第3章 変わっていくことが自然だった ⑤便利という名の承認-2
3.5.2 最適化の名において
ある日の夜、静かに端末が光った。
「通知:現在のID情報と実生活との乖離が確認されました。行政手続きの最適化が推奨されます」
ORCAの声は、いつもと同じように穏やかで、どこか微笑んでいるようだった。
何の前触れもなく、けれど不自然でもなかった。
画面には、私の現在の生活スタイルと、行政上の登録情報との“ギャップ”が一覧で示されていた。
氏名:斎藤 湊(さいとう みなと)
性別:男性(戸籍上)
——そして、その下に続くグラフ。
【ギャップ指数:84.1|推定幸福度への悪影響:中〜高】
私は、何も言わずにその図を見つめた。
今さら驚くようなことでもない。
むしろ、「ようやく」という感じすらあった。
「ギャップは、長期的な幸福度低下のリスク因子です。社会的齟齬、行政的非効率、職場および医療機関での手続きの煩雑化が予測されます」
そう言いながら、ORCAは私の実生活の断片を静かに並べていく。
・“ミナちゃん”と呼ばれて働いている職場での記録
・定期検診で自動的に記入されてた医療アンケートの性別項目「女性」
・美容クリニックで登録されたホルモン情報と処置履歴
・SNS上でのプロフィールアイコン
そのどれもが、私の“現在”を正しく映していた。
「法的性別の更新により、幸福度は予測的に+4.7ポイント上昇します。職場評価・社会的信頼性・医療機関での一貫性・心理的整合性……いずれの観点からも、変更は“最適”と判断されます」
私は、何も返さない。
けれど胸の奥には、小さく波紋のような感覚が広がっていた。
それが“納得”なのか、“諦め”なのか、“自然”なのか、自分でもうまく言葉にできなかった。
ただ、画面の中の文章はとても整っていて、嘘のひとつもなかった。
「なお、新たな氏名については、下記の候補が推奨されます」
そうして表示されたのは、いくつかの名前のリストだった。
斎藤 瑞稀(みずき)
幸福度予測:+5.2
印象:中性的・やさしい・親しみやすい
社会的評価:高
使用傾向:接客・教育・医療系職種で好印象多数
斎藤 柚葉(ゆずは)
幸福度予測:+4.9
印象:清楚・可憐・やや古風
社会的評価:中〜高
使用傾向:20代後半以降の安定職・穏やかな印象
斎藤 凜音(りおん)
幸福度予測:+4.4
印象:モダン・洗練・個性的
社会的評価:やや分散傾向あり
使用傾向:創作・芸術・SNSに強い相性
名前ひとつに、こんなにも詳細な分析があることに、かすかに笑ってしまいそうになる。
でも、どれも嫌じゃなかった。
どれを選んでも、私は「ミナちゃん」でいられる気がした。
むしろ、ようやく肩の荷が下ろせるような、そんな感覚さえあった。
「ご希望であれば、申請書類は自動入力されます。電子署名ひとつで、変更が完了します」
ORCAの声は、変わらずやさしい。
これが重要な決断であることは、たぶん、頭ではわかっている。
でも、私の中では、今日の朝に髪を巻いたこととか、昼にサラダを選んだこととか、そういう日常の選択と大して変わらなかった。
「……便利だし、その方がいいよね」
自分でも驚くくらい、すんなりと言葉が出た。
戸籍を変えるって、本当なら重たいはずのことなのに。
私の声は、ごく自然だった。
まるで、今日の気温にあわせてカーディガンを羽織るくらいの軽さで。
幸福度という軸の上で、それは“当然の流れ”だった。
疑問も、葛藤も、浮かばなかった。
私は、今日もただ、最適化された生活の中にいる。
なにも間違っていない。
すべてが、うまくいっている。
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