8-3 岐路に立つ
「アステル様、大きなたんこぶができてます。痛みますか?」
「……結構痛いな。ゾーイの拳は硬かった」
「アステルが悪いんでしょ。乙女を無理矢理抱きしめておいて、ゲンコツで済んで良かったと思ってよね」
「すまん」
「まぁ……いつの間にかアステル様を呼び捨てにするほど仲良しになったのね」
「割と最初から呼び捨てだよね?」
「あぁ、オレは……ゾーイがすごい人だと知ってるからな。アイリスより先に知り合ってるし」
「ふふん」
「ははー、なるほどですわ……」
ゾーイにゲンコツをもらったアステルは、濡らしたハンカチを頭に乗せている。
今日は隊服を脱ぎ、ゆったりしたシャツとパンツ姿で畑仕事を手伝う事にしたようだ。
アイリスも同じような服装で髪を結い、ガーデニングの道具をカゴに入れて歩いている。
ゾーイはいつもの通り、半袖に短パンといういでたちだ。ここが城の中とは思えないのどかな様子の一行を、朝早くから働く者たちが微笑みで見送っている。
背後でアステルに睨みを利かせているアリ、テオ、カイ、リュイはアギアの服装で相変わらず護衛をしている。
大人数でやってきたのは、エピフィラムの畑だった。
すっかり綺麗になったそこは杭や柵が打ち込まれて、見た目は完全に畑だ。地面は砂地だから、毎日水をやっても次の日には乾いてしまう。水捌けの良すぎる場所である。
だが、そこには一面の緑があった。
砂地の上にびっしりと生えた新芽は緑の絨毯と化している。
「すごいな、乾いた土地でこんなに芽を出すのか。これは一体何の植物なのか、そろそろ教えてくれないか」
「ええと、ええと…………アリ」
「いいぜ、伝えても。どっちにしても話すつもりだっただろ。俺たちは全員知ってるんだから」
「む、そうなのか?」
「はい、申し訳ありません。アステル様を巻き込むのはいかがかと思っておりました」
「そうか……巻き込んでくれ、ぜひとも」
「では、今からお伝えすることは他言無用でお願い致します。まだ実験段階ですし、とても大切な植物なのです」
「あぁ、わかった」
アイリスが話す月下美人――エピフィラムは、この世界では万能薬だ。それが目の前で育っていると聞いてアステルは驚かなかった。
ずっと、彼女は何かの役に立つ事をしていると信じていたから。
少しずつ語られる緑の国の話を聞き、遺跡のある森の中で見つかったのが出自だと知ると、彼はほのかに微笑む。
アイリスならば、出自を自ら見たいと言い出すだろう……だから、遺跡に連れていく約束をアリストとしていたのだ。
「と言うわけで、各国を行き来するアリはいろんな場所でエピフィラムを育て始めました。私もここで育てて研究しております。
各地に蒔いた種は芽を出すものもあれば、出さないものもあります。それから……この植物は挿し木ができますから、ゆくゆくはそれが栽培方法として確立されるでしょう」
「茎を折って挿すのか?」
「はい。ただ、これは元々私が〝日中に咲く花”〟を夢で見たことがきっかけで始めたのです。残念ながら、あれはエピフィラムではなく似た種類の別物でした」
「ふむ?」
「エピフィラムは原種で夜にしか咲きませんが、昼に咲くクジャクサボテンと同じく多肉植物です。
私はそれと間違えていたのです」
「間違ってても問題ないだろ?どっちにしても強い植物だってことがわかっただけでも儲けもんだ。今まで温室の中でしか育てられなかったが、日の当たる森に植えたら大量に芽を出して成長してる んだからな」
「普通の森ではまだそこまで成果は見られませんわ。どうやら、緑の国の森は精霊のご加護があるようです。名前の通り、緑に愛された国なのでしょう」
「まぁな、だがあんなに大量に生えちまえば経済をぶっ壊すだろう。それまでにうちの国はどうにかしなきゃならない」
「なりますわ、あなたは交易がお上手ですもの」
「ふ、アイリスがいなけりゃその腕を披露する暇もなかったがな」
アリとアイリスが二人でしゃがみ込み、仲良く話す様子を見て他の男子達は不満げな表情を浮かべていた。アステルまでもが同じ顔になっていて、ゾーイは吹き出しそうになる。
「オレも植物には詳しいんだが」
「アステル様は、市井で可食の野草を見分けられるのが得意でしたわね」
「それを言うなら私の方が得意だろう」
「テオ、あなたは薬草の専門家でしょう。張り合わないでくださいまし」
「……わたしは、よくわかりません」
「リュイが知らないなら教えます。皆さんでお勉強しましょう。
今日はこのもじゃもじゃ畑を間引きして、強い苗を残します。数が多いのでここにいる皆さんに手伝っていただきますからね」
ゾーイは、大の男5人が縮こまり、苗を抜いてはカゴに入れ、アイリスの指示を仰ぐ姿を見ている。
作業をしたあと朝食をここで食べるからと新しく作った木のベンチを見つけ、思わず飛び乗った。
柔らかくまろく削られた木椅子に座り、男子達がいちいちアイリスにいいところを見せようとする様子を見て……また笑ってしまう。そして、涙がこぼれそうになった。
(この光景は、本来ならパナシアが中心に為すべきだった。でも、今や本物の聖女が見つかってしまったよ。
さて、本物が偽物に、偽物が本物となった聖女達はどうなってしまうんだろう。こんな事、歴史書には載ってなかったんだよねぇ)
不安な気持ちを抱えつつ、本の山に埋もれていた若い時を思い出す。星隔帯の研究は、聖女を知らなければできない。どうして彼女達が星隔帯を治せるのか……それは長く生きて研究に没頭したゾーイでも、いまだに解明できていない謎の一つだ。
だが、彼は星隔帯だけでなく聖女の専門家とも言える。
それぞれが聖女をめぐって争い、早くに聖女が亡くなって五公国全てが乱れた時もあった。
順繰りに聖女を賜ると言う同盟も、今回崩される寸前であり……歴史的な危機に陥る可能性もあったのだ。頼りのパナシアの力も弱く、黒の国の国力が回復する兆しなどなかった。
だから、ゾーイもいつしか荒れてしまっていたのだ。彼だって、ただ星隔帯を研究するのが好きなのではない。
『星隔帯を守ること』が『この世界を守る術』だと知って、命をかけない方がおかしいだろうと言う信念一つで働いてきた人なのだから。
彼が絶望に染まっていく傍で、ただ戸惑っていたパナシア。どうしたら彼女が聖女として役に立てるのかを必死で考えて伝えても、何も成果が出なかった。
自分の血の繋がる者たちが、研究者の仲間達が、美味しいパンをくれるパン屋が、街の人たちが、みんなが笑顔で暮らせれば幸せだろうなと憧れていた。廃れていく世の中で誰かが傷つき、地に伏せてゆく様を見たくなかった。
誰かの幸せが……誰かの笑顔が自分の幸せなのだと知っていた長生きのゾーイは、ずっと、ずっと苦しんでいたのだ。自分が知った長い長い歴史に、暗雲が立ち込めていることが我慢ならなかった。
大切な一人を持たない彼は、大勢を愛していたからこそ……その絶望は深かった。
――それが、今。
汗を流して輝く笑顔を浮かべる若人達が確かに目の前にいる。希望に満ちて、この先の未来を担う者たちが。
聖女を必要としたことのない国に生まれた人魚姫のアイリスは……全ての国を救おうとしている。そして、聖女の存在自体が必要のない未来を作るだろう。
(ワシは、間違いなくこの世界のターニングポイントにいる。アイリスは天からもたらされた福音であり、救世主に他ならない。
五公国全ての後継を黒の国に集めたのはパナシアだけど、彼女の役割はそこまでだった。……あの子の神聖力はもう、なくなってしまうだろう)
そう、暖かな布にくるまったパナシアは自分の仕事を放り出してしまっていた。鍛錬に励むこともなく、本当に何もしていない。神聖力は使い続けなければ、使われなくなった泉のように枯れるのだ。
朝の静かな青い空気が、来光に染まり柔らかな金色へと変わる。アイリスは光を浴びて作業の手を止め、膝をつき胸の前で手を合わせて頭を下げた。
それはこの世界の祈り方とは違う作法であり、日の光を崇めることのない彼らには見慣れない仕草だった。
だが、日の光に包まれたアイリスは瞼を閉じて一心に祈りを捧げている。清らかなその姿に感化されて、5人の男子もまた同じように手を合わせた。
異界の新しい文化は、アイリスによって『聖女革命譚』の名に相応しくこの世界にもたらされようとしている。
新しい芽吹きの前で、敬虔に祈る彼女から溢れ出る神聖力。それによって万能薬のエピフィラムは完全な成長を遂げるだろう。
それぞれの国の問題はすでに明らかになり、彼女の掌中にある。そして……その解決方法も。
今までの歴代聖女は、誰に教えられるまでもなく〝何か〟に祈りを捧げて生きてきた。それは生まれ落ちてからすぐに行われる習慣で、成長していく過程が、積み重ねてきた祈りが聖女を聖女たらしめる。
清らかな乙女は最初から、アイリスだった。パナシアが十分な力を発揮できないのは……この習慣がなかったからだ。
きっと、彼女の革命は成る。ゾーイは一人大きく頷き、ついに目尻から雫をこぼした。
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「アイリス、そっちのゴミも持っていくぞ」
「ありがとうございます!これでだいぶすっきりしましたわね」
「あぁ。……せっかくの休みなのに、ごめんな」
草の山を抱えたアステルは、どこか気落ちした表情を浮かべていた。ここはパナシアの畑だ。
聖女パナシアが管理していたはずの聖女の薬草園はもはや雑草ばかりになり、強いはずのハーブも枯れている。無惨な畑は怠惰によって作られたもので、それを掃除させていることに罪悪感がある。
雑草を除去し、きれいになった後残っていたのは腐りかけた一つのハーブだけだった。
「……それ、復活するか?」
「ええ、根は腐っておりませんし元々このハーブ……いえ、薬草は強い種類ですから」
「トゥルシーは町に生えていたものだ。自宅にあったのをここに持って来た。
胃が弱い者や、暑い季節にも手先が冷たい者に飲ませる薬草として使っていたんだ」
「ええ、これは不老不死の妙薬とも言われる物ですから。老化防止、抗菌作用、頭痛に冷え性、呼吸器、肝機能を守り胃炎も抑えてくれます」
「……よく知ってるな?」
「はい。本で見ました」
「――アイリス」
膝をつき、泥だらけの彼女の手を取ったアステルは真剣な眼差しを向けた。アイリスは目を逸らし、前世でホーリーバジルと言われたハーブを眺める。
植物については前世と全く同じものがたくさんある。効能はやや違いがあるものの、概ね同じだったし解明されていないものがあるだけだ。
そして、そろそろ話をしなければならないと感じた彼女は自ら薬草の知識を伝えてみた。
「今君が言った知識は本にない。薬草については各国で資料はあるものの、トゥルシーについては研究されていないんだ」
「…………はい」
「前世、と言っていたな?聞いたことのない言葉、知識、常識……君はオレの知らないところでオレに会ったことがあるんだな?」
「…………はい」
カーテンの締め切られた窓、その内側にいるはずのパナシア。彼女はもう、ずっと外に出ていない。聖女が作った薬草は特別効能が強い。……アイリスが暮らしていた海の中では海藻がそれにあたるが、確かに薬にした時の効能は強かった。
薬草園を作ることは聖女の義務であり、誰にも教わらずに自然に作るのが聖女の習性だ。
だが、パナシアは全てを放棄している。アイリスが代わりに作れば同じような仕事ができる。パナシアがアステルと共に国を出奔すれば、このような異常事態は改善できるのかもしれない。
――であれば。もう、彼には全てを話すべきなのだろうとアイリスは思う。出発は早いほうがいい。
「私の秘密をお話ししますわ。どこまでお伝えできるかは分かりませんが、アステル様にはお伝えしなければと思います」
「そうしてくれると助かる。オレも、疑問がある。アイリスのことではなく、パナシアのことで」
首を傾げたアイリスを見つめ、アステルは口の中が苦くなるような心地になった。こんな事を口にするのは妹への侮辱であり、裏切り行為だと思っている。
だが、この先の未来で自分が死ぬなら一度それをはっきりさせておきたい。
もし死を免れたとしても、今の彼には、妹と共に生きる未来がもう見えなかった。
アイリスが頷き握った手に力を入れ、アステルの手を握り返す。土に塗れた二つの手は、昔々に同じようにして握り合ったパナシアとの記憶を蘇らせる。
あの時とひどく似た胸の高鳴り――けれど、どこか違う音を感じながら、アステルは静かに微笑んだ。
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