第4話 千秋の野望

「そういえば塾の合同合宿にはいかないの?」

夏休み、塾に通うあたしとハルは一緒にお昼を食べている。その際に募集が始まった合同合宿について聞いた。

 8月になり暑さは増々強くなっていた。天気予報は連日の猛暑と伝えている。

猛暑になると食べ物が痛むのがさらに早いのでお弁当は持参せず、お昼になると二人で近くにあるコンビニに行き、そこで買って店内にあるイートインスペースで食べるようにしていた。コンビニのイートインスペースは冷房が効いてそれなりの涼さが保たれているが、塾からのここに来るまでの間でひと運動したような汗が噴き出ていた。

 あたしは何気なく聞いたつもりだったんだけど、ハルの機嫌を大変損ねてしまったようで、じっとあたしの顔を見る。いや恨めしい目つきであたしを見る。

「知ってるくせに」

「ごめん、そういうんじゃないんだって」

進学コースとか、レベルの高いコースではより偏差値を上げるため、他の地区にある同じ系列塾と合同で夏合宿が開催されるそうだ。小学校の復習コースに通うあたしには無縁の話だ。


「それに、いくらかかるか知ってる?」

ハルはお弁当を食べている箸を置いて、鞄からパンフレットを取り出した。渡されたパンフレットには「偏差値アップ」のうたい文句と勉強に励む塾生の写真。裏返すと1週間の合宿費用が書かれていた。移動費用、宿泊料、食事代もろもろ。そこにはあたしのお小遣い何か月分だろうという金額が書かれていた。

 1週間のコースだからそれなりの費用が掛かるだろうと思っていたけど、こんなにするのか。両親の負担、大きいなぁ。

「それに1週間家から離れるなんて今のわたしには無理」


 外泊は無理、仕方がない。なぜならあたしたちにはとても人に話せない大きな秘密があるからだ。それは二人とも小学六年生にもなってまだおねしょが治っていないという事。人には話せない、知られてはいけない大変な秘密。その秘密のおかげであたしたち二人は外泊が難しい。


 そんな合同合宿ではさておき、この夏、あたしには一つの野望があった。それはハルこと、遊佐春香さんを家に呼んで泊まってもらう事。

 夏休み前、ハルの家に行ってお泊り会をした。二人とも初めて友達同士のお泊り会で、夜遅くまで一緒に過ごした。学校の修学旅行で同じような経験はしたけれど、友人同士で行うそれは、また違う雰囲気があった。

 秘密の事を知らない人同士での外泊は難しいが、知っている人同士ならまだ何とかなるのではないだろうか。


***


「7月に何度も千秋の家に行ったじゃない。それに泊まりなら、千秋がうちに来ればいいじゃない」

と言って頑として譲らず、泊まりに行くとは言ってくれない。

 そうじゃないんだ、これはあたしのわがままなんだ。うちで遊んで、一緒に晩ごはん食べて、一緒に寝て、一緒に朝を向かえたいんだ。

 返事はないが困った顔をされてしまった。そうだろうな。

雷の夜「朝まで一緒に居よう」って言ってくれたことを話すと、あれは朝まで寝ずに起きていましょうという意味だと言ってはぐらかされた。

「本当はわたしも泊まって過ごしてみたい、でも、ご迷惑だから」

「迷惑じゃないから来て、むしろ本当に来て欲しいんだ」

ハルは少し自信なさげな表情で、あたしの顔を下から覗くようにして言った。

「だって、千秋の前で格好悪いところ見せたくないし」

格好悪いところなんて十分見せあった。修学旅行とハルの家でのお泊り会では二人ともしてしまった。けれどあたしだってそうだ。本当はハルの前では自分がしてしまったところなんて見せたくない。でも。

「あたしハルが格好悪くたって幻滅なんてするわけないじゃない」

うちでハルと一緒に過ごしたいというあたしのわがままなんだと、もう一度自分の気持ちを包み隠さず訴えた。

「外泊なんて修学旅行以来よ。あの時だって結局しちゃったんだし」

弱気なハルに「ならうちは練習台として最適なんじゃない」と家の人に黙って勝手なことをあたしは言った。

「そうじゃなくて」千秋の家でしてしまったらどうしようと思うし、お父さんやお兄さんもいるんでしょ。

 それなら大丈夫。

「実はね、二人ともいない日が一日だけあるんだ」うちに来て欲しい日程を話した。

それでもまだ困った顔をしている。やっぱり無理かと思いかけたとき、ハルの方から口を開いた。

「もし、しても、笑わない?」

「笑わない」

「馬鹿にしたりしない?」

「しない」

「約束、してくれる?」

「もちろん」

この約束は絶対だった。神との契約にも等しい約束だ。

ハルはしばらく黙ったのち「ちょっとお母さんと話してみるね」と言った。

あたしの野望は一歩進んだ。


***


「そういうわけでママ、協力して欲しいんだ」

その日の夜、晩ごはんの後片付けをしているママの手伝いをしながら、あたしはハルが家に泊まってもいいよねとお願いしていた。

「協力するのはいいんだけど」

その協力なのだが、もしハルがおねしょしてしまっても怒らないでということだ。

「あのね、ママはおねしょに怒っているんじゃないの、千秋がこそこそと汚した下着やシーツを隠そうとするから怒るんでしょ」

4年生の時、四日続けておねしょをした日があった。四日目の朝、さすがにこれはマズイと思って隠した結果、酷い匂いが染みつき、その結果ママに酷く怒られたのだった。

 難しいところ。あたしやママはハルがうちでおねしょをしても何とも思わないけど、ハルはどう思うか。嫌だろうな。あたしだって逆の立場なら嫌だもの。おねしょをしてしまっても安心出来るようにしてあげないと。


「それに春香ちゃん、来るとしたらいつになるの?パパとお兄ちゃんが居ても大丈夫なの?」

それはダメだ。ただ友達の家に泊まるというだけじゃなく、もしかすると朝シーツに恥ずかしい地図を描くかもしれないという可能性がある以上、流石にパパとお兄ちゃんが居たらハルは絶対に来ないだろう。

 あたしとママだけならともかく、友達の親兄弟とはいえ男の人に見られたら、年頃の娘ならそんな生き恥はさらせない。

それはあたしだって同じだ。あたしもハルの家に泊まりにいくことになっても、ハルのパパが一緒だったら断っただろう。

「それなら大丈夫、この日にしようと思うんだ」

あたしはカレンダーを見せた。カレンダーにはスケジュール線が引いてあり、パパが仕事で遠くに出て帰らない日と、お兄ちゃんが部活の合宿で居ない日が記されている。それが重なる日が1日だけある。狙うはこの日しかなかった。

「呆れた、そういうことは本当にマメにするのね」

だってハルに来て欲しいんだもの。そりゃどこの日がいいか調べるなんて当然やるに決まっているじゃない。

「そういう労力をもっと勉強に使っていれば、今頃は春香ちゃんと同じ塾のコースだったんじゃないの」とママは余計なことを言った。

「それで、春香ちゃんのママはなんて言っているの?」

「それがまだ」

 洗い終わった食器を乾拭きし、給水マットを敷いたテーブルに全部並べ終えた。

聞いてみると言っていた。ハルのママなら行ってきなさいと言ってくれるだろうと期待していた。


***


 次の日のお昼時間、いつものようにコンビニに行きお弁当を食べているとき尋ねた。

「ハルのママ、どうだって?」

「そのことなんだけど」

夕方、玉川神社に来れる?と聞かれた。あたしは別にいいけどと答えると

「そこで話すね」と言ってこの話はそこで終わりとなった。

 帰りは別々だった。復習コースのあたしは早い時間に、進学コースのハルは遅い時間に塾の授業が終わる。

 あたしは一度家に帰り、夕方改めて玉川神社に出かけた。神社に到着し、少し待っているとハルが来た。

 夕方でもまだ外は明るい。まだ境内で遊んでいる子供たちもいた。昼間の猛暑は落ち着いていて、今の時間こそ外で遊ぶのが丁度いい気温だった。

 あたしたちは離れているベンチに腰掛け、どちらともなく話始めるのを待っていた。ハルはあたしの方を見ず、かぶっていた帽子を脱ぎ、指先に引っかけてくるくると回し始めた。この時間でもまだセミの鳴き声が聞こえる。

 しばらくして「千秋の家にお泊りなんだけど」ハルは口を開いた。

あたしは行きます、楽しみだね、という言葉を期待していた。


「千秋は幼稚園のとき、お昼寝の時間とかお泊り保育ってどうしてた?」

あたしの期待は裏腹に、ハルが昔のことを聞き始めた。

「あたしが行っていたところ、そういうの無かった」

そう答えると、頬を膨らませ「千秋なんか知らない、この話はもうお終い」とハルは背を向けて拗ねてしまった。

ごめん、だってそうだったんだから仕方ないじゃない。なんとかなだめてハルの機嫌をとった。

「ある日何気なく言われたの、春香ちゃんまだおむつなんだねって」

お昼寝の時間のときのことだそうだ。いつものように幼稚園の先生がハルの為におむつを履かせようとしていたとき、それを見てしまった園児から言われたそうだ。

「そこでやっとわたしだけが寝るときおむつを履いているんだって気が付いたの。

遅かったわ。みんな寝るときはおむつをするものだと思っていたのよ。だって寝たらお手洗いに行けないじゃない」


 初めて自分だけなんだと自覚した。そこからおむつは履きたくない、その結果布団を濡らす、もちろんのこと外泊は出来ないと、悪循環が始まった。

「昔、落ち着いていたから大丈夫だと思っていて、勇気を出して行った外泊先で結局してしまったの」

そこの子供達から、物干し台に干された布団を指さされ「春香がおねしょした」と言われ散々からかわれた。

 そんなことがあったから外泊すること自体が怖くなってしまったと話してくれた。

くるくると回していた帽子は両手で抱きかかえられていた。

 ハルはたいていのことだったら「そんなのやってみなきゃわからないじゃない!」と言ってなんとかかんとか及第点までこなしてしまうのだが、こと外泊の話となると「わたし、いい」と途端にテンションが下がって断ってしまう。

 なるほど、そんな過去があったのか。あたしはそこまでからかわれたことが無かったから全然想像がつかなかった。


「もう一回言うね」あたしは誓いの言葉を述べた。

「笑いません、馬鹿にしません」何度も言っている言葉だけど、何度でも言うよ。だって大事な約束だから。

「うん、じゃあ、千秋がそこまで言ってくれるのなら」

もう一回勇気を出してみる。

とうとうハルが家に泊まりに来てくれることになった。


***


 本日の復習コースの授業は午前のみ。午後からは塾の自習室に行き復習コースの勉強と、ハルから教わった勉強をしつつ、進学コースの授業が終わるを待つ。

教わったテキストは三年生分を終了し、今四年生に進んでいた。

 やってみると思ったよりもつまづいているところがあったが、ハルも通り抜けてきた基礎固めの勉強だと思うと自分も同じ道を進んでいる気がして、昔ほど勉強が苦にならなくなってきた。


「え、あの人申し込まなかったの?」

「わたしは行かないからって」

自習室は基本私語厳禁だ。だが小学生みんなが守れるとは限らない。むしろきちんと守っているほうがめずらしい。話している人達は全然知らない人。同じ学校の生徒ではなさそうだ。話の内容から今度行われる塾の合同合宿についてのようだ。

「遊佐さん、そういう時いつも一人別よね。なんか、いくら勉強が出来たってねぇ」

噂話。ハルの事だ。誰からも好かれる性格ではないことは知っているけど。

聞きたくない話だけど、一度聞こえてしまうとなかなか耳から離れてくれない。

「遊佐さん修学旅行でも1人だったんだって?」

「大部屋でしょ?なんで」

「わかんないけど、1人別部屋だったらしいよ」

「修学旅行じゃないけど、昔さぁ」

「あの」

あたしはその会話の中に割り込んだ。

「自習室は私語厳禁なので他でやってくれませんか?」

その人達は顔を見合わせ立ち上がりそのまま自習室から出て行った。けど確かにそう言っていた。「下位コースなんだから勉強なんかしなくてもいいじゃん」と。

あたしは席に座りなおし勉強に戻った。言わなくてもいいことを言ってしまったと自分でも思った。


「千秋、そういうのは事務局に行って、先生から注意して貰わないとダメよ」

どうやら自習室の件はあたしが軽率だったらしい。どこからか話を聞いたハルがあたしに塾での作法を教えてくれた。目的があって来ている人、目的が無く来ている人がいる。どうやら塾の人間関係は学校よりも複雑そうだ。


***


 ついにハルが泊まりに来る日が来た。

その日、塾の終わりはあたしの方が早い。先に家に帰って準備をする。

 パパは仕事で帰れない、お兄ちゃんは部活の合宿、今回ハルのママは不参加。本日は三人だけだ。夕方6時を30分ほど過ぎた頃、家のチャイムが鳴った。ハルがやってきたんだ。

「お邪魔させていただきます、きょ、今日はよろしくお願いします」

初めての一人外泊という事もあり、極度に緊張している。まるで初めて来たかのような堅苦しさがあった。

 7月に何度も家に来て、一緒に家で宿題をした同一人物とは思えない。

一度家に帰り、塾の荷物は置いてきて、泊まるための鞄を持ってきていた。

それなりにおしゃれしてきているが、でもどこか受け身の姿勢が感じられ、借りてきた猫のようだった。


「甘い!美味しい!」

前に来た時に用意できなかったうちの親戚のスイカが好評だ。

「でしょ。これをぜひハルにも味わって貰いたかったんだ」

暑さで乾いたのどを潤すのに冷たい飲み物と思ったが、まずはこれ。甘いものを食べたからかハルは少し落ち着きを取り戻し、いつもの調子が戻り始めている感じになっていた。7月に一緒に宿題をしていたとき、これをハルにご馳走することが出来なかったのがとても残念だった。今はまだ遅い時間じゃないので、もう少し食べても夜の心配は大丈夫だろう。


 あたしの部屋はベッドが無いので詰めれば並んで一緒に寝られる。並べるように二人分の布団をしいた。

 その夜、あたしとハルは自分たちの秘密について話した。お互い小学生になれば、大きくなればと言われ続けてきたけれど、はたしてこの厄介な秘密は治るのだろうか。今度は中学生になったら?そんなの困る。そして何も変わらずこのまま時は過ぎ、次は高校生になったらになるのかなぁ。いやだもう考えたくない。何かいい方法というのはないのだろうか。どうやって克服していけばいいんだろう。

「千秋はもう乳歯って無いよね」

そりゃもちろん。1年生くらいにはもう全部永久歯に生え変わっていたよ。

「そうね、みんな永久歯に生え変わっている。けどわたしたちだけ寝るときはまだ乳歯のままななのよ」

いつになったら生え変わるのかな。みんな当たり前のように変わっているのに。


***


「千秋、千秋、起きて」

え、誰?ハルの声、そうだ泊まりに来ていたんだっけ。

「ごめん」

「え?」

「ごめんなさい」

起き上がるとあたしの枕もとでしゃがみ込みながら謝るハルがいた。

寝床のタオルケットを剥ぐとシーツには世界地図が描かれていた。

「そんなに見ないでよ。これ以上かっこ悪いところ見せたくないんだから」

ハルの声は半ばいじけた感じだった。

「千秋は?」

こういう時に限ってあたしは空気が読めず、シーツは乾いたままだった。上手くいかないものだ。

「もう、なんで千秋はしないのよ!」

枕がポスッと背中に当たった。


「じゃあ、あたしがしたことにしよう」

「え?でも」

言わなきゃバレないから大丈夫だって。早くと言って、濡れたパジャマのズボンと下着を脱ぐように促した。

 おねしょシーツのおかげで敷き布団は濡れていない。これ使ってと、あたしが使っていたタオルケットをハルに渡し下半身を隠して貰い、あたしは汚れ物を持って出る。

 いまだよ。あたしの部屋から二人でこそこそとお風呂場へ向かった。

すぐシャワーを浴びて終わらせてしまえばママに気が付かれないよ。ハルのおねしょはノーカウントに出来るさ。気配を消して台所脇を通り抜けようとしたときだ、

「千秋?」

ママはあたしたちの気配にすぐに気が付いた。

「あんた、またこそこそと。怒らないからおねしょしたらちゃんと言いなさいと何度も」と言ってママが見たのは、下半身をタオルケットで隠しているハルと、汚れた物を持っているあたしだった。

 みんなとても気まずかった。湿度の高い、じめっとした夏の暑さを思わせるような重たい空気が漂った。

「すみません、あの、わたしなんです」消えるような声のハルはそのままうつむいてしまった。

「あ、その春香ちゃん、ごめんなさいね」


***


「すみません、本当にすみませんでした」

朝ごはんの席でハルはずっと小さくなっていた。

あたしもママも「いいから気にしないで」と言ったのだが、ハルの耳には届いていないようだ。

 今朝の朝食はフレンチトーストにコンソメスープ、ツナサラダにヨーグルト。

うちではあまり見ないパンの朝食はママがハルの為に用意したものだ。

「ほらこれ食べて元気出して」

勧めるけどハルは喉を通らないくらい気が滅入っている。ここで残したらさらに失礼を重ねていると思われているのかもしれない。無理して食べている様子が伝わってきた。

 朝ごはんの後片付けが終わると、午後からの塾の準備の為、ハルは一旦家に戻ることになっていた。パジャマと下着は家でちゃんと洗うからと、さっと汚れを洗い流しただけで袋に入れ鞄に詰めた。

「送っていくよ」あたしも一緒に出ようとしたが、大丈夫、1人で帰れるからと断られてしまった。

「お世話になりました。あの、本当にご迷惑をお掛けしました」そう言って出ようとしたとき、「春香ちゃん」ママが呼び止めた。

ハルはその声にビクッと肩を震わせる。あたしはハルとママを交互に見た。

「春香ちゃん。また泊まりに来てね。今度はもっと美味しいもの用意しておくから」

少し間をおき、「ありがとうございます」と小さな声で返事をしてくれたけど、逃げるように出て行ってしまった。


 ハルが帰った後、あたしはママにそこに座りなさいと呼ばれ居間に正座させられた。

「千秋、あんたなんで今日はおねしょしなかったの?」

「ええっ?」

「春香ちゃんだけ可哀そうだと思わないの?」

なんでだよ、おねしょしなかったから怒られるだなんて!

理不尽だと思ったけれど、あたしのわがままが招いた結果だ。

 あたしは、ただいたずらにハルの自尊心を折ってしまっただけなんじゃないかと思い申し訳ない気持ちで心が痛んだ。


***


「おい千秋」

その日の午後、塾の自動販売機前で声を掛けてきたのは学校で同じクラスの男子、畑山だった。

 こいつも同じ塾に来ていたのか。どうやら進学コースには夏季コースがあるらしい。前にクラスでちょっとしたいざこざを起こして、その時ハルのことを「おもらしはるか」って馬鹿にしたやつだ。

「なに?あんたも同じ塾だったの?」

勉強は出来る方で顔もそこそこだが、あたしはあまり好きじゃない。

そう怒るなよと言い、今日、ハルが授業中ずっと変だったことを教えてくれた。

「いつもと違って全然声は出ていないし、先生の話も全然話聞いていなかったという様子だった」

 心当たりあるか?何かあったのか?お前なら知っているだろうと聞かれたが、うん、まぁ色々とね、とだけ答えて具体的なことは何も言わなかった。

 やはり友人に家でやってしまったことはハルに相当悪影響を与えたようだった。廊下で教室を移動しているハルを見かけた。声を掛けると普通に返事を返してくれた。

いつもより憂鬱そうな雰囲気だったけど、なんとかハルと話せた。

よかった、ぎくしゃくした関係になってしまったらどうしようと思っていたんだ。


 さらに物事はなかなか上手くいかないもので、ハルの心配ばかりしていたからか、

翌朝はあたしが一日遅れのおねしょをしてしまった。

「もう!あの時一緒にしてくれればハルはあんなに落ち込まなくてすんだのに!」

そんな事を思いながら朝シャワーを浴びていた。

ママがなんで一緒にしてあげなかったのと言うけど、そんなの無理だよ。あたしだって好き好んでしているわけじゃないんだから。


***


 その日、塾の廊下で女子三人組に声をかけられた。

「ねぇ、あなた、遊佐さんの友達よね?」

誰だっけ?手に持っているテキストが見えた。ハルと同じテキスト、ということは進学コースのクラスの人か。

「あのさ、遊佐さんの噂って本当なの?」

噂?なんのことだろう。

「遊佐さんって、おねしょするから修学旅行で1人別部屋だったんだって」

その人はバカにするように笑った。

「だから進学コースの合同合宿に来ないんでしょって、みんな言ってるよ」

あたしの頭は突然の事態についていけていない。みんな言っているだって?そんな馬鹿な。

「え、なんで…」

なんで知ってるの?は言ってはいけない言葉だ。これを言ってしまったら最後、あたしはその出来事を認めたことになる。


 相手は状況からの憶測で、子供じみた適当な嘘の悪口を言っているだけに過ぎない、はずなのに、その憶測が当たっているから言葉にうっかり釣られそうになってしまった。

 あくまで知らないふり、「適当な憶測で物事を言わないで」を通さないと。

「なんでそんな変なことを言うの?あたし知らないよ。それにそんな噂聞いたことない」

 合同合宿は任意参加だ。行かなくても問題はない。

「進学コースの合同合宿に行かないのは知っている。それに両親にお金の負担掛けたくないからじゃないの」

「遊佐さんってすごいマンションに住んでいるらしいじゃない?」

「お金持ちなんじゃないの。おかしいよね」

なんでこんな話をあたしにするんだ?思い出した。この人たち自習室でハルの噂をしていた人だ。あの時の仕返しとハルに対する嫌がらせか。

 あたしがハルと仲いいからって本人には言わず、あたし相手に好き勝手なこと言う嫌がらせだ。


 難しいのはこんなに適当な憶測なのに、実は正解だからうっかり言葉に引きずられて言い逃れの出来ないことをポロっと言ってしまわないかという事だ。

「見た人がいるって。修学旅行で1人別部屋だったんだってね」

「怪しいよね」

あたしは怒りを我慢して、もう一度言う。そんな噂知らないし、そんなこと無いよ。

「だってあたしハルと同じ部屋だったし」

「いつも一緒よね、もしかしてあなた、遊佐さんのお世話係なの?」

「遊佐さん、復習コース子にお守りされているの、ウケる」

「お子様だから下位コースの子にしか相手にされていないんじゃない」

だめだ相手のペースから逃れられない。何を言っても言葉尻をとらえられ言い返される。これじゃあ適当に嘘をついても、おかしいって詰められるだけ。

「ねぇ、じゃあ何で来ないのよ」

 ここは学校じゃない。話を聞いてくれるリエ先生もいない。揉め事は起こさない方がいいに決まっている。防戦一方だ。どうすればいい?ここは耐えるしかないのだろうか。


「何やっているの」ハルの声がした。

「わたしの友達に変な事言わないで。言いたいことがあるなら直接わたしに行ったらどう?」

その声のトーンは学校でよく聞く、凛とした頼もしさを持った学級委員の声だった。

声の力で相手を制圧しようとしている。

「あなたたち二人、修学旅行で別部屋だったんだって。何していたのかなって」

「三人よ」

強い力の声。「修学旅行で別部屋にいたのは三人よ」

虚勢は簡単に崩された。言っていることは謝りであると指摘し、いい加減なことを言っていると印象付ける。

 けど「三人」って。あの部屋にはあたしとハルの二人だけだ。嘘でごまかすつもり?でもハルは自信を持って、とても自然な言い方をしている。

「なんかそれっぽい事言って。いいがかりにもほどがあるわ」

ハルは止まらない。

「進学すればこれからだってお金がかかるのよ。いいわねあなた達は親に頼りっきりで。親の負担も考えないなんて、あなた達こそお子様じゃないかしら。それともお金の話はして貰えないほど甘やかされているの?」

 ハルは勢いで相手を崩しにかかった。会話の主導権はいつの間にかハルが握っていた。

「だからなんで別の部屋に」

「千秋が夜中騒いだからだよ」

畑山が言い合いに入ってきた。

「千秋が修学旅行だからって浮かれて騒いで問題になったんだよ」

おい、こいつなんてことを言うんだ。

「うちのクラスの問題児だからな。他のクラスの問題児達も集められたんだ」

「そうだよな、千秋」

「え、ああ、うん、ハルは先生のサポートとして離れの部屋であたし達を見張っていたの」

「え、でも」

「なんだうちの学校に喧嘩売るのか」

相手三人組は顔を見合わせる。

「なにムキになっているの、馬鹿じゃない。もういい、行こう」そういってその人たちは行ってしまった。


「千秋、大丈夫!ひどいことされなかった!」

それまでの態度とは一変し、ハルはあたしの手を取ってオロオロとし始めた。

大丈夫だって。まぁ下位コースとか言われちゃったけど、それは本当の事だし。

「それより」畑山を見る。

「なんであたし達を助けたの?」

畑山は大きくため息をついた「お前さぁ、同じ学校で同じクラスじゃないか」

「それだけ?」

「それだけだ。あとうちの学校が馬鹿にされているようでムカついたんだよ」

同じクラスに加えて、うちの学校が馬鹿にされているからという考え方は非常に単純で男子っぽい。でも今回はその単純な考えだから助けて貰えた。

「そうか、ありがとう。助けてくれて」

とりあえずお礼を述べると、

「これでいいだろ、頼むからお前ら二人から言ってくれ。あの件以来クラスの女子たちが俺を避けるんだよ。もう許してやってくれって」

そうだったの?女子で畑山を取り囲んだあの出来事はまだ続いていたんだ。

あたしとハルは顔を見合わせて笑った。


***


 今日はもう帰ろうということになり二人で塾を出たんだが、どちらともなく玉川神社へ寄り道しようとなった。

神社に着くと二人で顔を見合わせて笑い出してしまった。境内で遊んでいた子がこっちを見た。響き渡るほど大きい笑い声だったようだ。

「すごい、なんで分かったんだろう?」ハルは憶測の正確さに驚きの声を上げた。

今なのか昔なのかわからないけど、あっちの学校で同じような人がいたのだろうか。

伝え聞いた話なのか分からないけど、ハルもきっと同じなんだろうと思いこみでのでっち上げ話しなんだろうけど、まさかここまでぴったりとは驚きだった。

「あまりにも正確だからなんで知っているの?ってあたし言いそうになっちゃったよ」

「わたしもよ」

当てずっぽうだけど、ここまで憶測だけで当てられるのはある意味凄い勘の持ち主かもしれなかった。


 でもなんであんなことを言ってきたんだろう。自習室での仕返しだろうけどそこまで根に持たれることだったかな。

「ストレスでしょ。夏休みに勉強なんかしたくないからって、勉強している人を妬んで僻んでいるだけの人よ」

ハルはばっさりと相手を斬った。

「わたしと楽しそうに勉強していたからね。千秋が狙われたのかも。ごめんわたしと一緒に居るから」

ハル、謝るの無しだよと伝えた。

「でもこの後大丈夫かな?」そうあたしが心配すると、

「人にやらされているというか、自分の意志でしない勉強なんて長続きしないし、

夏休みが終わるころには、塾、辞めているかもね」とまたしてもばっさり斬った。

 もともと学校で授業を受けるだけでそれなりに勉強が出来てしまうからって進学コースに来れる子もいるけど、そういう人って勉強するっていう習慣が無いからだんだんついていけなくなるのよと進学コースの内情を教えてくれた。

「でもハルだって生まれつき頭いいじゃない」

「そんなことないわ。だって1年生の時は、足し算するとき両手の指を使っていたのよ」

「嘘だぁ」

「本当よ。わたし要領が悪いから、全部馬鹿正直に頭から進めて行かないと何にも身につかないの」


 嘘と言えばもう一つあった。

「あの時"三人"って、そんな嘘をとっさにつけるなんて。あれ凄かったよ」

あたしはハルが嘘ひとつで簡単に相手を崩し始めたことを褒めたのだが、

「嘘じゃないわよ、三人だったじゃない」

あたしはハルが何を言っているかわからなかった。

「だって、リエ先生がいたじゃない。あそこにはいたのよ、三人」

 嘘を付くとその人の目の動きなんかでバレる。けれど少し状況を都合よく解釈し、さらにそれが真実があれば自分もそれを都合よく解釈してしまって嘘は言っていないことから、本当のことを言っているような行動に出れる。

 あの人たちが適当なことを言っていたから、こちらが少し間違った解釈でも真実であるかのような内容で自信を持った言い方が出来れば、相手はすぐにボロが出る。

だから本当は違うんだけど、そうじゃない都合のいい言い方をしたのよと手品の解説のような説明をした。

「わ、ずるい」

「ずるくないです」と舌をだしていたずらっ子のような笑いをハルはした。

「でも、わたしあんなふうに思われていたんだ。わたしもう少し周りに気を付けないといけないね」

そして「そうか、人に言われてはダメね。自分から進んで動いていないならダメだものね」と独り言を言った。


***


 翌日、コンビニのイートインスペースで一緒にお昼を食べているときハルからお願いされた。

「千秋、お願いがあるの。また私を千秋の家に泊めて欲しい」

まったく予想もしていなかったお願いだった。むしろ千秋の家にはもう行かないと言われても仕方がない結果だったのに。

「わたし考えたの、このままじゃいけないって。それになぜダメだったのかだけど、この間は自分の意志で積極的に動こうとしなかったからダメだったんじゃないかって」

いつまでも過去に捕らわれてはいたくない、それに応援してくれる千秋がいるから頑張れそうな気がする。

「お願い、もう一回わたしにチャンスを頂戴」

あたしはもちろんいいのだけど、ママは許してくれるだろうか。


「と言うわけでママ、もう一回ハルが泊まりに来てもいい?お願い」

晩ごはんの席で昼間ハルに言われたことをそのまま伝える。

「ママはいいけど、パパとお兄ちゃんはどうするの?二人ともいない日なんてもう無いでしょ?」

いや、ハルの要望では二人とも居て欲しいということだった。特別なことはいらない。普通の千秋の家に行きたい。

「どちらかというと春香ちゃんにはお世話になりっぱなしってなんだから、うちに来たいというなら大歓迎よ。沢山おもてなししないと、むしろ失礼でしょ」

それに。

「それに千秋がしたと思えば気が楽よ」そんなママが笑いながら言った一言に対して、

「そうそう、千秋がしたと思えば大丈夫だよ」

「千秋がしたと思えば誰も気にならないから安心しろよ」

パパとお兄ちゃんがそう続けて笑った。

ちょっと、そういう冗談あたし全然面白くないんですけど。


***


 千秋のわがままはわたしが家に泊まりにくること、ということはわたしのわがままも言っていいということだよね。

塾にあるジュースの自動販売機前がお泊り会の作成会議室になっていた。

わがまま?もちろん言っていいよ。何でも叶えましょうと返事をする。

そう言うハルは泊まった時にやりたいことリストを見せてくれた。

「これ何?」と聞くと、泊まった際にやりたいこと、やってみたいことを纏めたものだそうだ。

 こうして箇条書きにして、出来たものに「達成」と書き込んでいくと一目でわかるし、達成感もあるからモチベーションアップにもなるのよと教えてくれた。

 そういえば前回はあたしのわがままだけ言って、ハルのしたいことは何も聞いていなかった。自分の事しか考えておらず、本当にあたしのわがままに付き合わせただけ。もしかすると二人がかみ合っていなかったから、何もかも上手くいかなくて失敗してしまったのかもしれない。

「千秋、確認してもらえる?」と言われ、ハルのやりたいことリストを見せてもらう。箇条書きにしてあるけど、実現不可能なものもあるだろうから、まず最初は出来るか出来ないかの相談をしようという事だ。

 なるほどハルはこんなことがしたかったのか。

最後に書かれたやりたいことに目が止まった。ハルの顔を見る。それはやりたいことじゃなくて目標。でも書いたからには実現したいと言った。


 そして改めてハルがあたしの家に泊まりに来た。

「こんばんは、本日は一晩お世話になります」

いつものハルだった。前回とは違い、夜の事を心配して自信なさげな様子など一切なく、今度は明るい感じのワンピースにサンダルを履いていて、今日の日を楽しみにしていましたという雰囲気がこっちにも伝わって来る。

「待ってたよ、さぁ上がって」

あたしとママはもちろん、今回はお兄ちゃんとパパも居る。坂井家全員でハルを出迎えた。

部屋に荷物を置き、一息ついたところであたしとハルで晩ご飯のお手伝いに取り掛かった。

「これ母からです」と言ってちょっといい感じの唐揚げにふさわしい若鶏のモモ肉を出してきた。これに夏野菜を加えて揚げ物を作る。あたしにお兄ちゃん、ハルを含めて育ちざかりが三人もいる。夏の暑さに負けないようボリュームたっぷりの晩ごはんが出来上がった。

 出来合った料理を居間のテーブルに並べみんなが揃うとハルが瓶ビールの栓を開け、さぁどうぞと言ってパパとママにお酌する。

「春香ちゃん、いいのかい?」といって二人はご相伴にあずかった。

「うちでは母がお酒を嗜むのですが」

そうハルのママはお酒のペースが早い、それに加えて量が多い。なので人からのお酌なんてまどろっこしいそうだ。

 わたしの家じゃ出来ないんですと言って食卓を和ませた。

晩ごはんの後片付けが終わるとそろそろいい時間になってきた。


「じゃあそろそろ始めようか」

「持ってきたよ」ハルはトートバッグから花火のセットを取り出した。

ハルのしてみたいことリストに「庭で花火」とあったのだ。

「花火?」

「そう」

家の庭で花火をする。あたしは全然ピンとこなかったけど、ハルの家はマンションの12階だ。見晴らしはいいかもしれないが、庭というものがない。

 マンションによっては専用庭、共用庭というものがあるそうなんだけど、花火はご法度だ。その点あたしの家は先祖代々の庭付きの家。花火なんていくらでもできる。

とはいっても住宅地、あまり大きい音が鳴ったり、家庭用でも打ち上げ花火は難しい。

 あたしとハルは庭に出て、庭に置いている水まき用のバケツに水を汲み、花火が入っている袋を開けた。最初はどれにしようかと迷いながら選ぶ。

 ハルが線香花火を手に取り、あたしがロングノズルライターで火をつけてあげると

花火の燃え上がる輝きを静かに見つめていた。


 知ってはいたけど、こうやって雰囲気のある中で見るハルはよりとびぬけて可愛い顔をしていた。もしこの子が都会で生まれていたら、あたし達が見るのはテレビの画面越しだったかもしれない。

「どうしたの?千秋も早くやろうよ」

 あたしも花火に火をつけた。夜のはじめ頃になっても、夏の夜はまだ暑い。線香花火が燃え尽きると今度は吹き出し型の花火に火をつける。

 大きな火花を上げて燃える花火に、マンションじゃこんなの出来ないよとと言って、はしゃいでいるハルのそんな姿に見とれていたなんて、ちょっと恥ずかしくて言えなかった。


***


 あたしがお風呂から上がり部屋に戻ると、先にお風呂から上がっていたハルは

お泊り会だというのに塾のテキストを開いて勉強をしていた。

あたしが戻ってきたことに気が付くと、いつもと違うことをすると調子がくるっちゃうからねと言ってテキストを閉じた。

この間と同じように部屋には二人分の布団を並べて用意した。

じゃあ最後の私のやりたいことお願いするね。

「本当にやるの?」

「わたしのわがまま叶えてくれるって言ったのは千秋じゃない」

そういう言と、ハルは化粧品と数本のブラシを用意した。

 そこに座ってと言ってあたしを座らせると、ハルは後ろにまわり、シャンプーして濡れたあたしの髪を触り始めた。

 最初は荒めのコームでとかし、家から持ってきたトリートメントを付けてドライヤーで乾かしながらブラッシングを始める。人に髪をとかしてもらうのはなんだかむずむずして恥ずかしくて落ち着かない。

「だって千秋の髪ってもう少しブラッシングしたらもっと綺麗になるのよ」

「そう?」

「千秋、今でも可愛いけど、もっと可愛くなるわよ」

 そうしてブラシとドライヤーを交互に使い分け、時間を掛けて何度もあたしの髪をとかした。いくつかあったやりたいことリストの中でこれを見たときは驚いたが、その中でも一番やりたいことだったらしい。

 手鏡でその様子を見る。自分の手で触れてみると髪はサラサラになって、とても丁寧にブラッシングしてくれたことがわかった。


「千秋、ありがとう。今日はとても楽しかった」

エアコンをかけつつ、冷えない様にタオルケットは足の先が出るくらいにしておく。

さて、肝心の夜なのだが、いつもどうしていたっけ?と聞かれた。

 折角の夜だからと遅くまで話していて、いつの間にか寝ていて、あとは朝までそのままだよと答えると、

「それよ!」

ハルは大きな声を出した。

「わたしたちは勘違いしていたの。夜中に何度かトイレに起きて朝漏れていなければそれで成功じゃない」

そうするとハルは枕元にある目覚まし時計を手に取り時間を合わせた。

「千秋、わたしたちこの時間に起きるわよ」と設定した時間をあたしに見せると、おやすみと言って目を閉じてしまった。

 え、え、ちょっと。本日のやりたいことを達成したハルは実に満足そうな表情だった。


 しばらくして目覚まし時計が鳴る音、それに「千秋、起きて時間よ」と声が聞こえる。眠い、今何時?まだ夜中だよ。

「何言っているの、お手洗い行くから一緒に来て」

あたしはハルに手を引かれ、半分寝たままで一緒にトイレに行った。

「じゃあ次はこの時間だから」ハルはまた目覚まし時計を設定しあたしに時間を見せた。

 修学旅行の時は1回だったからダメだったのよ。それならもう1回行けば大丈夫と言い、またすぐに寝てしまった。

 次にトイレに行ったのは多分明け方だったんだろう。あたしはハルに連れられてトイレに行った覚えがぼんやりとあった。


「千秋、千秋、起きて」

え…、誰…?ハルの声だ、そうだ、泊まりに来ていたんだっけ。眠い。夜中に何度も起きたからだ。お願いもう少し寝かせてそう言うと、「ごめんなさい」と謝る声が聞こえた。

 あたしは飛び起きた。夜中何度もトイレに行ったのにやっぱりダメだったのか、今度こそ大丈夫だと思ったのに。ハルは神妙な面持ちで布団に正座をしている。

 眠い目をこすり、無理やり目を覚まさせた後、気にしないであたしがしたことにすれば大丈夫だからと言いかけた途端、「騙されたわね、千秋」と笑い出した。

 訳が分からないでいるあたしはハルの寝床のタオルケットを取ると、シーツに濡れた跡は無く乾いたままだった。

「もう!」あたしはハルにタオルケットを投げつけた。ごめんごめんと言ってハルは笑った。あたしも笑った。とうとう外泊でしなかったんだ。やったぞ!大成功じゃないか。


***


「おはようございます!」

夏の青空のような、明るく、すがすがしく弾んだ声の挨拶が台所に響いた。

そんなハルの声にパパもお兄ちゃんもつられたのか、いつもより明るく大きい声で挨拶を返してくれた。

「朝食の準備、わたしも手伝います」

そんなハルの様子にママだけは驚いた顔をしていた。

 今日は台所じゃなく居間でみんなで食べようかとパパが提案すると、テーブルに並べられていた朝ごはんを持って移動し始めた。

 ママがあたしを手招きで呼び寄せる。

「なに?」

「ちょっと春香ちゃんどうしたの?朝からあんなにハイテンションで」

ママはよく知っているハルと様子があまりにも違うから気になるらしい。

「どうって、今朝しなかったからだよ」

さも当たり前という口調であたしは答えた。

「しなかったって、おねしょしなかっただけであんなに違うの?」

パパもお兄ちゃんも朝のハルは見たことがないから元気のいい子として受け取っているが、ママは朝はちょっと憂鬱でけだるげな雰囲気のハルを知っている。だからこそ驚いたのだろう。

 それに加えて今回はついに外泊でしなかったという大きな出来事があるから、いつも以上に上機嫌だった。

 あの様子で本人は自覚が無くて、いつも通りだと思っているんだよと説明すると、

ママは納得したのかどうなのかよくわからない頷きをした。

「可愛いでしょ」と言うと、「何言っているの、おねしょしたって春香ちゃんは可愛い子よ」とママはあたしと同じ感想だった。

ハルの言葉を借りれば他の人には小さいことかもしれないけど大きな前進があったのだ。


***


「この度はお世話になりました」

送っていくよと一緒に家を出ようとすると、「春香ちゃん」とママが呼び止めた。

「また泊まりにおいで。みんな待っているから」

「はい、ありがとうございます」

その声は朝と同じく、夏の青空のようで明るかった。


 玉川神社まででいいというのでそこまで並んで歩く。

「やったじゃない。とうとう外泊でしなかったんだよ」と勝利の気持ちを聞こうとしたがハルは首を振った。千秋の家ではまだ練習。だから今回のはまだ成功のうちに入らないと。わたしの秘密を許してくれない人ばかりのところで出来たら、その時こそ成功かなって。

 そうか。大丈夫だよ。次だって成功するさ。

「そうだ忘れていた。ちゃんと書かなくちゃ」とハルは鞄からやりたいことリストとペンを取り出し、やりたいことリストの最後に書かれていた「こんどはしません」という一文の最後に力強い字で「達成!」と書き加えた。


【続く】

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