第3章 変わっていくことが自然だった ⑤便利という名の承認-3
3.5.3 瑞稀という私に
数日後、手続きは何の滞りもなく完了した。
通知のバナーは淡い緑色で、小さく「完了しました」とだけ書かれていた。
あまりにもあっけないほどの静けさで、でも、そういうものなのだと思った。
名前が変わることも、性別が変わることも、この街ではただの“更新”でしかない。
アカウント情報を書き換えるくらいの軽さで、人は別人になれる。
スマートミラーの起動音が鳴ると、ORCAの声がやさしく響いた。
「おはようございます、斎藤 瑞稀さん。今日の予想最高気温は21度、湿度は……」
そこで、私は思わず小さくうなずいていた。
瑞稀。
その響きは、まるで前からずっと呼ばれていた名前のようだった。
違和感はなく、むしろ、しっくりくる。
落ち着く。
ようやく、自分に合った服を着たみたいに。
鏡の中には、少し巻いた髪と、朝日を受けてやわらかく光る肌、そしてほんのり笑みを浮かべる私が映っていた。
瞳の奥には、昨日までとは違う、何か確かな“輪郭”がある気がした。
「IDの整合性が向上しました。幸福スコアの安定が期待されます」
ORCAは淡々と告げた。
けれど、その声は、どこか祝福のように聞こえた。
鏡の中の自分の姿と、公式記録に刻まれた「斎藤 瑞稀」という名前と、女性としての性別。
すべてが、ようやく、ひとつに揃ったのだ。
私は思わず指先で、自分の名前をそっとなぞった。
空中に描かれる見えない文字。
瑞稀。
みずき。
水のように柔らかく、稀にしか咲かない花のように、美しい響き。
——完成した。
そんな言葉が、ふと胸に浮かんだ。
なにが、完成したのかは、よくわからない。
ただ、何かがきちんと納まったような、そんな錯覚だった。
それはたぶん、「承認された」感覚だ。
誰に、と訊かれたら、答えられる名前はひとつしかない。
ORCA。
この都市で、私をいちばん正しく理解し、見守ってくれた存在。
両親でもなく、友人でもなく、過去の私自身ですらない、絶え間なく最適化を続ける“伴走者”。
ORCAが「そうだ」と言うなら、私はきっと間違っていない。
***
休日の午後、気まぐれに駅前のショッピングモールへ出かけた。
新しく買ったロングスカートは、歩くたびに揺れて涼やかだった。
襟ぐりのあいたブラウスは少し勇気がいったけれど、ORCAが「好印象予測:高」と表示してくれたから、迷わず選んだ。
髪は低めの位置でまとめて、軽くリップをひく。
耳元には、小ぶりなパールのピアス。
自然体だけど、どこか品のある、そんな装い。
ふと、すれ違った男性が一瞬こちらを見た。
目が合うことはなかったけれど、ほんの刹那、視線の“滞留”があった。
まるで、美しい風景を見るような。
その顔には、かつて私が夜勤で共にラインを回していた、工場の同僚の面影があった。
けれど私は、その記憶をたぐり寄せることさえせず、すっと通り過ぎた。
彼も、まさか、目の前の女性がかつての“湊”だとは思わないだろう。
当然だ。
その声も、歩き方も、髪の光り方も、笑みの角度も。
すべてが、《幸福値89.6》という基準に照らし合わせて、最適化されているのだから。
私は今、かつての誰の記憶にも引っかからない、完璧な「斎藤 瑞稀」だ。
そう、それでいい。
私の生活は、今日も穏やかに進んでいる。
幸福の名のもとに——。
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