはまた保健室での出来事について頭を下げた。

「もしかしたらわたし、またおもらしはるかって呼ばれるって、そう思うと考えるだけで怖い」

「ハル、違うよね、そうじゃないよね」

ハルは何を言われているかわからない様子だった。

「あたし、自分の都合の事なんて考えないよ。

それに親友がピンチのとき、助けに行くなんて当たり前の事じゃない。

感謝なんかいらないよ。見くびらないでよね」

そんなあたしの様子に戸惑っていた。ハルの手を取った。

「あたしにも手伝わせて。勉強に学校行事の準備、無理しすぎだよ。

自分がしないとだなんて思わないで。お願い。支えになりたいんだ」

それに、あたしからひとつお願いがあるんだと目を真っすぐに見て言った。

「あたしの仇もとってよ」

ハルは何のこと?誰に?とピンときていない様子。

「親戚の子。6年生にもなってって言ったんでしょ、ならあたしの敵でもあるわね。頼んだよ」

そう言って肩をポンと叩いた。あたしは顔も名前も知らないハルの親戚を敵にしてしまった。なにそれといってハルは笑う。あたしは仇を取ってもらう、そのお礼に学校の仕事を手伝う、いいでしょと強引に続けた。

 そこまで言ってやっと折れた。この頑固者は一歩下がり深々と頭を下げた。

「千秋。お願いします。学校の仕事、手伝ってください」

もちろん!返事は他になかった。

 流石のハルもあの大失敗はこたえていたようで、自分が意固地になっていたことを反省した事を認めた。それでもしょうがないという顔つきで「千秋には負けましたと」言い、最後まで素直ではなかった。


 その日の放課後からあたしはハルにくっついて回った。

行く先々で「今日からしばらく遊佐さんのお手伝いをします、坂井千秋です」と挨拶するようになった。始めてみると郊外活動、避難訓練、委員会活動。こんなに学校行事に関わっていたのか。働き過ぎだよ。あたしはそれらのサポートにまわった。

 最後のなった学習発表会準備が一番大変だった。

各学年の出し物の練習もしつつ、多学年の調整や発表を見に来る保護者の方々への連絡も。リエ先生はもちろん、今まで一度も話しをしたことが無い先生とも一緒に動くようになった。

「最近噂になっている坂井さんと言うのは君か」

「強力なメンバーが遊佐さんのサポートについたって言うけど君なのか」

 思い返してみるとこんなに学校行事に積極的にかかわったことが無かった。

運動会で活躍といっても、それは自分が頑張ることで、裏方にまわって盛り上げようということは今までなかった。ハルに教えてもらった気がした。


***


 12月にもなると学校行事で6年生の出番はもうほとんどなくなった。

代替わりした5年生が主に担当として動いてくれる。引継ぎを済ませるとそれであたしのサポートもおわりだ。次の児童代表は選挙という形式ではなく、新しい代表が推薦され、本人と先生が承認することで決定する。

 5年生の新代表が新しく児童代表に決定し、ハルは児童代表の勤めを全部果たし終えた。あとは卒業式にもう一回出番かな。


 本当の事を言うと学校、そんなに好きじゃなかった。あまり勉強も出来ないからそこまで楽しいとも思えなかった。

自分がクラスなかで子供っぽいという自覚もあった。それでも友人もいたが、ここまで心を許せる人、ここまで親身になろうと思う人はいなかった。

 さらにこうやって大勢の人と関わりを持ち、人との出会い、そして一緒に過ごす時間を振り返ってみると学校生活も満更でもなかったと思う。自分はどうするかがあり、どう行動するか、そして責任を持つかだった。もっと早く気が付くべきだった。

 みんなが下校し、誰もいなくなって二人だけになった教室で自分の気持ちを話す。

今度はわたしねとハルが心の胸の内を話してくれた。

「わたし自分に自信が無かった。だから他の人よりたくさん努力しないと誰からも受け入れて貰えないと思っていた。努力して努力してやっと人並みになれると思っていた。千秋ならわかるでしょわたしの気持ち。でもね、わたしを受け入れてくれる人がいること、支えてくれる人こと、それがいるってわかるだけでこんなにも毎日が生き生きと自信を持って過ごせるなんて思っていなかった。千秋、ありがとう、全部あなたのおかげよ。わたしのピンチのときに必ずそばにいてくれる。大好き。あなたはわたしの大事な友達よ、あなたがいなければわたしどこかでダメになっていたに違いないわ」

「あたしだって」

 それはあたしも同じだった。ただ日々をぼんやりと過ごすだけでずっと子供のままだったかもしれない。体だけ大きくなって中身は子供のままだっただろう。あたしを変えてくれたのはハルだ。

「リエ先生にも感謝しなきゃ、だってあの時「頼りになるやつ」と言って千秋に引き合わせてくれたんだもの」

 あたしたち出会いは修学旅行の夜に同じ部屋になって意気投合したということになっているが、思い返してみるとなかなか人に話しにくいものばかりだ。それだけの秘密を共有する間柄なんてないだろう。

 この1年あたしたちは成長したと思う。お互い手を取り合いしっかりと握りあった。あたしたちは今後何があってもずっと友達でいる、二人の友情は永遠だ、そう確信できた。


***


 ハルの戦いがこれから始まる。

学費免除の特待生だから、私立中学受験で結果を出さないといけない。それだけじゃない、あたしの知らない親戚の子、それと親戚全員を見返すだけじゃない、もう不名誉な呼ばれ方をした昔の自分じゃないということに。


「わたしのためにしてくれたお父さんとお母さんのためよ」

そう言ったハルの声は今までにない力強さと自信に満ち溢れていた。


短い冬休みがおわると3学期。

すぐに受験がくる。


【続く】

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