第2話 あの夜をもう一度

乾いて、お願い、お願いだから。


 ハルどうしたの?

あたしは覗き込むとハルはドライヤーを使って濡れている布団を必死で

乾かしていた。見覚えのある部屋。ここは修学旅行で泊った離れの部屋だ。

おねしょしたの?

あたしがそう言うとハルはこっちを見た。泣きそうな顔、ドライヤーを持つ手が

震えている。

見ないで、お願い誰にも言わないで。訴えかける声は今にも消えそうだった。

大丈夫だよ、ほらあたしも同じだから。そう言うと自然におしっこが流れ出て来た。パジャマにべったりと張り付く感触がする。

あたしもおねしょ治ってないんだ。一人で抱え込まなくていいんだよ。


 枕もとの目覚まし時計が鳴っている。

目が覚めると修学旅行で泊った離れの部屋ではなくあたしの部屋だった。

またあの夢だ。

修学旅行から帰ってきてから何度もあの夜の事を夢みていたのだ。

友人がおねしょの布団を必死に隠そうとして、あたしもだよといっておもらしをする。なんでこんな夢を見るようになったのかな。

ため息をついて掛け布団をめくると濡れているのは自分の布団だった。


***


「え、千秋今日もなの?」

二日連続でおねしょをしてしまったあたしを見てママが驚く。

最近は落ち着いてきていたのにどうしたのかしらねと心配そうな顔をした。

洗濯機があるお風呂場に汚れ物を持って行き、シャワーで体を洗っているとママが着替えを持ってきてくれた。

修学旅行から帰ってから、おねしょをする時に見る夢がすこし変わった。

今までは楽しく明るいところでおしっこをしてしまうという、あたしらしいアホな夢だったのに、最近は暗く怖い夢ばかりだ。何でだろう、何でそうなったんだろう。

さらに二日連続はショックだった。落ち込み方が全然違う。どんどん酷くなっている気がする。持ってきてもらった服に着替え、台所に向かう。今日の朝ごはんは鮭の塩焼きだった。

「食べたくない」そういうと、朝ごはんを用意してくれたパパが少しでも食べないとだめだぞと心配してくれるが、食欲が全然ない。

食べられるところまででいいからと言うので、仕方なしにお味噌汁を少し口に含んだ。

「ごちそうさま」結局朝ごはんはほとんど残してしまった。

おねしょしても朝ごはんは全部食べる元気だけはあったになぁ。

力のない声で「いってきます」といい学校に向かう。その足取りはいつもより重かった。


***


「千秋、おはよう」

学校に到着し、教室に入ると今日はハルの方が先に登校していた。挨拶と一緒に小さく手を振ってくれる。

「おはよ、ハル」あたしも挨拶をし笑って手を振った。

修学旅行前と違いハルこと、クラス委員、遊佐春香とは積極的にかかわりを持つようになった。ハルは以前より雰囲気が少し明るくなった。とっつきにくく角があった態度がいくぶんか丸くなっている。学校一のいや学校始まって以来の成績を持った才女はそのままで、明るくなったハルは大人の綺麗さより可愛い感じがする。

男子にモテたりするのだろうか?

いや、ハルのママの影響であまり近寄られることはなさそうだ。

ハルのママはおっかなく、とても勉強に厳しいということで噂さされている。

あたしはそれがハルの嘘だということを知っている。

勉強が出来ると疎まれるので、そうではなく親に勉強を強いられているということにしておけば、やっかみを持たれずにいてくれるということだ。

そんな娘があたしと同じで、実は6年生になってもまだおねしょが治っていない。

とんでもないギャップの真実だ。だがこれはごく一部しか知らない大きな秘密だった。


 ハルも修学旅行以来おねしょが酷くなっていたりするのかなと気になった。

席に鞄を置いた後、自分の席で1人、一時間目の授業の準備をしているハルのところに行く。

「ねぇハル、今日どうだった?」

あたしは昨日のテレビ見た?くらいの感覚で聞いた。

「んー?なにが?」

「なにがって、今日した?おねしょ」

ハルが慌てる。ちょっとそういうのやめてよと小声で言う。

慌てた様子が目を引いたのか、周りにいた子がどうしたの?と言ってきた。

今の話、聞かれたと思ったんだろうと思ったのか、ハルが口ごもる。

「今日の宿題やってきた?って聞いたの」とあたしは適当な嘘をついた。

「宿題?あったっけ?1時間目の国語に宿題ないよね」

「そしたらハル、宿題あったっの!って、慌てちゃって」なんだそうだったのか。

その場は上手くごまかせた。


***


 授業中はずっと上の空だった。今朝見た夢が頭から離れないでいた。

はぁ。

「坂井」

困ったなぁ。

「坂井」

「千秋、当てられてるよ」

授業はとっくに始まっていた。あたしは先生の話を全く聞いていなかった。

「あ、えっと、びしょ濡れです」

頭に残っていた言葉をそのまま口にしてしまった。

「なんだ寝ていたのか。今は国語の時間だ。それに今日は雨じゃないぞ」先生は呆れていた。

クラスのみんながどっと笑うなか、ハルだけは笑わずこっちをじっと見ていた。


 授業が終わるとハルが教室を出ようと声をかけてきた。

二人で秘密の話をするときは、教室から出て離れたところにある屋上へ向かう階段の踊り場だ。

誰も来ないし、たとえ人が来てもすぐにわかるので人に聞かれたくない話をすぐに止めることが出来る。

「ねぇ、どうしたの?今日変だよ」ハルはあたしの顔を覗き込みながら言う。

うん、あたしは生返事をした。

「悩んでいるの、その…のことで」と口ごもりながら話す。

「朝もそうだったし、あの、濡れているって、そのね」

言葉を選ぶと言うよりも特定の単語を避けるようにしながら聞いてくる。

あの言葉でおねしょを連想したのは同じ悩みを持つハルだけだろう。

「相談にのるよ、あまり役に立てないかもしれないけど」と言い出したとき、短い休み時間が終わってしまった。

教室に戻ろうとあたしから話を打ち切った。

次の授業が終わるとハルが一枚のメモ用紙を持ってきてこう言った。

「これわたしの家の電話番号。千秋の家のも教えてよ、夜8時以降なら大丈夫だから」


***


その日の夜8時を過ぎたところで貰ったメモを見ながら電話をかけた。初めてかける家への電話は緊張する。電話に出たのはハルのママだった。あたしは挨拶をしてハルを呼んで貰った。電話から聞こえる声が変わる。修学旅行から帰って来て以来見ている夢の事を、そこにハルが出ていることは言わず伝えた。

「修学旅行の怖い夢かぁ」

曖昧過ぎて原因はこれ、ということは何も浮かばずにいる。

「もしかして旅行中、何か心の傷になるようなことがあったとか」

心の傷になるような出来事?思い返してみても何も思い浮かばない。

「楽しくなかった?修学旅行。わたしは千秋と仲良くなれたから行ってよかったと思っているけど」

修学旅行は他の生徒と比べてあたしたちは驚くような出来事があったけど、怖かったことなんて何もない。そんなことない、あたしだってとっても楽しかったよと話した。でも話聞いてくれてありがとう、心が少し楽になったよそう言って電話を終えた。


***


 夢の事、ハルの秘密の事、ママに話してみようかと考えた。自分で抱え込まず人に頼ってみよう。あたしのはいいけど、ハルの秘密の事は勝手に話すわけにはいかない。

「ママはあたしのおねしょのこと、誰かに話したことある?」

ハルとの電話を終えた後、居間でお茶を飲んでいたママに聞いてみた。

「リエ先生にじゃなくて、アドバイスをくれそうな人にとかさ」

ママは、無いわね、無いと言うよりする相手がいないと言った。

だいたい千秋のそんな大事な秘密をママが勝手に話しても良かったの?と聞き返されるとそれは困るなんで勝手に人に話したの!って怒っただろうと答えた。

それに仮に誰かにアドバイスを求めても難しいんじゃない、だって当事者じゃないし。他人事でしょうしと言った。

「自分の経験から話そうとして、そんな事なかったとか、他愛もない子供の失敗でしょと言って、そんなこと気にするんじゃないよという一方的な考えの人もいるかもしれないしね。でもそれって相手の事をあまり考えず、人が悩んでいることを、自分は違うから大したことないって勝手にそうと決めつけていている身勝手な考えね。

話すのだったら、まずその人がどういう考えをもっているか慎重に観察してから話してもいいと思うわよ」

あまりピンとこなかったけど、ハルの事をママに話しても大丈夫だと思えた。

飲み終わったお茶を片づけながら

「むしろ千秋はママが何か失敗したこととか、友達に面白おかしく話していないわよね」と言った。

大丈夫だよ、そんな事言うわけないじゃないと言ったが、あたしにはいくつか思い当たることがあった。


***


それは5時間目の授業が終わったあとに起こった。


「やめなさいって言っているでしょ!」

ハルの大きい声が教室から聞こえた。騒がしかった休み時間の教室は突然沈黙した。

なにどうしたの?廊下にいたあたしは何が起きたのか様子を見ていた人に聞く。

どうやら男子がある女子をからかっていたが、それがエスカレートしていき、その子がやめてと言ってもやめなかったらしい。それを見かねたハルが間に入って声を上げたのだ。

「畑山かよ」

畑山は勉強は出来るし運動もできるし、そこそこの顔をしている。けどそれを鼻にかけるところがあって疎ましいやつだ。畑山に立ち向かうようにハルは立ち、からかわれていた女子はその後ろに隠れるように身を縮めている。隠れているのは早川さんだ。大人しい子なので畑山に狙われたか。対峙する二人をクラスのみんなが見ている。だれも声をださない。

「なんだよ、遊佐には関係ないだろ」

「やめてといっているのに何でやめないの、いい加減にしなさいよ」

言い合いが続く。周りは固唾をのんで見ているしかなかった。畑山の方が分が悪い。なにせ嫌がる子をからかうことに正当な理由などない。謝りなさいよと言うハルに向かって吐き捨てるように畑山が言った。


「うるせーな、おもらしはるかのくせに」


え、今なんて言った?何その呼び方。

あたしは自分が大きな衝撃を受けたかのようになり、あたまの中が真っ白になった。

「知ってるか?こいつ1年の時、授業中に漏らしたんだぜ」と二人の様子を見ていた他の男子に向かって笑いながら言った。言い合いに勝てなくなったからか、相手を辱めるためだけに今起こっていることとは関係ない話を持ち出してきたのだ。

そうかあの1年生の時の話か。ハルのおねしょがバレたわけじゃない。それがわかると安心とともに怒りが湧いてきた。

「なにそれ、今なんて言ったの!」あたしはその言い合いのなかに飛び込んだ。

「千秋は関係ねーだろ」

あたしが入ったことでほかの女子たちも続いて飛び込んできた。もう誰も遠巻きに見ていない。

「なに今の、酷くない」

「というか1年の時の話でしょ、今する話じゃないよね」

畑山はもちろん、他の男子も気が付いていないようだったが、修学旅行以来あたしとハルが急に仲良くなったことで運動と勉強の大きく二つに分かれていた女子グループはゆっくりとひとつになりつつあったのだ。以前だったらあっちの出来事だから関係ないという立ち位置でいただろう。あたしも「遊佐さんの問題でしょ」といって無関心だったかもしれない。クラスの女子全員が畑山に対して圧力をかける。多勢に無勢だ、もう畑山に勝ち目はない。


「どうした何があったんだ」リエ先生がやってきた。

何でもないです、ちょっと言い合いになっただけですからと言い、その場はうやむやになった。みんなが席に戻る中、ハルだけはまるで棒になったかのようにそこから動けずにいた。あたしは許せなかった。自分が悪いのを認めたくないからとあんなひどいことを言って相手を貶めるなんて。

授業中にハル以外の女子に「放課後いい、お願いがある」と書いた手紙を回した。


***


 翌日、給食の後片付けが終わると

「おい遊佐、昨日は悪かったな。すまなかった、謝ったからな」

昨日、ハルに酷いことを言った畑山は、一方的に謝罪の言葉を投げて行ってしまった。

「え、なに?」わかっていない様子のハルにあたしは言った。

放課後に女子たちで取り囲んで謝れって言ったことを教えた。

「なんでそんなことをしたの?」

なんでって、あっちが悪いからじゃない、ハルにあんなひどいこと言って。

てっきりお礼を言われると思っていたあたしはその態度が理解できなかった。

「…余計なことしないで」

「余計な事って、そんな言い方ないじゃない」

二人の声はだんだん大きくなる。

「千秋がそんな人だとは思わなかった」

席から立ち上がりその場を離れようとしたハルの手を掴もうとした。

ハルはその手を払いのける。思っていない強さにピシャリという音がした。

「あ、ごめ…」

やったな!あたしはハルに掴みかかった。


 なにどうしたの?喧嘩。2組の女子が喧嘩してる。

昨日の言い合いより見ている人が多い、隣のクラスの子までいる。

「おいお前ら何の騒ぎだ!」

誰かが職員室に呼びに行ったんだろう、リエ先生がやってきてあたしとハルを引き離した。

「二人とも職員室に来い!」

午後の授業は全部自習になった。

「何があったんだ、昨日の言い合いが原因なのか?」

リエ先生が喧嘩の原因を聞くが、あたしもハルも口をつぐんだままだった。ちらりとハルを見る。泣くと思っていたのに、ハルは泣いていなかった。


あたしは何が悪いのかさっぱりわからなかった。

おかしいな、さっき迄今日も一緒に給食を食べていたはずなのに。

おかしいな、今日も一緒に学校から帰るはずだったのに、なんでこんなことになったんだろう。

朝のテレビでやっていた星座占い、今日は2位だったのに。なんで。


***


 次の日もその次の日もあたしとハルは口を聞くどころか目も合わせなかった。

その様子に呆れて真希ちゃんがあたしに言う。「あんた達どうなってんのよ」

「なにが」

「だってさ、それまで全然仲良くない間柄だったのが、急に付き合い始めたカップルのように毎日毎日ずっと一緒にいると思ったら、今度は大喧嘩で口も聞かないって」

ハルが悪いんだ。せっかくあたしが助けてあげたのに。


「日曜夜なのに今日は春香ちゃんと長電話しないのか」

夜、テレビを見ていると居間にやってきたお兄ちゃんが言った。

この間までずっと電話を占領していたのに、今度は電話を見向きもしなくなったからだ。それがねとママはお兄ちゃんにあたしとハルが喧嘩していることを話した。

「どうしたんだ、またお前がアホなことやったんだろう」

「またって何よ、決めつけない」でと言い、起こったことをお兄ちゃんに言った。

「やっぱり千秋が悪いんじゃないか」

なんでよ。お兄ちゃんの言い方が癇に障った。

「そもそも謝らせるようにって、春香ちゃんがそうしてくれって頼んだのか」

「そんなこと言われてないけど」

「それにその内容、1年生のときの出来事とか関係なく、他の人に触れられて欲しくないんだよ。せっかく最初は我慢してやり過ごせたのに次の日もまたその話をされた。たまったもんじゃない」

あたしは黙ったままだった。

「自分がいないところでその出来事をクラスの女子たちで話題にしていた。

今まですっかり忘れていた子達も、その呼びかけではっきりと思い出してしまったのかもしれないぞ」

あたしが話したとき、そういえばそんなことあったと言ったり、初めて聞いたという子もいた。そもそもあたしだって、あの夜にハルから聞かなかったら知らないでいたことだ。

「だってその話、あたしには自分から話したんだよ」と強く言う。

「もしかするとその傷に触れることを許されたのは千秋だけなんじゃないか。

他の人には忘れて欲しかったのに、思い出させてしまうようなことを千秋がしたから

春香ちゃんそんなに怒ったんじゃないのか。そんなつもりはなかったのかもしれないけど、知らない人に教えていたことになったんじゃないのか」


 あたし全然そんなつもりなかった。酷いことを言われているのを見て、やりかえしてやろうとしか思ってなかった。それだってあたしの腹が立ったからそうしたんだ。自分の事だけ考えていた。ハルの気持ち無視して。

この間ママが言っていた『勝手にそうと決めつけていている身勝手な考えよ』

それ今のあたしのことじゃない。わかっているって思っていたけど、全然わかっていなかった。また話題にされる事でハルがどう思うかなんて考えてもいなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」ぽろぽろと涙が零れ落ちる。

あたしはハルにしてしまった事の大きさにやっと気が付いた。


「お前汚いぞ」気づけば涙だけじゃなく鼻水まで流れ出ていた。

「ほらティッシュ、わかったら春香ちゃんにすぐに電話で謝れ」

お兄ちゃんは手を伸ばし、ボックスティッシュを取るとあたしに渡した。

それを受け取り、うん、うんと何度も頷きながら涙と鼻水をティッシュで拭いた。

「全く、垂らすのは寝小便だけにしろよな」

な、なんだって!乙女に向かってなんて口の利き方を!

ばかっ!大っ嫌い!テッシュの箱をお兄ちゃんの頭めがけて投げつけてやった。


落ち着いてからハルの家に電話したのだが、誰も出ない。

しかたがない月曜日学校で謝ろう。朝一番で謝ろう。

きちんと頭を下げて謝って仲直りするんだ。


***


 月曜日ハルは学校を休んだ。

リエ先生に聞くと体調不良で今日は休ませますと朝電話があったそうだ。

どうしたんだろう不安になった。いつも長電話する時間に電話をしてみた。

ハルのママがでて「ごめんなさい、春香、調子が悪くて寝ているの」と伝えられた。

次の日も学校に来なかった。

授業が終わると職員室に行き「ハルそんなに悪いの?」とリエ先生に尋ねた。

先生も二日続けての体調不良は気になっていたようだ。思い当たる出来事もある。

先生に様子見の電話をして欲しいと頼み込むと、そうだなと言って先生は電話をしてくれた。電話にはハルのママが出ているようだ。先生が話しているところに代わってくださいと頼み込み代わってもらった。

「あの坂井です。春香さんの友達の千秋です。そうでした初めての電話じゃなかったです。あたしハル、春香さんと、その、喧嘩して、それが体調不良の原因なんじゃないかと、だから」

どう伝えようか迷いながら話しているからか、変なことを口にしているのが自分でもわかった。

「ちょっと待ってね」電話を置いて奥で話している声が聞こえる。

「お待たせしてごめんなさい、千秋ちゃん、今からうちに来れるかしら」

ハルのうちに?電話ではなく直接会ってくれるということ?すぐに行きますと返事をした。


***


 電話でハルの家への行き方を教えてもらった。

学校から近くの玉川神社までは同じ道で、そこからお互いの家は別方向に分かれる。

大通りを超えていく、新しいマンションが立ち並ぶこの地区にはあまり来たことが無かった。たしかこの辺りと、みんな同じに見えるマンションを見まわし歩いていると、クリーム色の壁のマンション入り口前にハルが立っているのが見えた。

「あ、あの」

「迷わなかった?」

ハルはいつもの調子で聞いてきた。大丈夫と答えるとわかりずらいかもしれないのと、マンションはオートロックなので、入り方がわからないかもしれないから、ということで出迎えにきてくれたのだった。エントランスからエレベータに乗る。ハルが住んでいる部屋は12階にあった。

「こんにちは、お邪魔します」といって玄関を入ると

「貴方が千秋ちゃん。こんにちは、春香の母です」

玄関口ではハルのママが待っていて入れた。

以前会議室前で見かけた、ハルとは違って少しふくよかな体格の人だ。

こっちよ入ってと案内される。玄関から正面に見えるドアを開ける。初めて入るハルの部屋だ。洋室であたしの部屋より少し狭い感じ。座ってて、お茶用意するから、と言ってハルは部屋から出た。歓迎されているようで少しほっとした。


 フローリングの床に落ち着いた感じの茶色いカーペットが敷かれており、

入って右側の壁側の位置にベッド、左側は机が置かれその隣には本棚がある。

正面のバルコニーからの日当たりはとても良さそうで風が入ってきたら気持ちよさそうだ。机にはノートと教科書らしきもの広げられており、あたしが来るまで勉強していたのが伺える。ベッドは寝具が綺麗に畳んでおり、いつも「片づけなさい」とママから言われているあたしの部屋とは大違いだった。ベッドを見てハルは朝にここでと想像してしまった。それはとてもイヤらしいことを考えてしまった気がしたので頭の中からその考えを追い出した。

「紅茶飲める?」とレモンアイスティーとケーキを持ってくると、部屋の真ん中にある白い丸テーブルの上に置いた。

「お母さんの手作りだから口に合うといいけど」

そういって出された手作りのチーズケーキは甘さが控えめで美味しかった。

「美味しいよ、うちのママこんな美味しいの作れないよ」と褒めると、良かったとハルは言った。もしうちに来ることがあって、麦茶とお煎餅を出して大丈夫だろうかと頭をよぎった。


 テーブルを挟んで向かい合ったままだ。早く謝らないとと思っているけどなぜか口が動かなかった。許さないと言われないだろうか、そう思うと怖かったのだ。

「もういいの、大丈夫だから」ハルの方から先に口を開いた。

それに続くようにあたしも口を開いた。

「ごめんなさい。あの、あたし自分の事しか考えていなかった。本当に本当にごめん」

頭を下げる。

「大丈夫、いいのよ。わたしこそごめん。もっとちゃんと話すべきだった」

そしてゆっくり、一つ一つ言葉を選び、お互いの心に歩み寄っていった。


「ねぇ、聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」

それは日曜の出来事だった。法事で関東にある父方の祖母のところに一家で行ってきたそうだ。

「お母さんとおばあちゃん、あまり仲が良くないの」

原因はそう、ハルのおねしょ問題だ。他の孫は一切そんなことないのに、1人だけいつまでたっても治らない。甘やかしているからだとか、もっと厳しくしないからだとか、ハルのパパとママ、散々嫌味を言われたらしい。

「恥ずかしい子って言われちゃった。育て方が悪いからこんな恥ずかしい子になってしまったって。わたしがダメなせいでお父さんもお母さんも悪く言われるの」

「恥ずかしい子って、そんな。ハルあんなに勉強できるじゃない。もっと出来る人連れてきて見せてよ」

でもおばあちゃんにとってはそんなことは無価値のようだ。いつまでもおねしょが治らない孫は親に問題があるからだと考えているらしい。

それに対してハルのママ、「孫に向かって恥ずかしい子というような祖母がいて私も恥ずかしいです」と言い返したそうだ。噂通りのおっかないひとかもしれない。


 ハルはぽつりぽつりと自分の事を話し始めた。それはどんなに親しい人が出来ても本当の事は言えなかったこと。たとえ気にしないよって言われても同情の目で見られるんじゃないかと思って話せなかったこと。おしゃべりしたり、一緒にお昼食べたりする友達は出来るけど、好きな人が出来たとか、将来どうするとか、心を許して人生に関わるような話をする友人は一生出来ない気がしていること。

「私たち来年は中学生よ。しばらくなかったから大丈夫かもしれないって思った次の日の朝、シーツが濡れているのを見ると特にそう思うの。お母さんはまだ子供だからって言ってくれるけど、そんなの建前だってわからない歳じゃない、千秋はどう思う」

 答えられなかった。パパもママもお兄ちゃんもみんな優しい、それは子供だからって許されていることだろう。あたしのまわりにはあたしを許してくれる人しかいない。けれどハルの周りはどうだろう。どんなに頑張っても、でもまだおねしょしているんでしょう、この一言で全部壊されてしまう。

「家に帰ってきて、学校に行く準備をしていたら、このことが急に頭から消えなくなくなったの。1年生のあの日、保健室から教室に戻ると、おもらしはるか!って囃し立てられた。あれからそう呼ばれると足がすくむの。もしかしてクラスのみんな、わたしのことをおもらしの恥ずかしい子って思っているんじゃないかと不安になって、

そうしたら急に学校に行くのが怖くなって」


「わたし、おもらしはるかなんかじゃない」


 その涙声は絶望の淵から救いを求めているようだった。修学旅行の夜、あたしに見せたあの過剰なまでの敵意は、それまで受けてきた心無い言葉から生まれたものだろう。あの秘密はあたしが思っていた以上に人には知られてはいけない秘密だったんだ。彼女は誰かから認められようとひとり、必死で終わることのない階段を登っていた。それがある日、何者かに秘密が知られるようなことが起きたら、いつまた「おもらしはるか」と呼ばれたことへの導火線に火がつくかわからない。階段を進めば進むほど、その先には絶望の淵が待っている。そんな恐ろしさが見れた。

 そしてやっとあの夢の事がわかった。心の傷、じつは間違っていなかったのだ。

ハルの事、好きになればなるほど、傷ついている光景が何度も繰り返し思い出される。それだけショックな出来事だったのだ。それがあたしの心を蝕んでいたのだ。

絶望の淵に落ちたハルを手を伸ばして救うこと、あたしに出来るだろうか。

ハルの傍に座りなおし、そっと手を握った。今出来ることはそれが精一杯だった。

ぽろぽろと涙をこぼしているハルは、いつもと違って小さい子のように見えた。

「抱えすぎだよ。千秋だってしているくせにって思えばいいんだよ。あたしのこと馬鹿にしても、怒らないから」

あたしも涙が出てきた。

「ありがとう千秋」

今度はハルの方から手を握り返してきた。


「あ、ちょっと」

気が付けばあたしの鼻からダラッと鼻水が流れ落ちてきていた。もうなんでこういうときに。どうしてしまらないのかな。ハルがティッシュを渡してきてくれる、貰うねありがとうと言って鼻水を拭う。この間、同じように鼻水が出たときお兄ちゃんに言われたことを話した。

「ひどい」

「でしょ」

「それってわたしのことにも当てはまるのかな。だって一緒でしょ」

気が付けばもう夕方を過ぎていた。そろそろ帰らないとハルの家にも迷惑だ。

明日は学校来る?と聞くと、行くと答えてくれた。それがわかれば十分だった。

また明日学校でと言って、あたしはハルの家を後にした。


 その日、お兄ちゃんが帰宅した際、あたしはハルの分だって言ってボックスティッシュを投げつけると、不意を突かれたお兄ちゃんは顔でボックスティッシュを受け止めてしまった。

「あ、ごめ」

「何するんだバカ千秋!」とそのボックスティッシュで頭を勢いよく叩かれた。

「なにやっているのあなたたち!」とやってきたママに、あたしだけこっぴどく叱られたのだった。


***


 約束通りハルは学校に来た。

「ハル、おはよう」とあたしから声をかけて手を大きく振った。

「千秋おはよう」手を振って返してくれる。これで元通りだ。

あたしたちはそれぞれの両親にお互いの事を話すことにした。協力してもらえる大人を増やすのが目的だ。これであたしのママはハルのおねしょの事、ハルのママはあたしのおねしょの事を知ることになる。でも実は気が付いていたけど何も言わないでいてくれたのかな?二人とも修学旅行で離れ部屋で会って急に仲良くなったから、感づかれていたかもしれない。

「でも、遊佐さんのママ、勉強に厳しくて、おっかないっていう噂よ。この間会ってどうだった?ママ、仲良くなれるかしら」

とても答え難い。最初は違うけど、後ろはひょっとしたらそうかもしれない。大丈夫だと思うよとあたしは言った。そして親同士の情報連携が始まった。

あたしとハルがそうだったように、うちのママとハルのママは意気投合するのが早かった。ハルが言うには「お母さん、相談相手が出来たというか、娘の愚痴を言い合える間柄の人が出来たって言ってた」だそうだ。


***


 あたしの夢とハルのおねしょを同時になくす方法はないだろうか。居間で乾いた洗濯もの片づけているママに向かってあたし言った。

「あんた自分のおねしょも治せていないのによく人の心配ができるわね」

ママが余計なことを言う。ほんと春香ちゃんの事好きねとも付け加えた。

シーツとパジャマ、洗っておいたからと、畳んだ洗濯物をあたしにぽんと投げてきた。修学旅行での最大の危険事項であった、クラスのみんなにおねしょが知られてはいけないという事は無事回避できたけど、二人とも修学旅行でおねしょをしてしまったという事実には変わらない。もう一回二人で修学旅行の夜をやり直して楽しかった思い出に上書き出来れば、でもどうやって?やり直した修学旅行の夜、おねしょをしないでいられるだろうか。答えはわからないだった。ママから投げられたシーツとパジャマを見てそう思う。修学旅行前にパパが言っていた『おねしょはすると考えてみたらどうだろう』を思い出した。


***


「千秋、屁理屈って知ってる?」ハルは乗り気じゃない。

うーん、おねしょはしたけど楽しかった修学旅行の夜案はボツかぁ。

「それにどこに泊まるの?」

うーん、そうだなぁ。考えても思いつかない。

親同士急接近していつの間にやら食事会が開かれるようになった。この会、表向きは「年頃の娘の由々しき問題についての会議」であるため、男性は送り迎え以外の目的での参加は禁止とされている。話の内容を聞かれないよう飲食店では毎回個室の席を選んでいるが、

「ちょっとママってば!」

「お母さんその話は!」

という感じになり、ママたちの溜まっているストレスを解消する会となりつつあった。あたしたちが思っているよりママに迷惑をかけていたことを実感した。

「早く治そうね」

「わたしも努力する」

俯きながら二人で決意した。


 あたしの修学旅行の夜をやり直して楽しかった思い出に上書きするという話を聞いていたらしくハルのママが会の終盤に、突然話を切り出してきた。

「じゃあ、千秋ちゃん今度うちに泊まりに来る?」

「でも大変ご迷惑でしょう」

その大変ご迷惑は主にあたしのおねしょの事を指している。

「気にしないでください。春香だってするんですから」

「お母さん!」抗議が声があがった。

「上手くいかなくてもいいじゃないですか。失敗しても反省して、そこから何かを得るものがあればそれでいいじゃないですか。そこから何も得ようとしないというのはダメですけど。取れる責任は子供達で、取れない責任は私たちが。必要以上に傷つくことがあるとわかっていることだけ事前にやめさせましょう。修学旅行のやり直し、要はお泊り会。他の子と同じように夜中まで遊ぶことも必要でしょう」

ママは渋っている。

「その代わり、後片付けは全部自分たちやること。それが約束できるというなら、どうする?」


 ママの方を見た。ママは遊佐さんがそこまでおっしゃるならと折れた。あたしはすかさず「行きます。約束します」と返事をしてしまった。

「よし決まりね。と言いたいところだけど、ごめんね千秋ちゃん」

え?実は冗談だったの?

「本当はあなたのママを誘う口実なの」

いいワインが手に入ったの、うちでどうですか?と続けた。

「でも、だって、ばかりではなく、やってみたら違うことが見つかるという事もあるじゃないですか。たかだか洗濯物が増えるだけでしょう」

その晩はおねしょをするという前提で話が進められているので、二人とも下を向いてしまった。


***


 最初は何も思わなかったがどうも話が変だ。ハルのママ何か企んでいる。あたしに何かをさせようとしてる。会が終わって迎えに来たパパが運転する車に家に帰り、お風呂に入りながら会の席で出た話を思い返すと納得いかないところが出てきた。言い出したのはあたしだが、お泊り会は終わってみないと展開がどうなるかわからない。

あたしとママがハルの家に泊まりに行き、あたしはハルと夜中まで遊び、ママたちは遅くまで時間を気にせずお酒が飲める。朝起きておねしょしてしまっていたら片づけはあたしたちが行う。わからない。話の筋は通っているが何か腑に落ちない。逆に誰かが立てた道筋に乗せられている気がする。二人ともおねしょはしたけど、辛かったり思いだしたくない出来事じゃなく、振り返って楽しかった日になるようになのかなぁ。そうなるようこの話を持ち出したあたしがしなければならないのかなぁ。


 土曜日、とうとうハルの家でのお泊り会の日だ。ところが前日、ママから大変な要求があった。

「ねぇ、頑張ってその日おねしょしない様にならない」

無茶言わないでよ。そもそも頑張って何とかなるならあたしもハルもとっくに治っているよ。

「でもなんで」

「なんでって、よそ様の家に行っておねしょする人がありますか」

ママの言うことは何も間違っていない。とても常識的な発言だ。

でも今回はそうじゃないんだ。おねしょはしてしまうかもしれないが、楽しい夜にする。二人ともおねしょをしない。これが理想だけど、夜に何をして遊ぶか考えると可能性はとても低い。あたしだけおねしょをしなかったら、ハルは憂鬱を抱えたままになるかもしれない。あたしだけおねしょをしたら、見る夢はお泊り会で粗相をしている内容に置き換わるかもしれない。

「だから二人ともおねしょしたけど、笑い合える出来事になるのが一番いいんだよ」と言うと、まったくこの子は口ばっかり達者になってと怒られてしまった。

「修学旅行の時に買ったおむつ持って行くのよ」はーいと返事をしたが忘れていくことにした。


「じゃあ、明日の夕方に迎えに来るから」とマンション前まで車で送ってくれたパパはそのまま帰った。お兄ちゃんとふたり、どんな土曜日を過ごすのだろう。ハルのパパは今晩、駅前のビジネスホテルに宿泊するらしい。年頃の娘の由々しき問題についての会議は男性の参加が禁じられているためだ。インターホンを鳴らして到着したことを伝える。オートロックを解除して貰い、エレベータに乗って12階まで行く。こっちだよとママを案内した。

「こんばんは。本日はよろしくお願いします」

玄関口で持ってきたお土産を渡し、お邪魔しますといって用意されたスリッパを履き部屋に上がった。


 ハルは夕方には塾から帰ってきていた。

あたしとハルの二人で晩ごはんのカレーを用意し、日頃の感謝を込めてママたちにごちそうした。晩ごはんの後片付けが終わると、今日の宿題は?とママ二人に言われる。やだなぁ、楽しいお泊り会に宿題だなんて、「ハルも何とか言ってよ」と助けを求めたが、宿題とっとと終わらせましょうと言って味方をしてくれなかった。忘れていた。この人は学年で成績1番の遊佐春香さんだった。宿題をサボるなんてありえないのだ。


 ハルの部屋で宿題を終えリビングに戻ると、ダイニングではワインを開けて会議が始まっていた。リビングのテレビで夜中のバラエティー番組を二人で笑いながら見たり、テレビそっちのけでおしゃべりしたり、そんなお泊り会は深夜を向かえようとしていた。じゃあ今日はここまでと、あたしとハルが二人並んで寝られるようリビングに布団が並べて用意された。普通のお泊り会と違うのはシーツの下に使い捨ておねしょ用シーツが敷かれていることだった。


***


 ハルは水色の七分丈のパジャマ、あたしはグレーのパジャマに着替えた。

「ハルのパパに悪いことしてしまったかも?」

あたしたちは布団に入ってもまだおしゃべりを続けていた。

「だって1人でビジネスホテルだなんて」

「お父さん、お酒飲めないからお母さんのお酒に付き合えないのよ」

「そうなんだ。うちのママいつでも貸すよ」とあたしは勝手な約束をした。

「ごめんね千秋、たぶんこれお母さんの策略だと思うの」

どういう事だろう。ハルもこの会に思うことが何かあるようだ。

「千秋は今まで友達とお泊り会ってした事ある?わたしは無いわ」

もちろんあたしもなかった。親戚の家に泊まったことは一応あるけど。

「そのとき、どうだった」やけに食い気味に聞いてくる。

たまたましなかったと話すと、ハルは「なんで!」と口を尖らせた。

なんでってそんな言い方ないじゃない。

「親戚の家でおねしょしちゃったの?」あたしは聞き返すとハルは布団に潜ってしまった。布団の中でもぞもぞと動き、足をバタバタとさせた後、布団から顔を出してきた。どうやら落ち着きを取り戻したようだ。

「だからね、みんなで泊まって楽しいという思い出を作ってあげたいのかなって。

だってわたしたち同士なら気兼ねしなくていいし、それにワイン貰ったなんて初めて聞いたよ」


 修学旅行に参加はしたが必ずしも全部がいい思い出とは言えるだろうか。

親戚のうちに泊まった時もいい思い出が無い、友人同士でも楽しい夜を過ごしたという事がない。それが二人の為なのかハルの為なのかあたしにはわからなかった。二人の楽しい夜があればそれでいい。

「だからお母さんの提案につきあわせてごめんね」そう言った。

それにこの会を楽しくするのは誰でもないあたしたちだ。誰かに何かをしてもらうのを待つのではない、楽しくするには自分でどうするかを考えないといけないんだ。そしてそれで何が起きても責任は自分で取りましょうなんだ。


 ねぇいけないことしない?切り出したのはハルの方だった。

布団を出てダイニングに行き、ミネラルウォーターを2本取り出してきて、どっち?と聞いた。じゃあとあたしはマスカット味付きを手に取り、キャップを開けて一口、口にした。ハルはレモン味を開けると半分くらいを一気に飲んだ。

そうだあたしたちにとって、寝る前のミネラルウォーターなんて大犯罪だ。

あたしも半分まで一気に飲んだ。夏になりはじめとはいえ、夜中でも十分に暑い。

大人って夜中にあんなにお酒飲んでも大丈夫なのかしら。ねぇおかしいと思わない?

ハルはミネラルウォーターであたしに絡み始めた。

「修学旅行の夜だもの、羽目を外していいんじゃない」今晩のハルは学級委員らしくない言動だった。二人とも初のお泊り会に浮かれていた。クラスのみんながしていたであろう修学旅行の夜を、友達どうしてしているであろうお泊り会をあたしたちもした。まだまだ起きていよう。明日のことなど考えない楽しい夜だ。


***


「千秋、千秋」

え、誰?ハル?そうだハルの家に泊まったんだっけ。気が付けばもう朝だ。

「千秋、起きて。もう朝だよ」

時間は8時30分を過ぎている。

いつ寝たんだろう、記憶がない。眠い、完全な寝不足だ。「お願いもう少しだけ寝かせて」そう言いかけたとき冷やりとした感触がお尻にあった。慌てて飛び起きて確かめる。ごめん、あたしやっちゃったみたい。「おねしょはすると考えてみたらどうだろう」とは言ったものの、実際友達の家で、友達が見ている前でしたおねしょは

思った以上に恥ずかしいものだった。

 もう千秋までと言ったのを聞き逃さなかった。「まで」ということは、隙ありと隣の掛け布団代わりの夏用毛布をさっとはぎ取る。するとシーツに薄黄色く描かれた世界地図が現れた。「だめっ!見ないで」必死に隠そうとするがもう遅い。寝る前に飲んだミネラルウォーターがレモン味だったからだろうか、真っ白いシーツに描かれた薄黄色の世界地図はそんなに大きくないにも関わらず自己主張が強いがどこか可愛らしい。本人の見た目のようにおねしょの跡まで可愛いなんて、それは反則な気がしてあたしは笑いがこぼれてしまった。

「笑ったわね!」

こんどはあたしの隙をついてハルがこちらの夏用毛布をめくる。隣のよりやや大きめに描かれた世界地図があらわになった。こちらはあまり可愛げがなかった。


「春香、千秋ちゃん起きた?」

いつの間にかママたちがそこにいる。娘たちの恥ずかしい朝の様子を一部始終を見ていたようだ。今朝はふたりとも派手にやらかしちゃったねとハルのママは笑いながら言った。ハルは自分の、あたしは借りた布団に大きな世界地図を描いていた。ママはハルのママの後ろで頭を抱えている。そりゃそうだ、自分の娘が人の家でおねしょしたんだから。あたしもハルも下を向いて俯いてしまった。

「修学旅行のやり直しどうだった、楽しかった?」と聞いてきた。

その聞き方が以外だった。それを最初に聞くのか。もちろん楽しかった、ハルもそう答えた。そう、じゃあそれで十分じゃないと言った。それを遮ってママが言う。

「申し訳ございません、うちの責任です。布団も弁償します。すみません、お風呂場借りて洗濯します。千秋、はやくしなさいあんたも手伝うの」

そう言うママはふらふらしている。娘の失態が原因ではなく、どうやら二日酔いのようだ。

「春香の予備の布団ですから気にしないでください。あたらしいの買ってもあの子がまた汚しますから」

それに、とハルのママは話しを続けた。後片付けは二人でするっていう約束でしたよね、とあたしたちを見て言った。

「二人でこうしようと決めて行動した、そうでしょ。

成功すればいいけど失敗したときの責任と対処、それは人にとって貰うことじゃないの。二人とも自立した人になりましょう、なので遊んだことで生まれた責任も自分たちで取りましょうね」おねしょのことは一切怒らない、わざとじゃないから、起きてしまったことは仕方がない、けど後始末は自分でしましょうと言うだけだった。


「春香、あなたは千秋ちゃんに洗濯の仕方を教えてあげなさい。千秋ちゃん、春香に聞いてお洗濯覚えてね」

そう言い終わると、はい、じゃあお洗濯開始!と手をパンとたたいた。

その大きな音はまるで徒競走のスタートのようで、あたしとハルは自然と体が動いた。噂通りだった、ハルのママおっかない。子供だからと甘やかしてくれるところ、子供だからといって絶対に甘やかさないところを明確にしてくる。

「どうする?」

「千秋、汚れ物お風呂に一纏めにして」

「先シャワーだよ」

「え、どっちから?」

「一緒に行こう一回お風呂一緒に入ったから平気だよ」

「だってあれ大浴場」

大騒ぎでバスルームに行きシャワーを浴びる。それが終わるとすぐに着替えて、まずは毛布の洗濯。それぞれの毛布を取るとシーツに絵描かれた世界地図がまたあらわになった。お互いの地図とお互いの顔を見て苦笑いする。

「ほら二人とも、洗濯の手が止まっているよ」


 洗濯ネットに入れて、時間がかかる毛布を洗濯機で洗っている間に、下着とパジャマは先にぬるま湯に漬けておき、今度はシーツの濡れた部分をシャワーで洗い流す。

使い捨てのおねしょシーツは丸めて消臭袋に入れ、袋の口を固く結びゴミに出す。

洗剤これ使って、その間にこれとハルは手を動かしながら指示し、あたしはそれに従って体を動かす。ついでに敷き布団を干しましょうとハルのママが言った。

うちはこの部屋を洗濯専用としているのとハルが案内する。あたしの家と違ってマンションは外に洗濯ものを干すことが出来ない。なので洗濯物専用の部屋を用意しているというわけだ。それぞれの布団を布団干しに掛けていると毛布の洗濯が終わった。

毛布を取り込み、次は漬け置きしていた汚れ物に取り掛かる。


「春香ちゃん勉強だけじゃなく家事も出来るんですね」とママがそのてきぱきとした行動に感心している。

ハルのママが「プロですから」と言った。

そしてうちのママの為に、二日酔い覚ましらしいお茶を準備し始める。

あたしはその言い方がとてもおかしかった。プロってなんだろう、そんなことを堂々と言いきっちゃうのがハルのママらしかった。

「ね、なんのプロなの」ハルに聞いてみた。

「なに?」

「ハルってなんのプロなのかって、お洗濯?それともおねしょ?」

その言葉にカチンと来たらしく「おねしょのプロってなによ!わたしがプロなら千秋だってプロじゃない!」と負けずに言い返してきた。

「こら、おしゃべりは後。手を動かしなさい」

「だって千秋が変なこと言うから」

あたしはおねしょのプロという表現がおかしくて仕方がなかった。

スポーツニュースのアナウンサーみたいに「12年目の遊佐プロ、今年の成績はどうでしょうか」と言った。自分で言って笑いが止まらなくなった。

「もう千秋ってば!」

怒りながら手を動かしている実に手際がいい、おねしょの後始末に慣れている。流石プロ。

「じゃあそれが終わったら遊んだリビングの後片づけ。さぁ始めるわよ」

プロのママは次の指示を出してきた。


***


 ママは納得がいかないらしい、何度ハルのママが断っても、ですがこちらの気持ちがと何度も続ける。

「じゃあお昼ごちそうしていただけますか?それで終わりにしましょうと」提案された。

時計を見るといつの間にか10時を過ぎていた。朝ごはんには遅く、お昼には早い。

今日は天気もいいですし、午後には全部洗濯物が乾きますよ。ハルのママは娘たちが片づけ終えるのを見ている。

「ママそれならあそこのピッツァにしようよ」

うちでたまにデリバリーするお気に入りの店があった。価格がリーズナブルなうえにとても美味しい。ピザ?ハルがピザのピースを手で持つような手つきをしながら聞く。ちがうピッツァだよ。フォークとナイフを使うんだと、あたしはナイフとフォークで切って口に運ぶ手つきをした。デリバリーのピッツァはお昼前に届いた。ランチタイムの時間は長く、おしゃべりとお茶の時間も兼ねた。

 変な日曜日。そう言ってハルが笑う。

だって二人でやっちゃって、二人で洗濯して、二人で変な冗談飛ばし合って、二人でランチして。

「日曜にやっちゃうと普段以上に憂鬱なんだけど、今日は全然、それどころかこんな楽しい日になるなんて」

結局このお泊り会で何をするのが正解なのかはわからなかった。でもお腹を抱え、口を大きく開けてこんなに笑っているハルは初めて見た。学校でこんな姿見たことがない。あたしはこの後ママにいっぱい怒られるのだろうけど、この笑顔が見れたからそれで充分だった。


***


 夕方、パパが車で迎えにきた。

荷物を片づけ車に乗り込む。下まで見送りに来てくれた二人にママは何度も頭を下げていた。車の窓を開け、また明日学校でとハルに告げると「千秋ちゃん、また泊まりにおいで」とハルのママが言ってくれた。車が走り出すと「パパきいてよ、この子、遊佐さんの家でおねしょしたの」と早速あたしの最新おねしょ情報が連携された。

「おむつ持ってこなかったの」と聞かれたけど、家に忘れてきたと嘘をついた。ほんとにこの子はとママは呆れかえった。

「春香ちゃん、勉強だけじゃなくて家事も出来るのよ。家事全般は仕込みましたって言ってたわ、春香ちゃんのママ」

「千秋も明日から自分で後片付けするのよ」

はーいと車の中から景色を見ながら、今日の事を思い出して返事をした。

パパとママがハルの事を褒めるのはなんだか自分が褒められているようで嬉しかった。

「そうそう千秋、あんた夏休みになったら塾行きなさい」

なんで小学生の夏休みはこれが最後なんだよと猛抗議した。

「中学の勉強に遅れないよう今から復習するのよ。春香ちゃんの行っている塾に小学校の復習コースがあるんですって」

えーっ!そんなのいらないのに。


***


またあの夢だ。

ハルが泣いている。おねしょの跡を隠そうと泣きながら必死になっているハルだ。

「お願い、なんで私だけ」

大丈夫だよハル、一人じゃないよあたしもだよと、またおしっこが出そうになった時だった。

「春香」ハルのママの声がした。

「泣いていたって解決しないでしょう。してしまったことはどうしようもないけど、自分でしたことは自分で片づける」

そう言われてそれまでめそめそとしていたハルは立ち上がり、てきぱきと後始末を始めた。ハルのママはあたしに気が付いたらしく、こっちを見た。

「千秋ちゃん、いつも春香の支えになってくれてありがとう。でもこれは春香の問題なの。だから春香が乗り越えなければならないの。それと、おしっこはちゃんとトイレでするのよ」

そう言われて出かかっていたおしっこは引っ込んでしまった。


「おはよう」

朝起きて台所に行くと、パパとママとお兄ちゃんがあたしをじっと見た。

なに?どうしたの。

みんながどうだった今朝は?と聞いてくる。右の親指をグッと立てて、バッチリだよとポーズを取るとみんなの顔が緩んだ。

「なんとかまた落ち着いてきたみたいでよかったね」ママが安堵の表情で言う。

1学期最後の日をあたしはおねしょをしないで向かえられたのだった。


「おっはよう千秋!」学校に到着し教室に入ると弾んだ声で挨拶された。

「おはよ、え!ハル?」挨拶の持ち主はハルだった。いつもはおちついた感じで声をかけてくるのにどうしたんだ今日は。どうしたの春香?朝からご機嫌じゃん。他の生徒もハルの異変に気付く。

「ちょっとね、いいことあったの」

「なにどうしたの教えてよ」

ハルはないしょと言って笑った。なんだよそれ教えてくれたったいいじゃんと言い合っているうちに終業式が始まる時間になった。その日ハルは終始ご機嫌だった。いままでこんな顔一度も見たことが無い。ほんとどうしたんだろう。


 終業式が終わり、あたしとハルは玉川神社に寄り道した。そこで今日の機嫌のわけを聞いてみた。

「知りたい?知りたい?」

わかった明日から夏休みだからでしょう?とあたしが言うと、手で大きくばってんを作りブーッと言った。いつものクールな春香さんはすでに夏休みに出たようだ。

ハルはどうしようかな?を何度も繰り返し、さんざん勿体ぶったあと、じゃあ千秋にだけ教えてあげると言って両手を前に向けて手のひらをあたしに見せた。

「わたし、もう十日もしてないの」

「え?なにを」

「なにをって決まっているじゃない、わたしと千秋だけの、ほら、あれよ」

おねしょしてないってこと?そう聞くと、ニコニコの笑顔でうんと返事をした。

あたしは呆れてしまった。もしかしてこの娘、おねしょしなかったからっていうだけでこんなに機嫌がいいのか?そんなことで?ハルはそんな事じゃないと言い、たしかに他の人には小さいことかもしれないけど、わたしにとっては大きな前進なのよ。こういう積み重ねが人を大きく成長させるの、わかった?と続けた。確かにそうかもしれないけど、とても小学6年生が言うことではないだろうと思った。でもそんなこと言えないので「そうですね、春香さんのおっしゃる通りです」と返した。

 あれ?おねしょしなかっただけでこんなに機嫌がいいということは、普段はどうなんだろう。この間、おねしょの日はとっても憂鬱と言っていたことを思い出す。ということは今まで見せていたのはクールで大人びた表情じゃなく、単におねしょで朝から憂鬱だったからってこと?


あたしはまた遊佐春香の秘密を知ってしまった。


「ハルって可愛いね」

「急にどうしたの?」

「ハルは可愛いって言ったの。あとおねしょしてもハルも可愛いよ」

「なにそれ、どういうこと?」


明日から夏休みが始まる。


【続く】

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