千秋と春香
まめだ いふく
第1話 6年生になっても
あたしの名前は坂井千秋、この春から小学6年生。
家族はパパ、ママ、お兄ちゃんの4人暮らし。
成績はクラスの真ん中より少し下くらいかな。勉強よりも運動が得意なタイプ。
最近髪を伸ばし始めてミドルヘアになりました。
おでこがすこし広いのを気にしています。
そんなあたしには人には知られてはいけない秘密があります。
これはその秘密がきっかけで生涯の親友になる人との話です。
***
新学期が始まって6年生になった翌日、あたしは放課後、
ママと一緒に担任のリエ先生と面談を行う約束をしていた。
予定時間の10分前にママは学校に到着した。
「大丈夫、まだ余裕あるよ」
生徒用ではなく外来者用入り口で出迎える。
ママは来客用スリッパを履き替えながら「先生は職員室?」と聞いてきた。
会議室で話を聞いてくれるって、職員室の隣にある会議室に向かう。
すると会議室から誰かが出てくるのが見えた。
「先生、今日はどうもありがとうございました」
「いえ、それではまた改めて」
先生には先客がいたようだ。
誰だろう?あれは同じクラスの遊佐さんだ。
じゃあ一緒にいるのは遊佐さんのママかな。
「じゃ気を付けて帰るんだぞ」
先生はそう言って二人を見送った。
遊佐さんと遊佐さんのママと思われる人は、あたしたちに会釈して通り過ぎた。
あたしもママも会釈した。
「先生」あたしが呼ぶと、もう時間かと腕時計を見て言い、
片づけますのでお待ちくださいと続けた。
何の用だったのと聞くと進路相談だと答えた。
先生は会議室を片づけた後、どうぞこちらにと中へ案内してくれた。
あたしは入学して初めて会議室に入った。ソファの座りごごちは、うーん普通かな。
お待たせしてすみません、本日はご相談があると承っておりますと、
ママにお茶を出しながら先生はそう言った。
ママの顔を見てあたしから話しを始めた。
昨日の夜、どう先生に切り出す?ママから言おうか?と話したとき、
自分から話すと伝えたのだ。
「先生、修学旅行のことで大事な相談があります」
「お願いします、真剣に聞いて欲しいです、笑ったり茶化したりしないで。
それから誰にも言わないください。もしこのことが他の人に知られたら、
あたし、死ぬかもしれません」
緊張しすぎてのどの奥が乾いて声が出にくくなった。
最初先生はそんな大げさなという感じで受け止めていたけど、あたしの真剣さが
伝わったのか、わかった、どんなくだらないことだったとしても笑ったり茶化したりしない、約束すると言ってくれた。
その言葉を信頼し、あたしは勇気を振り絞って家族以外誰も知らない秘密を
告白した。
「先生、あの、あたしまだなんです、治っていないんです。
その、おねしょが治っていないんです」
それはあとひと月後に迫った小学校生活最大のイベント、修学旅行について
どうしたらいいかという相談だった。
幼稚園まではほぼ毎日。今でも朝布団に世界地図を描くことがある。
これを何とかしない限り、あたしの修学旅行、いや学校生活、いや人生そのものが
大きく変わってしまう。
出来るだけ人に知られず解決策を見いだす、最重要問題となっていた。
沢村理恵子先生。通称リエ先生はあたしたちのクラス担任。
今年32歳になると言っていた。先生たちの中では中堅になる。
いつもスーツ姿だけど、中身は絵にかいたような熱血体育会系の先生だ。
曲がったことが嫌いで生徒にはとても厳しい。
しかし生徒の言うことは真剣に聞き、決して馬鹿にしたりしない。
どの生徒に対して公平で贔屓することもない。
クラスの誰にもあたしがまだおねしょしているだなんて知られたくない。
本当は先生にもだ。
でも修学旅行という大イベントを前にして、もう打開策が思いつかなく
なくなってしまい、それで思い切って先生に相談してみようということに
なったのだ。
リエ先生は5年生の時も担任の先生だった。
昨年一年を通してこの先生なら信頼できるし協力してくれるかもしれない、
そう思えたので、この日、思い切って打ち明けたのだった。
***
よかったわね、先生真剣に聞いてくれて。
帰り道、ママが運転する車の中で先生とのやりとりを振り返っていた。
「坂井が、かぁ」
約束通り先生は笑ったり茶化すことなく真剣に話を聞いてくれた。
その姿勢にあたしは心が少し楽になった。
とりあえず最初の一回で全部決められることではないので、
次回また改めてと言うことになった。
何度か話し合って最良の方法を見つけようということで今回は終わった。
「千秋、先生に話したとき耳まで真っ赤になっていたよ」
うそっ!今更だけど耳を押さえる。たしかに人生で恥ずかしい出来事
ベストスリーには入りそうだったからなぁ。
「でもよく自分で言えた、褒めて遣わす」とママは時代劇で殿様が家臣を
褒めるような口調で言った。
「殿、褒美はナカトスィーツのケーキがいいでござる」
ナカトスィーツは大通りにある老舗のケーキ店で、あたしはここのケーキが
好きだった。特に秋に出る限定モンブランの美味しさについては、1時間は
魅力を語れる自信があった。しかし殿は返事をしてくれなかった。
「行くの修学旅行?」
嘘ついてサボった方がいいのかなとも思った。
でも先生が協力して何とかうまくやってくれるかもしれないなら行ってみても
いいかもしれないとも思うんだ。
「ところでママたちの前にいた人なんて言うの、同じクラスなのよね」
あの人が遊佐さんだよと、あたしは答えた。
今年のクラス替えで初めて同じクラスになったけど、学校では有名人。
「あの子がそうなのね」とママにもわかったようだ。
遊佐さんは勉強がとても出来ることで有名だ。
クラスはもちろん、学年でいつも1番の成績。
駅前にある全国系列の進学塾に通っていて、そこでも1番の成績なんだそうだ。
噂ではその塾で行われた私立中学の全国模試で20番以内の成績だったらしい。
ひょっとしたら学校の先生よりも勉強が出来るんじゃないだろうか。
「全国で20番ってすごいわね、千秋も勉強しなさいよ」ママが余計なことを言う。
聞いた話、遊佐さんのママは勉強に厳しく、とてもおっかないらしいんだって。
うちのママがそうじゃなくてあたしは安心だ。
「進路相談って言ってたから卒業後は私立なのかしらね」
そうかもねとあたしはママからの問いかけに興味なしという口調で答えた。
***
ここどこだろう。雲一つない青空の下、白い砂浜の綺麗なビーチ。
開放的で気持ちいい。あたしはそこに一人でいた。
海に来ているというのになぜか学校に行く時のようなパーカーとキュロットの
普段着のままでいる。
ビーチには看板が出ていてそこには『大自然トイレ』と書かれている。
そうなんだここトイレなんだ、じゃあとお気に入りキュロットと下着を下ろし、
その場あった便座に腰掛け海を見ながらおしっこをした。
お腹から力が抜ける。いい気持ち。おしっこが終わったとたん、ざぶんとおおきな波が来て全身を濡らした。
あまりの出来事に呆然とする。全身びしょ濡れになってしまっていた。
暑い日差しが乾かしてくれるだろうと、そんな気分に浸っていたところに突然、
耳元で大きな音がジリジリジリと鳴り響いたのだった。
目が覚めると見覚えのある6畳の和室。あたしの部屋だった。
あれ?砂浜は?枕もとの目覚まし時計が鳴っている。
時刻は7時。目覚まし時計を止めようと手を伸ばした時、やっと理解した。
また夢の中でおしっこをしてしまったんだ。
お尻のあたりがずっしりと重い。触ってみると濡れている感触があった。
「やってしまった」
起き上がって掛け布団をめくると、寝床にはおしっこで描かれた世界地図が
出来上がっていた。
6年生になって初のおねしょは、先生におねしょの事を相談した翌日の事だった。
敷き布団の上に吸水機能があるおねしょシーツを敷く。
おねしょシーツは動かないよう敷き布団の四隅にゴムバンドで固定されており、
さらにその上に大判のバスタオルを2枚重ねて敷き、その上にシーツを敷いている。
こうすることで主な被害はバスタオルとシーツ。
おねしょシーツは洗濯を最小限とし、敷き布団まで濡れないので敷き布団を洗濯する必要がなくなる。
これで多少洗濯が楽になるのだった。長年培われてきた千秋用おねしょ対策で
あった。
布団の上で濡れたパジャマのズボンと下着をゆっくり下ろすと、おしっこがシーツにぽとぽとと落ちる。
白地の下着はお尻の部分がうすく黄色がかっているように見えた。
ため息が出た。濡れたシーツとバスタオル、おねしょシーツを布団から外し、
これ以上おしっこが落ちてこないようパジャマと下着をシーツでくるむ。
敷き布団を確かめてみる。よかった、敷き布団には染みていないようだ。
あたしは2階の部屋から出て気配を消しながら、こそこそと洗濯機のあるお風呂場へ移動した。
「お、千秋起きたのか」
お風呂場前にある洗面所にはお兄ちゃんがいた。
高校二年のお兄ちゃんは部活の朝練があるからといつも朝早くに出かける。
ちょうど今家を出るところだったらしく鏡の前で髪型を確認しているところだった。
なんてタイミングの悪い。
お兄ちゃんは中学後半から身長がぐんぐん伸び、もうとっくにパパよりも背が高い。
あたしと30センチは身長差がある。
お兄ちゃんは上から見下ろすような感じであたしが手に持っている汚れ物を見た。
なんだまたなのかと呆れた口調でいい、「母さん、千秋が」とあたしがおねしょしたことを台所にいるママとパパに知らせたのだった。
ママにあたしのおねしょを報告するのはいつもお兄ちゃんだった。
お兄ちゃんが中学校に上がるまでは一緒の部屋だったので、朝あたしが布団からなかなか出てこない様子を見ては「母さん、千秋がまただよ」と言ってママを呼んでいた。からかったり、馬鹿にしたりはしてこないんだけど、おねしょの事を知られるのは嫌だった。
そんなお兄ちゃんをよそにシーツにバスタオルに下着をそれぞれの洗濯用ネットに
入れ、パジャマの上着も脱いで全部洗濯機に放り込む。
こっち見ないでよねエッチというと、6年生にもなってもまだおねしょが治らない
妹を哀れに思ったのか大きくため息をついて「だれが寝小便垂れの裸なんかみるか」と洗面所から出て行った。
お風呂場に入ると先に洗濯機で洗えないおねしょシーツの濡れた個所をさっと
洗い流す。あとの洗濯はママにお願いしよう。
それが終わると今度は体をシャワーで洗い流す。
少し熱めの温度に設定にしたシャワーは、冷えている体を気持ちよく温めてくれ、
体が一気に目が覚める感じがした。
あとは片づけておくからちゃんと丁寧に洗うのよというママの声と、
洗濯機が動いている音がお風呂場のドア向こうから聞こえた。
シャワーで洗いながら、いつまで経っても治らないおねしょの事を考えていた。
もし修学旅行でもおねしょをしたら、あたしどうなるんだろう。
そんなことを考えてとても嫌な気分になってしまった。
クラスのみんなからからかわれるのはもちろん、修学旅行は6年生全クラス参加だ。
隣のクラスの子にもあたしがおねしょしたことを知られてしまいうだろう。
そうしたらきっと噂になって「あの子だよ、どの子?、ほらあの子、修学旅行で
おねしょした子」と休み時間になると他のクラスから見物にやってきてずっと笑い
ものにされるに違いないんだ。
さらに遊佐さんが「人のことを笑うなんてダメよ」と優等生らしいことを言いつつ、
「失敗は誰にでもあるかもしれない、けどね、6年生にもなっておねしょだなんて」とか言ってあたしにお説教してくるのかなぁ。
パパは小さいながら会社を経営していて、ママもそこで働いている。
良く言えばあたしは社長令嬢なのだ。従業員さんに、パートさんもいる。
もしパートさんにまで知られたらどうしよう。
社長の娘さん、修学旅行先の旅館でおねしょしたそうよなんて噂されたら、
町内のみんなにあたしのおねしょが知られてしまう。
困ったなぁとため息をついていると、早くしないと学校遅刻するわよという
ママの声がして、妄想じみた心配事は中断された。
お風呂場から出てバスタオルで体を拭く。シャワーで流している間にママが着替えを用意してくれていた。それに着替えると洗面所の鏡に顔を映し、両手で顔を
ピシャッと叩いた。おねしょした朝は憂鬱、否が応でもあなたは他の子と比べてまだまだ赤ちゃんだよねと自覚させられる。でも気持ち切り替えるんだよ千秋と自分に言い聞かせた。
台所に行き、用意してくれた朝ごはんを食べるためにテーブルについた。
ママは洗濯に取り掛かっているので用意はパパがしてくれている。
昔はおじいちゃんとおばあちゃんも一緒に住んでいたけど、あたしが小さいころに
亡くなってしまった。それ以来、昔ながらの少し大きい家に4人で暮らしている。
今日の朝ごはんは、ご飯にお味噌汁にハムエッグ。ハムエッグにはトマトが添えて
あった。いただきますと言って箸を取る。
お兄ちゃんはすでに出かけたようだ。お味噌汁を口にしているとき、
パパが牛乳をマグカップに注いでくれながら「しばらくなかったのにね」と言った。
お兄ちゃんもパパもあたしのこと気にかけてくれるのはわかる。
でもあたしは年頃の娘だぞ、できれば触れないようにとか、話題にしない様にとか、もっと気を効かせて欲しいと思ったんだけど、それならおねしょをするなとママに言われるのが目に見えていた。
***
ごちそうさま。食べ終わった食器を流し台に置き、また洗面所へ行く。
歯を磨き、髪をブラシで整える。洗濯機はまだ動いたままだ。
部屋に戻ると窓が開いていた。ママが開けてくれたのだろう。窓から入ってくるさわやかな風は今朝の出来事を吹き飛ばしてくれそうだ。
鞄を手に取り、壁に張った時間割と鞄の中の教科書を見比べ、忘れものが無いか確認。大丈夫。「いってきます」とパパとママに聞こえるように言って家を出た。
学校までは歩いて約20分。幸い大通りはなく車の往来も少ない通学路だ。
毎朝この道をあたしは一人で通学する。学校の近くには玉川神社という神社があって、そこの境内を通り抜けると近道だ。さらに龍道寺というお寺があって、マンションがある住宅地からは少し離れている。
空を見上げると雲が晴れ太陽が顔を出した。今日はいい天気になりそう。
洗濯したシーツもパジャマも早めに乾くだろう。全国に小学6年生は何人いるんだろう。そのなかで今朝おねしょをした子は何人だろう。やっぱりあたしひとりかなぁ、そうだろうなぁ。そんな事を考えつつ歩いていると学校に到着した。
「おはよう千秋」
「おはよ」
「おっす千秋」
「うっす」
学校に着き、教室に入る。席に向かう中、クラスメイトに挨拶していたら朝の憂鬱さは少しずつ晴れてきた。すると遊佐さんが教室に入ってきた。
昨日会議室前で見かけたことを思い出す。同じ先生にあっちは進路相談、こっちは
おねしょの相談だ。その天地ほど開きがある相談内容に劣等感を感じる。
やっかみから意地悪したくなったあたしは「遊佐さん、おはよう!」と脅かすような大きな声を出して言った。面食らったのか「あ、うん、おはよう」と静かに挨拶を返してきた。どうだ優等生と思ったけど、自分のした行動がすぐに恥ずかしくなり、やらなければよかったと自己嫌悪に陥った。だめだ、おねしょした朝はひどく情緒不安定だ、そんな簡単に気持ち切り替えなんて出来ないよ。
遊佐さん、遊佐春香さんはボブカットの髪型で細身のメガネをしている。
大きい目に長いまつげ。整った顔立ちは大人になったらもっと美人になるんだろうなと思わせられる。細くて華奢な体。背丈はあたしと同じくらい。胸はあたしの方が大きそうだけど、ウエストもあたしの方が太そうだ。
運動は出来ないわけではないが、得意というほどでもないくらい。
だが勉強が誰よりも出来るため、体を動かすよりも勉強が得意な人たち、大人しめの子たちがよく周りにいる。学級委員と児童会から生徒代表にも選ばれ、先生からの信頼も厚いらしい。逆にあたしはそこそこ運動が出来るので、勉強よりも体を動かすのが得意な元気小学生グループにいる。あたしとは全然違うタイプの人間だ。
子供らしくはしゃいだりしない人というか、感情をあまり表に出さない。悪く言えばあまり小学生っぽくないのだ。
それに大きく笑った印象が少ない、常にクールで服装も上品で大人っぽい印象の物をよく着ている。そのせいかあたしたちの事を子供に見ている、そんな感じがするのだ。そういう雰囲気だからか、遊佐さんはちょっとね、という人もいる。
けど、あたしみたいな悩み無いんだろうなと思うと羨ましく思えた。
***
学校が終わり、また明日ねと言って一人教室を出る。近道の玉川神社を抜け、
家にまっすぐ帰る。
今日はママも仕事。鞄から家の鍵を取り出し、誰もいない家にただいまと言って
入る。そのまま2階の自分の部屋に行き鞄を置くと、ベランダに向かった。
ママが仕事でいない日は、洗濯物を全部取り込むのがあたしの仕事だった。
汚してはいないがベランダに干していた自分の布団を取り込む。
よっと声を出し力を入れて布団を担ぐ、あたしにはまだ少し重い。よたよたとした足取りで部屋に運び入れた。次は一階に降り居間から庭に回り、洗濯物を取り込む。
家族みんなの洗濯物に加えて、今朝汚してしまったシーツにバスタオルにパジャマ。
濃い目の色だったピンクのシーツは、何度も洗濯されているうちに色が薄くなって
いた。家族全員じゃなくて一人分だけ。しかも子供が使いそうなシーツだけ干されていると誰に怪しまれたりしないだろうか。通りすがりの人に、この家の子は今日おねしょしたんだと思われたりしなかっただろうか。洗濯物を取り込みながらそんな不安が頭をよぎった。
片づけようかと思ったけど布団はこのまま敷いてしまおう。
干していた布団と洗って綺麗になったシーツはとても気持ちが良かった。
そのまま横になっているといつの間にか体が重くなり、まどろみの中に沈んでいった。
***
「坂井さん、坂井さん」
え、誰?遊佐さん?そうだ修学旅行に来ていたんだっけ。修学旅行二日目の朝だ。
「坂井さん、起きてください。いつまで寝ているんですか?みんなの迷惑です」
気が付けば大部屋にあたしひとりだけ布団で寝ている。そしてそれをみんなが取り
囲んで見ている。冷やりとした感触がお尻にあった。この感触!どうしよう、おねしょしてる。学級委員の遊佐さんはその中で一歩前に出て、あたしが寝ている横で仁王立ちしている。いつまでも起きてこないあたしを注意しに来たのだ。
さぁ起きてと遊佐さんが掛け布団を引っ張った途端、周りから驚きの声が上がった。
布団には世界地図が描かれていたからだ。
「え、何それ!」「やだ、もしかしておねしょ!」
取り囲んだみんながあたしを笑うなか、遊佐さんは大きくため息をついた。
「坂井さん、あなた6年生にもなっておねしょだなんて恥ずかしくないんですか?」
遊佐さんを先頭に世の中人、すべてがあたしのおねしょを責めた。
逃げ場のない恐怖にあたしは取り囲まれた。
「千秋、千秋」
気が付けばいつものあたしの部屋。夢?修学旅行は?そうだ、まだ先の話だ。
「千秋、うなされてわよ」心配そうに顔を覗き込むママが見えた。
「晩ご飯だけど、食べられそう?」
時計を見ると7時。いつの間にか寝てしまっていたんだ。
慌ててお尻を触ってみる。大丈夫だ、よかった。
「すぐ行くよ」立ち上がるとふらふらした。酷い夢を見たからだろう、少し頭痛が
した。
***
修学旅行は隣県にある城跡博物館巡りから始まり、有名観光地を回る一泊二日の
旅行だ。
日程が近づくと、班編成や役割分担、バスの座席位置などの取り決めが行われる。
あくまで授業の一環であることからレポート提出などの取り決めが進むなか、
裏では先生との間であたしのおねしょ対策案が出来つつあった。
何度かの個人面談の結果、出来上がった案はこうだった。
先生たちがいる部屋の隣部屋を使うことにする。
夜になったらそこに移動し、そこで朝まで就寝。何かあれば隣に先生がいるのですぐに連絡すること。どうやってみんなに不審がられず移動するか?
就寝時間を超えて遊んでいるところにリエ先生がやってきて、罰と称してあたしをその隣部屋へ連れて行く。また一度夜中に起こしてもらい、トイレに連れて行ってもらう事にもなった。
「先生、部屋にはあたし一人ですか?」と聞くと、リエ先生は「いや、まだわからん」と答えた。
他にいないでしょう。6年生になってもまだおねしょする子があたし以外にいるとは考えにくい。修学旅行で1人部屋は寂しいけど、おねしょが知られることと比べれば天国だった。別の1人部屋になれば遊佐さんに責められなくて済みそうだと思うと、心が軽くなった。
家に帰った後も居間で対策案をよりよくするにはどうしたらいいかを考えていた。
仕事で遅く帰ってきたパパがテレビでニュース番組を見ながら晩ご飯を食べていて、
その脇ではママがお茶を入れている。
「その日はおねしょしないのが一番なんだだけどね」と言いながらパパにお茶を用意した。
たしかにそうなんだけど、と考えているところにパパがこの話に入ってきた。
「千秋、したらどうしようではなく、おねしょはすると考えてみたらどうだろう」
「ちょっと、なんでそんなひどいこと言うの。パパはあたしの学校生活台無しにするつもり?」
修学旅行でおねしょをしてしまった夢を見たことを思い出した。
別部屋だとしても、そんなことになったら噂になるかもしれない。
そうじゃないと、パパは晩ご飯を食べながら話を続けた。
たとえしてしまったも、どうしたら被害は最小限に食い止められるだろうかを
考えてシミュレーションするんだと説明した。
「布団を汚してしまうかもしれない、では汚さないためにはどのような対策が必要だろうか。そう考えていけばダメだったとき、次の対策でカバーされている、それもダメだったらまた次の対策、そうしていけばいざというときに落ち着いて対処できる。
それに練習もしておけば慌てないですむんだ」
千秋のおねしょ対策はそういう敷き布団を濡らさない対策をしているんだぞと、お茶を一口飲んで付け加えた。
うーん、なんか無理やりな感じがしたけど、パパのいう事も一理ありそうな気もするなぁ。
うちでは寝るときにおねしょシーツを布団の上に敷いているけど、シーツは汚してしまうし、そもそもおねしょシーツを修学旅行に持って行けない。
なら他の手段を取る必要がある。ひとつだけ決心がなかなかつかなかったことがあったんだけど、おねしょはするということで考えれば仕方がない。
それに恥ずかしいのは先生に相談したときに覚悟していたはずだ。
「あたし旅行ではおむつにしようと思うんだ」
ママにそう言うと、「昔はおむつあんなに嫌がっていたじゃない、けどいいの?」
たしかにそうだった。小学校に入学しても自分だけ寝るときはおむつを履いているという事に我慢できなくなったのだ。それでおむつなんてもう履かない!もう赤ちゃんじゃない!とさんざん駄々をこね、そのたびに布団に世界地図を描き、結果今の千秋用おねしょ対策に収まったのだ。けどおむつがあればおねしょしても大丈夫かもしれない。それにたった一晩だけだし、1人部屋なら誰かにおむつ姿を見られることもないだろう。
「でも小学生の体に合うサイズなんてあるの?」
「生理用とか、介護用でも小さいサイズとかどうかな」
「わかった、じゃあドラッグストアで相談してみるね」
「千秋、ぶっつけ本番はだめだ。問題が無いか繰り返しテストをしなさい。あしたからおむつを履いて確認するんだ」
こうして小学1年生以来、あたしは夜はおむつの生活に戻ったのだった。
修学旅行まであと数日という朝、あたしは6年生になって何度目かのおねしょをしてしまった。けれど今回は今までと違いおむつを履いている。おむつはおしっこで重くなっていた。お尻にそっと手を当ててみるとパジャマは濡れていない。起き上がりシーツを見たけど濡れていない。布団を手で撫でてみてもやっぱり濡れておらず、あたしの体温の暖かさだけがあった。よかったこれなら大丈夫かもしれない。
ふと、このままおむつを処分してしまえば誰も今日あたしがおねしょした事を知らないんじゃないだろうか、おねしょはノーカウントになるんじゃないだろうかと
頭をよぎった。おむつを脱ぎ、体を洗おうとお風呂場に向かったところでママとばったり出くわしてしまった。
「あら千秋おはよう、今日はどうだった?」残念ながらノーカウントにはならな
かった。
その夜、修学旅行に持っていくものの準備をしていると、これも一緒に持って行きなさいとスパッツを渡された。けどサイズが少し大きい。
「それをおむつの上に履けばおむつ見えなくなってごまかせるでしょ」
なるほど確かにそうだ。ありがとうママ、これは心強い。
1.水分は控える
2.夜中、先生に起こしてもらう
3.おむつでカバーする
3重の防衛策。これであたしの対策は全部出そろった。
***
水曜に行われる全校生徒集会の場で6年生は明日から修学旅行で留守にしますと校長先生が説明すると、それに答えるよう壇上で生徒代表の遊佐さんが「修学旅行に
行ってきます」と校長先生に挨拶した。
それが修学旅行の始まりであり、あたしの決戦の始まりでもあった。
修学旅行当日の朝はいつもより1時間早く起きた。集合時間は授業開始時間より
も早い。
起きておむつの感触を確かめる。今日も濡れていない。
実は今日はおねしょしてくれないかなと思っていた。さすがに2日続けてということはなさそうだからだ。そうしたら少しは今夜の心配が減るのにと朝ごはんを食べながら話すと、このまま治ってくれると助かるんだけど、とママはこぼした。
「おい、千秋」とお兄ちゃんが腕時計を出した。
見学のとき、時間がわからくなるといけないから持っていくようにと貸してくれた。
腕に付けてみるとベルトは少し大きかった。
玄関で最後の持ち物確認をする。
準備は?出来てる。
今晩寝るときに履くおむつは?持ちました。
同じく寝るときに履くスパッツは?入っています。
じゃ大丈夫だね。
いってきますと言ってあたしは家を出た。
学校に到着するとバスが校庭に停まっていた。これに乗るのかと、バスを眺めな
がら校舎に入る。リエ先生が教室で点呼を取り、欠席者無しではこれより修学旅行に出発すると言い、あたしたちは校庭に出てバスに乗った。
バスは一度サービスエリアで休憩を取り、最初の目的地である城跡博物館に向かう。サービスエリアでバスを降り、外の空気を吸っていると、リエ先生が遊佐さんに付き添っているのが見えた。バスに酔ったのだろうか?遊佐さんは白い顔をしてペットボトルの水をゆっくり飲んでいる。優等生でもバス酔いするんだと思いながらその様子を遠くから見ていた。
城跡博物館に到着すると城跡公園で記念撮影を行った。そして貸し切りの
レストランで昼食。
博物館ではあらかじめ班で学習テーマを決め、それに沿って博物館見学を行う。
注意事項を説明された後、自由行動になった。
城跡博物館見学が終わると本日宿泊する旅館に移動。緊張が強くなる。いよいよ夜が来るんだ。旅館に到着し部屋に荷物を置いた後、大広間ですぐ夕食になった。
夕食ではこの地方の郷土料理が振舞われた。
教科書で学習したことを実際に体感しようというものであるからだ。
これはこの地方由来のとか、これは名産のなどと解説とともに食した。
料理はどれも美味しくて満足したのだけど、あたしは少し水分を控えた。念には念を入れることにしよう。
部屋に戻る途中、同じ部屋の子たちから旅館の売店で飲み物を買おうと誘われた。
みんなが2本、3本とジュースを買う中、あたしはペットボトルの小さい水だけを買うと、それだけ?と聞かれたので、夜中のジュースは美容の大敵だぞ知らないの?と言い返した。すると、千秋が美容って、変なこと言って明日雨にしないでよね、せっかくの修学旅行でびしょ濡れなんていやだからねとみんなが笑った。
あたしは「びしょ濡れ」という言葉から、以前おねしょをしたときに見た夢を思い出してしまい冷や汗が出てしまった。
決められた時間にお風呂に入り、部屋でおしゃべりをしていると消灯時間が来た。
それぞれ布団に入っているけどまだ誰も寝ようとはしない。おしゃべりは続いて
いた。
消灯時間を過ぎて30分が過ぎた。よし決行の時間だ。
「せっかくの修学旅行だよ、もっと遊ぼうよ」とあたしは大声をだした。
「ちょっと千秋、声大きい、先生来たらどうするの」
大丈夫だよと言って、あたしは布団からばっと勢いよく立ち上がったその時だった。
「こら、誰だ騒いているのは。消灯時間はとっくに過ぎているんだぞ」
タイミングを見計らったかのようにリエ先生がドンドンとドアを勢いよく叩いて部屋に入ってきた。
先生タイミングばっちりです。
他の子はさっと布団に潜る。あたしはワンテンポ遅れて布団に潜った。
「誰だ騒いでいたのは」というリエ先生に、「千秋です」と先に布団に潜った
真希ちゃんが言った。
裏切者め。でも今回はナイスアシストだ。
「坂井お前か。罰として今晩は先生たちの隣の部屋で寝なさい。荷物を持って
移動だ」
流石にそれはやり過ぎじゃないかと思ったのだろう、先生酷すぎる、騒いでいたの千秋だけじゃないですと口々に言う。
そうなのかとあたしに聞く。はぁ、まぁ、でも遊ぼうとしていましたと曖昧な返事をしつつ、あたしが悪者ですという感じをだした。
行くぞと先生が言い、あたしは荷物を持って素直についていく。
千秋行くことないよと、さっき先生に密告した真希ちゃんが言ってくれたけど、
あたしは反省している顔をしながら内心では大成功と、喜んで先生について行った。
途中トイレに寄り、寝る前のトイレを済ませておむつに履き替えた。
よしこれで準備万端。今夜の決戦部屋に入ると布団が二人分敷いてある。
え?二人分?なんで?
先客がいた。遊佐さんだった。
***
隣の部屋にいるから何かあったら先生呼ぶんだぞと言い、リエ先生は出て行った。
何かあったらの何かは一つしか思いつかなかった。
遊佐さんはあたしを見てぺこりと頭を下げた。それに答えるようあたしも頭を
下げた。
この部屋は夜中おねしょの心配がある生徒が他の生徒を避けて一晩過ごす隔離部屋
のはずだ。
なんでここにいるの?1人は寂しいが居て欲しくない人物だ。
黙っているのも嫌なので何か話そうかと思ったが、共通の話題が思いつかない。
そうしていると「電気消しますね」と遊佐さんが言った。そうだ消灯時間はとっくにすぎている。
部屋の明かりを消しおやすみなさいと言って遊佐さんは布団に入った。
あたしはうんと返して布団に入った。
おやすみの挨拶というより「あなたとお話することは無いです」と突き放された
感じだった。その態度で分かってしまった。そうかあたしのお世話係なんだ。
せっかくの修学旅行だけどおねしょが治らない生徒がいる。学級委員として協力してもらえないかと。
頭の中で考えがどんどん悪い方向に向かっていく。
心の中であたしのこと笑っているかもしれない。いやむしろひいているのかも。
6年生にもなっておねしょする子が同じクラスにいるだなんて。
他に誰もいないと思っていたにも関わらず、思ってもみない人物がいたのであたしはかなり動揺していた。
遊佐さんにおねしょの事を知られても、クラスのみんなに言いふらしたりはしないだろうけど、「おねしょだなんて恥ずかしくないんですか?」と言われてしまいそうで癪だった。
あまり仲が良くない人があたしの秘密を知っている。いつかどこかで秘密を暴露されるかもしれない。
そんな不安をずっと抱えなくてはいけない。とても嫌な気がして心が暗くなってし
まった。 でもあの成績だし、卒業したら遠くにある私立中学に進学に決まって
いる。それに今晩おねしょしなければいいんだ。今朝だってしなかったんだ、
大丈夫、大丈夫だよ千秋。
そう自分に言い聞かせて目を閉じた。
坂井起きろ。先生の声が聞こえる。そうだ一度起こしてもらうんだった。眠い目を擦り起き上がる。
隣で遊佐さんがあたしに背を向ける姿勢で寝ているのが見えた。
トイレに行き、用を足すがあまり出なかった。あたしは半分寝ながらまた布団に
戻った。
***
案内には『丘のトイレ』と確かにそう書かれている。どうみても原っぱなんだけど
なあ。
ジャージと下着を下ろし、その場にある便座に腰掛けると、開けた景色はとても雄大で開放的な気分にさせてくれた。
うわぁ気持ちいい。気が緩みおしっこは勢いよく出た。
ところが爽快な気分だったのに、体はお風呂に入っているかのように急に熱くなってきた。あれ、もしかして、いつもするときの夢と同じ?どうしよう。急いでおしっこを止めようとしたけど止まらなかった。全部出てしまったところで目が覚めた。
股のところにずっしりとした重さがある。
やってしまった、おねしょしちゃったんだ。まさか修学旅行でしてしまうだなんて。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。頭で何も考えられない。あたしは小さい子のように泣きたくなった。心臓の音が大きくなりはっきりと聞こえる。
パパの言葉が頭に浮かんだ。そうだ、まずは落ち着いておむつでカバーできているか確認するんだった。
一度深呼吸をし、お尻の周りを何度か手で触り、濡ていないか確かめてみる。
よかった濡れてない。布団は?よかったこっちも濡れていない。
おむつで全部カバーできていた。よかった、ひと安心だ。
心臓は落ち着きをとりもどし、音がだんだん小さくなるのがわかった。
枕もとに置いていた腕時計を見た。まだ朝の5時だ。
これ遊佐さんに話して先生呼んで貰うべきかな。いやそんな事話す必要なんてない。
黙っておむつを片づけてしまえばおねしょはしていないことに出来る。
そっと着替えよう、今度こそおねしょをノーカウントに出来る。
はたと気がつく。今の騒ぎで遊佐さん起きたのでは?
遊佐さんが寝ている方を見ると誰もいない。よかった見られていない。
いや、おかしい!遊佐さんがいないのだ。さらに寝床が無くなっている。
消えた?今部屋にはあたし一人だ。
部屋の暗さのせいだろうか、この不自然さが不気味で怖くなった。
また心臓の音が大きく聞こえる。
部屋を見渡すと備え付けの洗面所から明かりが漏れているのが見えた。
誰か居る。ドアに近づき様子をうかがう。こんな早い時間にいったい何を?
中からドライヤーの音が聞こえる。それに泣き声のような声も。
「遊佐さん?」あたしは洗面所の方に呼びかけてみた。ドライヤーの音が止まった。
どうかしたの何かあったのと聞くと、大丈夫何でもないからという声がする。
しかしその声は涙声で、ただ事ではない何かがあったことを伝えていた。
洗面所のドアを開けて中に入る。
「やめて来ないで!」
中に入るとそこにはドライヤーを布団に当てている遊佐さんがいた。よく知っている匂いがする。おしっこの匂いだ。
遊佐さんはさっきまで寝ていたであろう自分の布団を抱えていた。
そしてその布団が濡れているのが見えた。
「ちがうの、なんでもないの」
遊佐さん顔が真っ青だ。ドライヤーを持つ手が震えている。
え、どういうこと?何が起きているの?
この光景、あたしにも覚えがある。昔同じことをしたことがある。
遊佐さんはおねしょで濡れた布団をドライヤーで乾かそうとしていたのだ。
***
「見ないでよ!!」
遊佐さんの声は悲鳴みたいだった。そして声を殺すようにして泣き始めた。
「したくてしたんじゃないのに、なんで。朝から水も飲まないようにして我慢していたのに、どうして」
大丈夫だよ先生のところに行こう、そう声をかけるとキッと睨まれた。
ものすごい敵意を感じる。馬鹿にしているんでしょう、笑っているんでしょう、そういう気持ちが伝わってきた。
あたしにも覚えがある気持ち、痛いくらい遊佐さんのことがわかる。
「待って、馬鹿にしてないし笑ってもいないから」
「あっち行って!!」
遊佐さんの声はもう絶叫だった。どうすれば信じて貰える?無理だ、拒絶されている以上、何を言っても聞いて貰えないだろう。
ならこれならどうだ、ほらこれ見ても信じられない!と
あたしはジャージとおむつ隠しのスパッツを下ろした。
その光景を見た遊佐さんは固まってしまった。状況について来れていないのだ。
目の前にいるクラスメイトはおむつ姿だ。しかもおしっこを吸収して重くなっているおむつを履いているのだ。
「あたしもしました、おねしょしました、このおむつにいっぱいおしっこしました!」
やけになった声でいうと遊佐さんは力なくその場に座り込んだ。敵意が消えたのが
わかった。先生呼んでくるね、そういうと遊佐さんはこくりと頷いた。
リエ先生はすぐに来てくれた。心配するなといって濡れた布団を片づけ始めた。
「ごめんなさい。せっかく夜中に起こしてくれたのに、わたし、わたし…」
遊佐さんはリエ先生に泣きながら謝る。リエ先生は大丈夫だからと、落ち着かせる
よう肩さすりながら何度も言った。
いつだろう、あたしが起こされたときとは違う時間だったのかな。
それなのに遊佐さんはシーツと布団も濡らしてしまったのだ。
あたしみたいにおねしょはするものという対策じゃなかったのかなぁ。
遊佐さんがあたしと同じで、おねしょが治っていない子だとは驚きだった。
だってそんな様子全然見えてこなかったじゃないか。美人で頭が良くて先生からも信頼があって。それと同時に遊佐さんが気の毒に思えた。
修学旅行でおねしょしても、あたしはみんなから馬鹿にされるくらいだろうけど、
遊佐さんは学級委員でさらに児童会生徒代表でもある。
さらには勉強が出来過ぎるせいで学校では有名人だ。
みんなからは直接馬鹿にされると言うより、ひそひそと永遠に陰口を言われ続けるだろう。
さらには児童会が開催されて講堂の壇上に上がるたび、
「あの生徒代表でしょ、修学旅行でおねしょしたっていうの」と笑われるのではないだろうか。
もしも、おねしょ代表だなんて呼ばれでもしたら、もう安心できる居場所なんて
ない。あたしだったらもう誰も自分の事を知っている人がいないところまで逃げていくしかないだろう、けど、彼女場合はどうなるだろうか。
今まで作り上げてきたものが全部崩れ落ちてしまって、二度と立ち直ることはない。
足元は崩れ落ち、光の届かない闇の底へ落とされるだろう。
自分以外の人がおねしょをしたのを見たのは初めてだ。
気が付かれない様にチラチラと盗み見る。とても悪いことをしていると思った。
はしたないし、それはいけないことだとわかっている。
この人がいつの日にか闇の底に落ちていくところを、ただ見ていることしか出来な
いのだろうか。そう思うと、あたしは遊佐さんを見ないではいられなかった。
坂井の方は大丈夫なのか聞かれたので、「あたしは大丈夫です」と濡れている
おむつ姿を見せて言った。堂々と見せるやつがいるかと先生は呆れていた。
あたしだって漏らしたところなんて見せたくないですよ。でも泣いている遊佐さんはとても痛々しく、何かおどけて、面白いことをして笑わせてあげないといけないという気がしたのだ。
わかっているだろうけどと先生は続ける。
「言いふらしたりしませんし、それにあたしだってしましたし。一緒ですってば」
宿の人には先生から話しておくからと言うと、「先生私も行きます」と遊佐さんは
右手を小さく上げて声を出した。
「いや遊佐は来なくていい、これは先生の仕事だからな」
それにこの子がしましたなんて言えるわけないだろう、だれがしたかなんてわからないようにするから安心しなさいと付け加えた。
「今の時間なら見つからないから、ふたりとも風呂に入ってこい」と先生は言って部屋から出ていった。
あたしと遊佐さんは汚れた物を脱ぎ、黙ったままお風呂に向かった。
二人とも予備の着替えは用意していた。
***
早朝の大浴場は誰もいない。体を洗い、二人で湯船に浸かる。
「あ、あの、この事は」
最初に口を開いたのは遊佐さんだったが、
「みんなに言わないでね、あたしがおねしょしたって」先に言った。
誰かに知られたらお互い生きていけないから。
遊佐さんは何も答えない。
「もしかして、あたしのことお世話係だと思った?」
長い沈黙の後、今度はあたしから話しかけた。遊佐さんはまた何も答えない。
「あたしはね、遊佐さんがあたしの係だと思ってた」
寝る前に思ったことをぽつりぽつりと話し始めた。
「坂井さんはいつ頃から?」
今度は遊佐さんから話してきた。ぼかした聞き方。おねしょと口にしたくないのかもしれない。千秋って呼び捨てでいいよ、みんなそう呼んでいるからというと、
じゃあわたしも春香でいいよと言った。
「あだ名ってないの?」と聞くと、そうねと少し間をおき、春ちゃんと呼ぶ人もいると答えたので
「じゃあハルでいいよね」とあたしは距離感を強引に詰めた。
「幼稚園の頃はほぼ毎日だったかな。小学校に上がるころにはきっと治るよなんて言われていたけど、そんな様子全然なくて6年生になってもまだ」
わたしも同じくらいと答えた後「どのくらい?」続けてきた。お互い会話は手探り。相手を知ろうとしている。
あたしはひと月に3回か4回くらいかなと答えた。
「ひと月に3回か4回、か」と言い、黙ってしまった。
なんだよあたしだけか、それはずるいぞ。あたしは顔を覗き込んでそちらの答えを
催促した。
「………2」そう答えると背を向けてしまった。ひと月に2回か、あたしより少ない回数だな。
「違う、………週に2回くらい。これでもずいぶん減ったのよ」その言い方は減ったのを強調していた。
いつもどうしているの聞くと、ベッドにおねしょシーツの組み合わせ。あたしと同じ方法だ。修学旅行ではおむつも考えたけど、心理的な負担を考えて、先生に起こしてもらうことを選んだそうだ。
話題がもうなくなってしまった。ほかに話題は何かないかなと考えているとハルの方から口を開いた。クラスメイトにおねしょしたところ見られたの2回目だと。
なんだろう、うちの学校で泊り行事があるのは修学旅行くらいだ。
他の学校にはある野外学習が無い。みんな不満だったけど、あたしはこの問題が先送りされるので非常にありがたかった。結局、先送りされただけで何も変わらなかったけど。
「だれかの家に泊まりに行ったときとか?」
「ううん、一年生の授業中。その日はちょっと風邪気味で薬を飲んでいたから、眠くて授業中ついウトウトとしてしまったの」
そんなに長い時間寝てないはずなんだけど、あたりが騒がしくなって、寝ちゃってたと気が付いたときにはもう。
「やっちゃってたんだ」
恥ずかしそうに笑う。気が付いたらおしっこが椅子から流れ落ちて床に水たまりを
作っていた。
「春香ちゃんがおもらししてるって言われたけど、寝ているときだからおもらしじゃなくておねしょだよね」
漏らしたことに変わりはないんだから、どっちでもと言うと、わたしおもらしなんてしてないからと強く言われた。どうやら違いがあるらしい。
からかわれなかった?と聞くと
「もちろんからかわれたよ。でも担任の先生がリエ先生だったの」
先生は人の失敗を笑ったり馬鹿にする奴は絶対に許さないって怒って言ってくれた、そのおかげで誰もわたしの事からかわなくなったの。
リエ先生、そのころから変わらないんだとあたしは思った。
「最初は修学旅行休もうとしたの。でも思い切ってリエ先生に相談していくうちに別部屋を用意するから来なさいって」
「同じ部屋の人に怪しまれなかった?そこはどうしたの」
「素行不良の生徒がいる。申し訳ないが指導の為に来て先生を助けてくれってお芝居してあの部屋に」
まって、素行不良の生徒ってあたし?先生酷すぎないというと、二人ともじゃない、おねしょして先生に迷惑かけているしと笑って言った。
「昨日は朝から先生にいっぱい迷惑かけちゃった。しないように水を飲まないでいたらバスの中で気分悪くなっちゃって。夜中まで時間あるから今は飲みなさいって
先生が」
そうか、だからサービスエリアで。
「わたし1人だけだと思っていたんだけど、先生が「ひとり頼りになるやつがいるから大丈夫」って。わたしも坂井さん、千秋の事、お世話係だと思ってた。
こんな重大な事についてそんなに仲良くない人にお世話されるなんてと思っていたら
何て接していいか分からなくて、不安で仕方がないからあまり見ないようにしてた。ごめんなさい」
「リエ先生にはいつ相談を?」
「新学期になるとすぐ。初めはお母さんと一緒に面談をして。あとは何回か個人面談して」
あたしが相談に行ったあの日だ。ということは先生、同じ日に別々の生徒から同じ相談をされていたのか。進路指導というのはその場の方便だったようだ。
もしかするとその日あたしもと告げると、まさかと驚いた顔をした。
この人も、あたしと同じように修学旅行の夜をどう向かえるか悩みに悩んでいたんだ。学級委員、児童会生徒代表ということを考えると、あたし以上の苦悩だったに違いない。
話をしているうちにだんだんと、遊佐春香という人に興味が湧いてきた。
何でも完璧にこなす非の打ち所がない優等生だなんて、勝手に作り上げていた
イメージだったのだ。
そう考えると他人事とは思えなくなってきた。そしてあたしはだんだんこの子が好きになりかけていることに気が付いた。
しかしなぜリエ先生はあたしを頼りになるやつだなんて。
「おーい、そろそろ上がれ」向こうからリエ先生の声が聞こえた。
行こうと声をかけると、ハルはうんと返事をした。もう泣いてはいなかった。
部屋に戻ったけど起床時間には少し早い。少し寝ておこうか。
しまった布団はあたしが使っていた一枚のみだ。先生に頼んで代わりの布団をお願いしてもらおうかと思ったが準備している間に起床時間が来てしまいそうだ。
入る?そう言うと、ハルはお邪魔しますと言って遠慮がちに布団に入ってきた。
大丈夫濡れてないからと意地悪を言うと、ハルは唇を尖らせ無言でドンと体を
ぶつけてきた。
「これ以上おねしょしないでよね」
「そっちこそ」
可笑しかった。まさか修学旅行の夜がこんなことになるなんて。
寝るのは止めよう。ふたりで体を寄せ合いながらお風呂場での続き。
今度は学校のこと、自分の好きなものの話をした。二人のおしゃべりは尽きな
かった。
***
起床時間が近づくころ、お互いの部屋に戻る。
それじゃまた、あたしもハルも名残惜しい。二日目の見学班一緒じゃないのが
残念だ。
朝ご飯を食べて荷物を片づけたら昨日と同じくバス移動。
観光地である自然公園に到着。ここでは自由行動だ。といっても学習テーマがあらかじめ決められているので
それに沿った行動の中での自由だ。
ハルのグループがいる。ちょうどそこに引率のカメラマンさんが写真を撮っていた。
ねぇとって貰おうよとと自分のグループの子とハルのグループの子たちに声をかけ、
グループ写真を撮ってもらい、こっちもお願いしますと、二人だけの写真も撮って
もらった。初めて取った二人だけの写真。なぜかハルはとても緊張した顔で真っすぐ立っていた。まったく、証明写真じゃないんだぞ。
二日目の観光もようやく終わり、帰りのバスに乗ると急に疲れがでてとても
眠くなってきた。流石に5時に起きて、観光名所を歩いたから体力は全く残って
いない。そんな状態でバスに揺られているからか睡魔がやってきた。
離れた席のハルを見るとあっちもうつらうつらしている。その時、1年生の時に教室でしたおねしょの話を思い出した。
嫌な予感がする。
あのまま寝たら、バスの中で漏らすんじゃないだろうか。
せっかくあたし以外に秘密を隠し通したのに、最後の最後でバレたら元もこうも
ない。隣の席の子は気を使って寝かせてあげようとしている。それではダメなんだ。
信号でバスが停まったところを見計らい、ハルの席の隣の子のところに行き、
ごめん席変わってとなかば強引に変わってもらった。
席に座るとハルのお腹を遠慮なくつかんだ。バスの中に可愛い悲鳴が轟く。
どうした?どうした?みんなが席から身を乗り出して一斉にこちらを向く。今の声誰?遊佐さん?
「なに、なにするの」
悲鳴をあげたことを理解したのか顔が真っ赤だ。
寝そうだったので起こしてあげたというと、なんなのふざけないでと怒り出した。
小声で耳打ちする。寝ても大丈夫?しないという自信ある?
今の状況を理解したらしく、さっきまでの怒りは急におさまり、しおらしく
「わかんない」と言った。
実はあたしもなんだ、あたしも寝たらするかもしれない。絶対寝ないようにお互い
協力しようと持ち掛けた。
話を止めたほうが負けと言わんばかりの勢いで話し続けた。
「夜街灯をセンサーで付けたり消したりするのは何のため?」
「え、なにそれ、わかんない」
「千秋の負けよ。先週の理科の小テストで出たじゃない」
話題がつきたらしいハルは学校の授業で習ったことをクイズとして出し始めた。
「じゃあドラマ『9月の恋』の主題歌を歌っているアイドルユニットのメンバー全員の名前は?」
「え、知らない」
「ハルの負け。春香さん本当に現代女子小学生ですか?常識問題ですよ」
あたしはハルが絶対見ていないだろうテレビの話題を出した。
「ずるいわよ」
「ずるくないです」
そうしているうちにあたしたちは、相手が答えられないだろうと、煽って怒らせる
ような問題を次々と出した。
おかげで二人とも、頭に血が上って眠気何てどこかへ行ってしまった。
あたしはともかく、ハルは全然引き下がる様子が無かった。
学級委員としての対面か、昨晩おねしょをして泣いていた子とは感じが違う。
遊佐春香、大人しい子だと思っていたのに負けん気が強い子だ。
***
学校の校庭にバスが到着して生徒がみなバスから降りたのち、忘れ物が無いか先生の確認が終わると、二日間お世話になったバスは帰っていってしまった。
校庭に集まり先生からのお話の後、解散になった。
「あの、ありがとう、助けてくれて」
帰ろうとしているとハルがやってきて、バスでの出来事にお礼を言われた。
お風呂で話を聞いていなかったら気づけなかった。あの話してくれてよかったよと
言った。
「ごめん、誤解してた。わたしのことからかっているのかと思ってた」
じゃまた学校でとハルは小さくあたしに手を振ってその場から離れた。校門前に両親が迎えに来ているようだ。あたしも学校でと言って手を大きく振って別れた。
こうして修学旅行は無事終わったのだった。
「ただいまー」昨日ぶりの家に到着する。
「どうだった修学旅行?」と玄関で出迎えてくれたママが聞いてきたので、もう最高だったよと、ありったけの楽しいをアピールした。
「大丈夫だったの、おねしょ?」
それには苦笑い。ごめん、大丈夫だったけど大丈夫じゃなかった!
え!どういうことという顔をしたママにあたしは鞄から汚れ物を出し、深々と頭を
下げた。ママはしょうがない子なんだからと呆れかえってた。
週明けての月曜。
「6年生全員無事に戻りました」と出発と同じく全校集会でハルは校長先生に帰宅の報告を行った。
修学旅行が終わってもあたしたちの不思議な関係は終わらなかった。
朝教室に入ればお互い挨拶は必ずするようになり、給食は一緒に食べ、
帰りは途中の玉川神社まで同じ道なのでそこまで一緒に帰るようになった。
いつからそんなに仲良くなったの?何があったの?とみんなに何度も聞かれる。
そのたびに修学旅行でね、と二人で言い顔を見合わせた。
おねしょが治らないことで新しい友人が出来た。そこだけはちょっとだけ感謝してもいいかなって思った。
ある日の放課後、二人になった教室で勉強のことを聞いてみた。ものすごい教育
ママって本当?勉強大変じゃないと。
勉強は自分で決めて始めたことで、そもそも、お母さんもお父さんも塾に行きなさいなんて一度も言ったことないと話した。
噂っていい加減だな全然違うじゃない。
「親から塾に行かされているっていうことにしなさいって言ったのはお母さん」
その方が逆に可哀そうって同情してくれて、成績のことをやっかまれたりしない
からって。
「わたし治る気配が全然なくて、自分はダメな子なんじゃないかとよく思うの」
それで何か他の人より優れる点があれば欠点があっても、ダメな子なんかじゃないって誰かが言ってくれそうでそれで勉強を頑張ることにした。頭がいいんじゃない、
人より少し多く努力しているだけだと言った。
人より少しかぁ、「それで全国模試で20番でしょ、すごいよね」とあたしが
言うと、首を振り、2番だとあたしの話を訂正した。
「え!2番?全国で?」
「もう少しで1番になれるところだったんだけどね」
誰だよ20番なんて言ったのは。何もかもみんな違うじゃない。
全国で2番かぁ。あたしにはその努力が人より少しとは思えなかった。
人に言えない秘密が増えた。あたしの秘密だけでも荷が重かったのに、
遊佐春香の秘密は沢山あって、全部荷が重そうだ。
【続く】
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