第3章 変わっていくことが自然だった ②ミナちゃんって、呼ばれたから-2
3.2.2 ミナちゃんって、呼ばれて
「ねえ、ミナちゃん」
その声が聞こえた瞬間、心臓が一度、強く跳ねた。
休憩時間だった。
ペットボトルのキャップを開けた手が止まり、俺は無意識にそちらを向いた。
声の主は、昼のラインで隣だった先輩の女性。
にこにこと、何でもない顔をしてこっちを見ている。
「え……?」
わずかに硬い声が漏れたのは、驚いたからだ。
でも、それだけだった。
「ごめんね、下の名前だったよね? “ミナト”って。かわいくて、つい“ミナちゃん”って呼びたくなっちゃった」
そう言って笑う彼女の顔には、まったく悪気がなかった。
ただの軽いあだ名のつもり。
よくある職場の呼び方。
誰にでも起こりうる、些細な会話の流れ。
でも――
それなのに。
「……いえ、大丈夫です」
とっさにそう返していた。
否定もしないまま。
その名前の響きが、なぜだか胸の奥に、ぴたりとはまった。
“ミナちゃん”。
聞き慣れないはずの音が、心の深いところに、妙な温度を残していく。
くすぐったいような、心地よいような――
不思議な感触だった。
周囲にいた何人かの同僚も、それを聞いて笑っていた。
「ミナちゃん、確かに合ってる~」
「イメージぴったりじゃん、やわらかい雰囲気だし」
「うんうん、初日から見てて思ってた! 名前呼びやすいし、なんか癒し系」
誰も、名前のことを深く追求しなかった。
性別にも、過去にも、一切触れずに。
ただ、今この場にいる“私”を、「ミナちゃん」として受け入れてくれている。
笑いながら、「ごめんね」と言った彼女の目は優しかった。
その優しさに包まれていると、なぜか、少しだけ息がしやすくなった気がした。
ORCAが耳元で、そっと通知を送ってくる。
「心理的親和性の向上を検出」
「周囲とのラポール形成を強化します」
「幸福度:84.0 自己認知と他者評価の整合が安定的に確立されています」
ふわりとした安心感が、胸に広がる。
これは「演じている」のとは違う。
何かを頑張って取り繕っているわけじゃない。
ただ、「そう呼ばれること」が、こんなにも自然に、嬉しいと思ってしまった。
俺は、斎藤湊。
でも――
ミナちゃん。
そう呼ばれて、内側から「うん、そうかも」と、微かな肯定が芽生えた。
その名前が、他人のものじゃないような気がして。
本当はずっと前から、どこかでその響きを待っていたんじゃないかとすら思う。
鏡を見なくても、今の自分がどう見えているか、少しずつ分かるようになってきた。
声のトーン、口調、仕草。
ほんの僅かずつだけど、日々ORCAから提案される微調整に、もう何の抵抗もない。
口角を少しだけ上げるタイミング。
語尾をやわらかくする話し方。
まばたきの頻度。
姿勢の角度。
最初は「工場用AIの指示みたい」と笑っていたような、細かすぎる指摘も、今では自然に身体の一部になっている。
それが“なじむ”ということだとしたら。
私は今――
“ミナちゃん”という名前に、なじんでいく最中なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ、息を吸うのが楽になった。
笑うのも、構えなくてよくなった。
職場の空気は、やさしい。
この都市の空調みたいに、ぴたりと最適な温度で、私を包んでくれる。
たとえ一言のあだ名でも。
誰かがくれたその“呼び名”が、自分の一部になることがある。
「ミナちゃん」
呼ばれるたびに――
私は、ほんの少しずつ変わっていく。
その変化が、怖くなかった。
むしろ、気づかれないように微笑む唇の奥で、そっと囁く。
(うん……きっと、私はそういう人間なんだ)
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